さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第一部 3

「久しぶりに帰ったと思いましたら、また司祭長様と言い争っていましたのよ」
「サウィーン様もよくあのような素性の知れぬ娘を神殿にお置きになられるものだ」
神殿にいたラミィを廊下で見かけた中年の女神官達は、先日のサウィーンとの口論を噂していた。
だがラミィはひそひそとした噂が耳に入っても構わず歩く。
(ほんっとに居心地が悪い所ね)
ラミィが参道前にいる彼らの方を向くと、神官達はびくりと肩を震わして神殿の中へ入っていった。
 半ば八つ当たりのように、彼女は前方にそびえる神の像を睨み付けながら階段を下り、参道を歩いた。
太陽は傾きはじめ、晩方の爽涼な風天日で乾燥した土を白い石畳の上に乗せていく。そしてまた新たに風が吹くと、砂が取り払われて敷石の形を浮き彫りにしていった。
 ラミィは事務所に入ると掲示板の横にある出勤確認表の中の、遅番と書かれた部分に自分の名前のある木の札をぶら下げた。
部屋の左隅ある会議室から各地区の引継の為に団員が話をしている声が漏れている。しかしラミィはその中に加わらずに正面の窓口の前に立った。そして机を拳で二回叩き、所員を気づかせる。
「今日はメレーナの街道とその付近も回ってくるから遅くなる」
「え? 貴方今日はジェニカと神殿の警備でしょ」
机の上にある書類をまとめていた女性事務員がきょとんとした目をして言った。
「そんなのジェニカ一人で十分」
「だ、駄目よ困るわ」
所員が席から立ち上がって制止するのも聞かず、ラミィは足早に出ていった。
「まったく……」
 彼女がため息をつきながら椅子に座り直すと、会議室の扉を開けてテオフィロが入ってきた。茶色い麻の服には剣を下げておらず軽装である。
「どうした?」
「ラミィが勝手に巡回区外へ行っちゃいました」
彼女は椅子に凭れ、首を傾けてテオフィロを見た。そして彼の頬にある痛々しい青紫色の痣を見て思わず言葉を失った。
昨日のラミィの一撃は彼の浅黒い肌の一部を変色させ、精悍な顔立ちを台無しにしていたのである。
「昨日かなり怒ってたからな。あいつにはあいつのやり方があるんだろう。やらせとけ」
テオフィロは勲章に触れるようにほお骨をさすりながら微笑んでいた。


 その少女は、ラミィが事務所を出ると喜色を満面に駆け寄ってきた。
肩まであるスクルドと同じ銀色の髪は彼女の表情をより明るく見せ、ラミの表情もほころんだ。
「ラミィさん!」
「クレア、また山菜取り?」
腕に通している籐で編んだ籠の中には何種類もの薬草と山菜が所狭しと入っている。
「うん。今山から降りてきた所なんだけどね……」
鼻の周辺にあるそばかすとふんわりとした桃色のスカートが幼さを醸し出しているが、彼女はスルクルドと二歳しか違わない兄弟である。
そのクレアの顔が曇った。
「今お兄ちゃんに言いに行こうかと思ってたんだけど……」
「スクルドは今日夜勤だから中で寝てるんじゃないの?」
そう言いながらラミィは顎でくい、と事務所を指した。
「そう……」
両親を事故で亡くし、兄弟二人きりの暮らしでクレアがどんなにスクルドを頼って生きているかラミィは知っている。気になった彼女は腰を折って屈むとクレアの背丈に合わせて言った。
「どうしたの?私でいいなら聞くけど」
クレアは後ろを向いて後方の山を指さして言った。
「トゥーラ近くの山の中で変な臭いがしたの。豚や牛をさばく時の嫌な臭いよ。気持ち悪くって急いで帰ってきたの」
(肉をさばく時の……?血と内臓の臭いの事ね)
「どの辺?」
ラミィは目を細めてクレアの隣に並んで立った。
夕焼け色に染まった雲彩の下にあるなだらかな丘陵は、残照に照らされて紅葉しているようにも見える。
「丘を登りきる手前よ、あの辺」
クレアはつま先立ちをして前方の小山を指さす。それからすとん、と土踏まずを地面に付けて不安そうにラミィを見た。
「解かった、見てくるからもう家に帰りな」
ラミィは彼女の背中を軽く叩いて言った。
「ありがとう」
花が咲いたように、クレアの表情が明るくなる。
「でも今日の分には足りないからネスの方で採ってる。お兄ちゃんよく食べるから」
彼女はそう言うと、手を振ってから街道を歩いていった。
(よく出来た妹ね。スクルドにはもったいない)
ラミィもまたにこやかに手を振っていたが、彼女が2軒先にある服屋の路地を曲がって姿を消すといぶかしげに振り返った。
(さて……と)
ラミィはベルトをきつく締め直し、太陽が隠れつつある山の際に向かって歩き出した。


