さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第一部 2

 店の中は薄暗いが、窓の隙間から朝日が射し込んでいる。
マスターは煙草を口に銜えながら窓を開け、風を入れた。
「粥が出来たぞ、そろそろ起きたらどうだ?」
 カウンターの上になめした革を敷き、店の主は一人用の土鍋を置いた。
蓋が開けられると、立ち上る湯気が顔に当たってラミィは突っ伏していた顔を上げた。
土の中の硝子成分が高熱で炙られて器の表面に溶け出、茶色と緑色の入り混じった美しい光沢にラミィは目を細める。
眠気が引かないラミィは顔に袖の皺跡を付けたまま、もつれたような口調で言った。
「何コレ……私酒のおかわりを注文したんだけど」
「三時間くらい前にな」
マスターはカウンターの下にある灰皿に煙草を押し付けて火を消しながらそう返した。
(また注文だけして寝付ちゃったのかな)
ラミィは体を反らし、両腕を上げて伸びをした。欠伸が出て、長い睫毛の縁にじんわりと涙が浮かぶ。
「お前が寝ている間に朝番のスクルドが来て、お前にって注文して行ったんだよ」
ラミィは動きを止めた。
(スクルドが?!)
「昨夜はいつもより飲んでいたから消化のいい物を作ってやってくれって」
マスターの髭の下は、ほころんでいた。
(おせっかいな男)
ラミィはマスターを睨み付けてから肩肘を付き、手に顎を乗せてそっぽを向いた。
 この時間、店は準備中でマスターが夜に備えて仮睡眠を取る時間であった。店の主は重たそうな瞼で欠伸をしながら言った。
「代金はスクルドがもう払ったから気にするな。飲み物は果汁を指定だけどな」
マスターは果汁をグラスに注いだ。
柑橘類特有の清涼感溢れる香りがラミィの鼻を衝く。だが彼女はその香りを無理矢理否定するかのように言い放った。
「おごるなら酒にしてくれれば良かったのに」
それでも、喉の渇きを癒すために彼女はグラスを手にとって中身を口へ一気に流し込んだ。
唇に果肉が付き、ラミィは舌をちらりと出して舐め取った。
採りたての青臭さが少々口の中に残り、酸味のおかげで眠気は消えていった。
「昨晩は店で飲み明かすような嫌な仕事だったのか?」
 マスターは食器を拭く作業を始め、カウンターの前にある棚の中に一つ一つしまっていく。繰り返される単調な作業を見ながら、ラミィは粥をすすった。米と卵で出来た素朴なお粥は熱湯のように熱く、猫舌のラミィに食べられる熱さではない。彼女は息を何度か吹きかけてから口に入れた。
「別に……ただ、また馬鹿な神官が1人増えるってだけよ」
口にふくませたまま、ラミィは続ける。
「セイランって言う神官がね」
マスターはグラスの中に布を入れて、回しながら拭いていた手を止めた。
「セイラン様がお帰りに?」
ラミィは口に運ぼうとしていた匙を降ろした。
「おっちゃん知ってんの?」
「そりゃ〜知ってるよ。アヴァンクーザー神の愛娘と称されていたくらいの聖女の息子だぞ?あん時は村の男どもはショック受けて仕事にならなかった」
「あの時?」
ラミィはまた粥を啜り始める。
「サーラ司祭はセイラン様出産の際に亡くなられたんだ。姉のサウィーン様も大層なお悲しみで・・・」
悲愁を帯びた声でそう話すマスターを横目に、ラミィは食事を続けた。
「へえ……」
拭き終わったグラスを掲げ、布の繊維が付着していないかマスターは目を細めてよく見る。
「そういえば、スクルドが巡回回数増えたって言ってたぞ」
「せっかくの休みなのに…確認しに行かなきゃいけないじゃないの」
 ラミィは粥を半分食べると、匙を土鍋の縁にかけた。酒がまだ胃に残っているのか、これ以上は入りそうにも無いのだ。
(あんな魔物が近くに出たから……だね)
アストラルの結界の中に入れる魔に、下等な者はいない。
だがここは神の力に守られた聖域とも言える場所なのだ。少なくともアストラル圏内に住む住人にとっては。
自警団の者も魔を初めて見た筈である。ラミィが憂慮する点は前夜の事件が町に広まっていれば皆恐れ、おひれのついた噂を口々に混乱しているかもしれないという事であった。
「これじゃ気になって寝れないよ」
町の様子を見る為に、休日に予定していた昼寝を諦めてラミィは席から立ち上がった。だがラミィは咄嗟にこめかみを押さえた。
「うわ、痛……」
(飲み過ぎたのかな……)
 脳へ圧力がかかり、目の前に火花が散って激痛が走る。刹那、動きが出来ず頭を何かに押さえ込まれているような痛みにラミィは耐えた。彼女が滅多にならない二日酔いである。
よろよろとしながらラミィは隣の椅子にかけておいた外套を二つに折って腕にかけ、出口へ足を向けた。
「おっちゃんご馳走様」
ラミィはそう言うと、扉を開けて眩しい程の暑い日差しが射す通りへと出て行った。
「それはスクルドに言ってくれ」
 最後の客が出て行くと、マスターは手にしていた布をカウンターの上に放り投げる。
そしてようやく就寝できるという喜びからか、鼻歌を歌いながら店の奥へ歩いて行った。


 町に変わった様子は見受けられない。
家事をする為に井戸から水をすくう母親、その回りで遊びまわる子供達。木陰でパイプを燻らせながら談笑する、年老いた者達。
ラミィは彼らの傍を通りながら聞き耳を立てていたが、昨夜の話は無いようだった。
(……誰も知らない……?)
仕事もすること無く娘の世話になりながら、趣味に時間を持て余す老人達が一番に飛びつくであろう話題の筈であった。彼らは十年ぶりだとか19歳で司祭にまで上り詰めたのは彼が初めてだとか、感慨深げに誰かの話題に盛り上がっている。
だがその風景は昨日と同じ日常のままであった。ラミィの短く紅いスカートをさらい、太股と臀部を涼しくして通り過ぎる朔風の心地良ささえ同じなのだ。
棚雲から姿を見せる太陽を直視してもまだ目がくらむ白色ではなく薄っすらと橙色に見えており、天頂に辿り着くにはあと四半刻程かかりそうであった。
朝の忙しい主婦達の動きを目で追いながら、ラミィは神殿の参道入り口の両脇に聳える白い神の像の前まで歩いて来た。
 神像は自らの存在を堂々と誇示し、当然として白い彩華を放っている。
アヴァンクーザーの神像の神は細波のように艶めく裸体を隠し、今にも風の動きに合わせんばかりに浮き上がりそうであった。静婉な曲線を描く体躯に寛容な面立ちは母性的ではあったが、何処か幼女にも見える。
『過去数千年の歴史の中で、神の姿を見たものはただ一人、我々人類の祖アヴェル様です。しかし年を経るごとに彫刻師達の手によって神の真実の姿が歪められています。今やそのお姿を正確に伝える像は、ソル・アラム本殿の宝物庫に保管されて重要な神祭りの時にしか拝謁する事が出来ません』サウィーンの話を想起ながら、ラミィは神に睨みを利かせた。
(私は、アンタになんか頼らない)
決して神に屈しないという己の誓い。
(アンタは人を操る傀儡師よ)
ラミィにとって聖なる神は魔族と同様であった。それでも彫像は、ラミィを見下ろして暖かい眼差しで微笑んでいた。
 仕事の前に必ず行う定例の儀式を終えてから、ラミィがすぐ脇の自警団の管理事務所に足を向けた時である。
神の門を通って神殿から出てくる者が視界の端に見えた。
その者を待ち受けていたかのように、木綿の布にくるんだ赤子を抱いた若い母親が駆け寄る。
「セイラン様…・・・よくお戻りになられました」
名を呼ばれた黒髪の神官は、朝陽を浴びながら夏の暑ささえ忘れる清清しい微笑を浮かべた。
(あの男……昨日の)
紛れも無く、昨夜保護した神官であった。
「故郷にて神に仕える事が出来るとは私にとっては多大な喜びです。皆さんお変わりありませんか?」
真っ白な神官衣がさらに彼の肌の色を白く見せ、華奢な痩身を包んでいる。太く凛々しい眉の存在でようやく男と認識出来るようなものであった。
「セイラン様、先週生まれたばかりの息子です。私は母御サーラ様に名を付けていただきましたので、セイラン様にも名付け親になっていただきたく思います」
町の人間と話す彼には周りの景観に溶け込めない違和感があった。活力が無く常に憂色を伴う顔つきに、僧衣の白と黒い髪の中で鳶色の瞳だけが目立っていた。
「では共に良い名を考えましょう。この子にアヴァンクーザーの祝福が訪れますよう…・・・」
セイランそう言って赤子の額にそっと口付けをすると、母親は嬉しそうに子供に頬をすりよせた。
そして深々とセイランに頭を下げると去って行った。
 ラミィは彼女が立ち去った事を確認するとセイランに近づいた。
「あっ、貴方は昨夜の…・・・」
「何を見たか、サウィーンに話した?」
ラミィは腕を組み、セイランを探るように見た。
「何を……って、私は気絶してしまったせいか何があったのかは思い出せないのです・・・」
セイランは気まずそうに、下を向いた。
「…あのう、神殿騎士の方が亡くなったというのは本当なのですか?」
(コイツ何も知らないの?!)