 半時ほどしてラミィは森の中の、結界の効力が一番薄い地点にさしかかっていた。
クレアが山菜取りに行った場所はアストラル結界の外れで、丁度ソル・ハダトとソル・アラムの神殿に置かれているアストラル結界の狭間であった。
むせ返るような土と草のにおいはあるものの樹木が西日を遮り、街中よりは幾分涼しい。とはいえ、山道を歩き続けたせいか次々と額に汗が浮かんでいた。
上着の下に来ている真っ赤な服は汗を吸って肌にまとわりついている。胸元が大きく開いた服から汗で濡れた胸が見えると解っていても彼女は気にもせず上着を脱ぎ、腰に巻き付けた。すると剥き出しとなった腕から冷涼な風がラミィの体温を奪っていった。
 ラミィは深呼吸を一つすると、暮色蒼然の空を見上げた。
(だいぶ暗くなってきたな……明かりを持ってくればよかった)
彼女は足下に転がってる折れた枝を拾った。そして胸の谷間に手を入れ、懐から一枚の布を取り出す。
ラミィがそれを枝の先端に巻き付けるや否や、外気に触れた布は斑点状に発光し始めた。光苔の発光成分を染みこませた布きれは黄緑色にぼんやりと辺りを照らし出す。
 柔らかな明かりと森林の呼吸がラミィから緊張感を拭い去り、散歩気分にさせていた。
山路を辿り中腹にさしかかった所でラミィは何本かの常磐の木が倒れていることに気づいた。
道の脇に切り株が点在しているのである。
その切り口に、ラミィは注目した。
(……焼けてる?)
斧で切ったようには見えない、木の繊維が綺麗に断ち切られている小口には焼けた跡があった。
(誰よこんな事したのは)
切り株から上はすぐ側に倒れている。無秩序に倒れている木々は木材を調達する為に伐採された様には見えない。
ラミィが道の先を見上げると、無惨に倒された木は丘の頂上まで続いていた。
 その時、一陣の風がラミィのもとに異臭を運んだ。
(……この臭いは……)
先に進むにつれて、その臭みは強くなっていく。
ラミィは乾いた唇を舌で舐め、刃と鞘がこすれて音を出さないよう剣をゆっくりと抜いた。
光苔の怪しいまでの灯りは刃に当たって月影のような光を放つ。
鼻の粘膜に浸透してくる生臭い悪臭の元を探すために、ラミィは五感を研ぎ澄ました。
 虫たちの声すら聞こえない静けさの中で自らの呼吸だけが聞こえ、ラミィは不意にある錯覚に陥った。
…自分の立つ場所がトゥーラの丘陵地帯では無く、コロッセウムの貴賓室ではないかと。
「ヌートの……血祭り」
ラミィはつぶやいた。
ヴレード皇帝の生誕月に行われる死の祭り、ヌート。
 隣の椅子に座る母は震え、羽の飾りがついた扇で目を覆っていた。
だが、ラミィは目を反らすことさえ出来なかった。
生き抜く為に殺し合いをする者たちへの恐怖が最高潮に達した時、幼いラミィはそこから逃げた。
近衛兵が口々に呼び止める中で辿り着いたその場所の臭気が今もラミィの鼻にこびりついている。
戦いに敗れ、肉の塊と化した奴隷が無造作に積み上げられた墓場に群がる小さな虫の羽音と、民衆の狂気に満ちた歓声が脳裏で警鐘のように点滅している。
それでも腐った人間の肉が太陽に焼かれて煮えた激臭は、記憶から呼び起こされたものでは無かった。
 ラミィは足下に密生している低木の枝葉を剣で薙ぎ払い、嗅覚を現実に戻そうとした。
「……何コレ……」
散った草は、朽ちた人形のような死体の上に落ちた。
血に染まった衣服は焼けこげ、その者の二つに分かれた胴体からは内臓が突出している。
(セイランを迎えに行った時と同じだ)
ラミィは咄嗟に思い、片膝をついて座って乾きかけている切断面に触れた。
鬱陶しい程の量の虫がたかっており、触れた指先から蛆が登ってこようとする。
彼女は手を振り払った。
(そう新しくはない死体だね)
うつ伏せに横たわってはいるが顔は横を向いていた。ラミィは人物を特定する為にのぞき込んだが、恐怖に歪んだ人相では町人の誰かも判断がつかなかった。
(まだ近くにいるのか?)
ラミィは立ち上がって周囲を見回した。
 林立する木立の間に人の影のような背の高い草ばかりがラミィを取り囲んでいる。
彼女が応援を呼ぼうと剣を構えながら来た道を戻ろうとした時である。
(しまった背後を……!)
背後から凄まじい邪気を感じてラミィは振り返った。

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