引き千切られてはらわたが突出した死体を思い出し、ラミィは眉を寄せて額を押さえた。
「私が見付けた時、アンタぱっちりと目を開けていたけど」
「え?」
セイランは昨夜の礼を言おうと思うにも、自分が尋問されているような気がして口がうまく動かなくなっていた。
ラミィの容赦の無い口調は彼を威圧し、何か言うには勇気が必要であった。
「じゃあ私の膝の上で寝ちゃったことも忘れてるのね」
ラミィはため息交じりに小声で言い、セイランからようやく眼をそらした。頼り無さそうな風柄の、見るからに軟弱な男を視界に入れているだけで募る苛立ちを抑える為に。
だがセイランの反応はラミィを逆撫でするものだった。
「えっ、僕が……?」
……この女性の膝の上で寝てしまった覚えは無い。セイランの記憶はそう叫んでいた。だが、肌はその感触を克明に覚えていて彼は赤面した。
吸い付くような女性の肌の、暖かい温もり。
それを彼に与えたのは目の前にいる女性だという事を認識すると、その顔はいっそう赤くなった。
(……何コイツ、むっつり?!)
動揺するセイランを見て、ラミィはあからさまに嫌忌の表を示した。
セイランはラミィと合った事は忘れてはいないが、その後の事までは自信が無かった。セイランの脳裏は真っ白で、何の言葉も思いつかない。
 そこへ、強くなる日差しを手で遮りながらスクルドが事務所から出て来た。
青い布の額当てを絞めてから、真ん中分けにした長い前髪の銀髪を鬱陶しそうに払ってラミィに言った。
「遅いぞ」
ラミィとスクルドの目が合うと彼女の腕からするりと外套が落ちた。慌ててラミィは其れを拾う。
「テオフィロが呼んでる」
「解ったわ」
ラミィはあたかもスクルドが視界に入らなかったかのような身振りで事務所のほうへ入っていった。
 扉の向こうへラミィが姿を消すと、見計らったようにセイランが呟く。
「…・・・僕は彼女に嫌われてしまったかもしれません」
やや落ち着きを取り戻しつつあるセイランの紅頬をしばらくスクルドは不思議そうに見ていたが、ラミィの被害に合っても可笑しくは無いと苦笑した。
「ラミィは神官全員が嫌いなんだよ。理由は知らないけど」
「あ、あの方が……叔母が面倒をみているというラミィさんなのですか」
その名を聞いてセイランはもう一度ラミィを見たい思いにかられた。
「……では、これからは同じ屋根の下に暮らす者同士、お近づきにならねば」
セイランは先程の焦りをようやく忘れ、ラミィに親しみを覚えたのか微笑した。
彼女への近づきがたさとラミィの攻撃的な性格を気にも留めていない彼の様子に、スクルドは慌てて言った。
「いや・・・…近寄らない方が身のためだと俺は思うんだけど」
スクルドの心には荒波が立っていた。この青年が彼女の嫌う系統の神官であることは間違いないと。
温和そうなこの若い神官をラミィの剛気さが傷つけてしまうかもしれないと思うと、スクルドは頭が痛いのだ。何事も穏便に済まそうとするスクルドにとってはこの先が思いやられた。
そんな心労ばかりが先立って、ラミィと同じ場所に住む青年にスクルドは嫉妬心さえおきなかった。セイランは無邪気に微笑んで苦悩するスクルドを見ていた。
その時、事務所の中からラミィの罵声とガラスが割れる音が二人の耳に入った。
(きっと激しい気性をお持ちの方なんですねぇ……)
窓からガラスが飛び散り、その中に何か叫んでいるラミィの姿を認めてセイランは目を丸くし、苦笑いに転じた。


 ラミィの足音が神殿にこだまする。
彼女は、自分のけたたましい靴の音が自分の心情を示している事には気づいていない。
血圧が上昇し、額の髪の生え際にある血管が浮き出て痙攣していた。
酒の抜けきらない気持ち悪さも相まって、ラミィの機嫌は最悪なものだ。
(信じられない! どういう対処の仕方よっ)
すれ違う神官達は彼女を避けて道を空ける。ある者は足を速め、ある者は壁に張り付くように。
周囲を慄かせながら、ラミィは水盤で顔を洗う為に神殿の中庭に出た。
 芝生は干し草のように太陽の匂いをしっかりと吸収している。回廊に囲まれた庭には瑞々しい果実が生る樹木が五本程植え込まれ、その回りに色とりどりの花が咲いていた。
ラミィは庭のほぼ真ん中に設置されている水盤の中に手を入れて水をすくった。
彼女が中庭に現れたのを見て、回廊からサウィーンが待っていたように話しかけた。
「まぁお帰りなさいラミィ。久し振りね」
三日ぶりに見た養い子見て、別段安堵した様子も無くサウィーンは言った。鶯色の髪が緑溢れる庭の風景に溶け込んで風になびいている。
ラミィは何度か顔を洗って、水滴を付けたまま怒気を含んだ顔をサウィーンに向けた。そして袖で水滴を拭いながら言った。
「一体どういうつもりなの」
手のかかる子供をなだめる様に、サウィーンは眉を下げた。
「何の話ですか」
予想通りの返答に怒りを露にする事無く、ラミィは水盤の縁に腰をかけて腕を組んだ。
「巡回の回数を増やした上に範囲を広げたわね」
サウィーンは中庭へ出て彼女の方へ歩み寄る。
 ラミィを立腹させた内容は、仕事が増えたからではなかった。
部隊の責任者テオフィロの口から出たあまりに納得できない言葉。それがテオフィロ自身の心から出たものではないと解っていても、ラミィは激昂して彼を殴りつけたのだ。
倒れたテオフィロは窓ガラスに当たって血まみれになった。
テオフィロが八つ当たりの犠牲になった事で、怒りをぶつけるべき人間は神殿の責任者であり、自分の養い親であるサウィーン司祭長であることに気づくのにそう時間はかからなかった。
「それに……隊長から聞いたわ。昨夜の事件、神殿から口止め……」
「アストラル圏内に魔が侵入するなど、この神殿創立以来初めてのことなのです。用心しなくては」
ラミィの発言に声を重ね、サウィーンは遮った。
正面に立つサウィーンを見上げるようにして憤激したラミィは詰め寄った。
「アストラルの効力が無くなった……と何故皆に言わない?」
「ラミィ、皆が不安になるような事を言うのはおやめなさい」
サウィーンは顔色一つ変えず真顔であった。口元だけが鋭く動く。
その落ち着いた表情に虚しさを感じたラミィの声が次第に強くなっていった。
「いつまであんな物にすがって生きていくの!」
凄みのある少女の怒鳴り声に驚いて小鳥達が木々から飛び立った。
羽ばたく音が遠ざかると、辺りにはざわめく葉の音だけが聞こえる。
「自分で身を守る手段を考える必要があるって解らないの?」
「そうですね……貴方はそうやって生き抜いてきたからこそ、今ここに貴方がいるのでしょう」
 今までこの育ての親に感情をぶつけた事は何度と無くあった。だが、サウィーンは一切動じることは無い。
サウィーンは話の方向を反らすのが上手く、動揺するのは決まってラミィの方であった。推考しながら話しを進めるサウィーンと感情が先走るラミィではいくら時間があっても決着が付かない。それでラミィはいつも引き下がるしかなかった。だが、今回は違う。
感情を露にしているとはいえ、町の人々にどれだけ危険がせまっているのかとラミィは訴えているつもりだった。
神殿は事件を隠匿し、犯人さえ確定しておらず相打ちという都合のいい解決をしたのだ。
道理をわきまえたサウィーンの言葉とラミィにはとうてい思えなかった。
「ヴレード帝国の国境で貴方を見つけた時、修行に旅立ったセイランを見送る帰りでした」
その目に幼きラミィを浮かべて、サウィーンは懐かしんだ。
蒼い瞳に沢山の涙を流しながら、幼い子供のぷっくりとした小さな手で自分の差し出した手を払われた、あの衝撃。サウィーンには忘れられない出来事であった。
憎しみに満ちた目。
誰も信用せず己だけが味方だという悲愴なラミィの瞳は、今では幾分柔和な輝きを取り戻しつつあると思っていたが、奥底では変わってはいなかったのだ。その事を改めて思い知ったサウィーンは心痛な表情を隠せない。
「貴方を見つけ、セイランが帰省し、私が失ったものが戻ってきています。貴方もこの神に祝福された土地でなら自分を取り戻せるはず」
ラミィは立ち上がってサウィーンの横を通った。
「私には失いたい物があるけどね」
ラミィはすれ違い様、言った。
「ラミィ」
サウィーンは振り向きもせずに名を呼ぶが、ラミィは足を一度止めただけですぐに歩調を速めて回廊の方へ歩いていった。
 屋根の無い庭を出て内部へ入ると、外観と同じく白を基調とした壁は明かりが無いと灰色に見える。
特にラミィの部屋がある廊下は一番光が入らない場所で、昼間でも蝋燭を灯してあった。
(神の結界の中に魔が入ったってのに、危機感無さ過ぎよ!)
事実を伝えない神殿側は、明らかに住民を危険にさらしていた。ラミィの怒りはまだ収まってはいないが、どうする事も出来ない。
アヴァンクーザーを国教とするこのソリヴァーサ王国では神殿が生活の基盤なのである。時に王を差し置いて実際に権力を握るのは太守や町長市長ではなく、神殿の最高位に属する者たちであった。神殿周辺に住む者たちは神官を頼り、統率を任せている。そんな中でラミィがたとえ事実を公表しても誰も信じない事は明白であった。
(皆が知ってもどうせ神に祈るだけで、何か行動しようとは思わないだろうけどね)
盲目的な信者達は平和に酔いしれ、回りに目を向けずに閉鎖された環境を好むのだ。
 ラミィが考えを巡らせながら自室の扉を開けようとした時、背後からセイランが歩いてくるのが見えた。
声をかける気はさらさら無かったが、彼の肩が上下して呼吸が異様に早い事に気づいて取っ手に手をかけたまま動きを止めた。
彼は壁に片手をつき、猫背になってゆっくりと歩いていた。
床を見ながら歩いていたセイランはふと、呼吸が和らいで顔を上げる。
頬をつたってセイランの顎から雫が落ちるのを見て、ラミィは彼が泣いているのかと驚いて顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いけど……」
潤んだ眼をしてはいるが、涙ではなく血色の悪くなった顔に浮き出た汗が落ちただけであった。
「いえ…・・・大丈夫です」
言い終わるか否や、彼の足運びが乱れて柱に手をつく。
「ちょっと?」
ラミィはセイランを支えようと手を差し出した。
「触るな!」
「なっ…・・・」
セイランが突然叫び、ラミィははじかれたように手を引っ込めた。
親しくしようと思うセイランの心とは裏腹に、今の彼には彼女を遠ざけ突き放すことが先決であった。やつれたような蒼顔に悔しさがにじみ出て顔が歪む。
「す、すみません……持病の発作ですから……放っておいてください」
セイランは苦悶の表情に出来る限りの笑みを浮かべた。
「誰か……」
セイランは人を呼ぼうとするラミィをとめる様に片手を挙げた。
「早く行って下さい!大丈夫です」
歯を食いしばっているせいか、ギリギリと口から音がもれる。
セイランはその場を一刻も早く立ち去る為に、壁にしがみつくようにして立ち上がると背骨の曲がった老人のように歩き出した。
(何処が大丈夫なのよっ!)
「何よもう!くたばってれば!」
ラミィは拒否された事に腹を立て、自室のドアを開けると勢いよく閉めた。
(この角を曲がれば……アストラル宮……早く!)
 セイランは必死に向かっていた。
アストラルの安置された聖堂へと。
目が霞み、脳裏に幽冥たる空間がじわりじわりとその範囲を広げていく。
疾苦からの解放を願って、彼は神の奇跡を求めていた。
一歩足を踏み出すごとに、アストラルの薄紅が彼の中に侵入してくる。彼は神の癒しを感じていた。
引き寄せられるように、セイランは次第に言うことのきかなくなる体を引きずって結界の中心へと向かって行った。

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