さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第一部 1

《アストラル》
アヴァンクーザー神による最大の奇蹟
アヴェル・ロードによれば
太古、世界に一つしかなかった大陸をめぐって
人と魔族とが存続をかけて戦をしていた頃
善き神アヴァンクーザーが人を守護するべく与えたものとある
魔を退ける力があり、その圏内においては如何なる邪悪な力も使用不可能
アストラル結晶体はソル・アラムの本殿に祀られているが
先の大戦で欠けた破片は全世界の分殿に安置されている
聖典アヴェル・ロード第一巻「歴史」と共に判読されよ
[聖典アヴェル・ロード隗読書第二巻第一章]



 月は黒雲に身を隠し、町の街灯だけがタイル張りの道を照らしている。日中蓄えた太陽熱を解き放っている道路から微かに湯気が立ち上り、上空に広がる分厚い雲と共に夏の蒸し暑さを更に厳しいものにしていた。
 そんな暑い夜でも、ソル・ハダト入り口の大通にあるトレドの酒場は今夜も仕事を終えた自警団員で賑わっている。大勢の笑い声が道を歩く町の人間の耳に届く程だ。
 店の中のどのテーブル席にも大ジョッキの酒がいくつもあり、料理も並べられている。機嫌の良くなった客は呂律の回らない口で歌いながら数人で肩を組んでいた。
客のほとんどは男だ。老朽化した木の床がきしんで悲鳴を上げている。
「ったく、床が抜けちゃうわよ!」
コップをカウンターに叩きつけ、少女は鬱陶しさをぶつけて言った。ボックス席の騒ぎを避けるように彼女はカウンター席で一人酒を飲んでいる。
 肉感的に感じさせるふくよかな体に、生娘のように清純たる形貌は見るものを魅了するであろう。だがその美麗な容姿とはうらはらに、刺々しい空気が彼女の周りにあった。
 少女は腰辺りで緩やかに波打つ金の髪を払って、半開きの蒼い瞳でマスターを睨む。それだけで髭を蓄えた中年のマスターは意味が解かったのか、拭き途中のグラスを置くと慌てて奥の調理室へと駆け込んだ。
その奥に向かって追い討ちを掛ける様に少女が怒鳴る。
「早くしてよ! 次!」
「おいおいラミィ、飲み過ぎだぜ」
肩肘をついて空のコップを振りかざす彼女の隣に、短く切りそろえられた髪を持つ痩身の青年が座る。
ラミィは水面のように揺れる双眸で男の方に振り向きながら怒鳴った。
「うるさいわねスクルド、放っといてよ」
マスターが戻り、ラミィの前に酒を置くと彼女はそれを一気に飲み干した。
その姿をため息混じりに見ながら、スクルドが言った。
聞き取れるか否かの小さな声である。
「お前よぅ……」
何か言いたいが、言葉が続かない。
というより、スクルドは頭を必死に働かせて言葉を選んでいた。彼女の機嫌を損ねる事無く酒を止めさせる、上手い文句を。
だが、おどおどしたスクルドの声はすぐに他の客の歌声にかき消された。
「おお神よ! アヴァンクーザー神よ! 貴方の下さったアストラルのおかげで何事も無く、特に仕事も無く一日を終えられましたぁ!」
酔った客は信心深そうに神の名を呼ばわり、皮肉を混ぜながらも感謝した。
同じテーブルにいる体格の良い男達がそれに応えて合唱を始める。アストラル結晶体を人に授けたアヴァンクーザー神への賛美歌である。
「アストラルがもたらす平和に乾杯!」
「こんなに魔物が出ないんじゃ俺達そのうち廃業だぜぇどうするよっ」
平和に酔ったのか、酒に酔っているのか、すでに解からなくなっている店の客達は伝染したように上機嫌で神を賛美し始めた。
 スクルドはコップを握り締めるラミィの手が震えている事に気付いていた。
給仕の少女はふらふらしながら歌う客の間に物怖じする事無く割って入り、慣れた手つきで空いた食器を片付けている。
「見回りくらいしか仕事が無いからって毎日飲みすぎだよなぁ、うちの町の自警団員は」
ラミィの心情を察してスクルドが言った。
 この町の自警団員は毎日潰れるまで酒を飲む。
最近三年振り位に盗みを働いた町人が捕まったくらいこの辺りは何も事件などなく、彼らにとって仕事の帰りに酒を飲うのが日課であり、仕事のようなものであった。
 自分の発言が無意味であった事にスクルドは気付き、両手を腰にあててラミィを見ながら首を振った。彼女にいくらかの注意をしても、周りの弁解をしても、これだけ飲んでいる状態ではお手上げなのである。
 緊張しながらラミィを見ていると、案の定スクルドが予想していた状態に上り詰めた。
彼らは彼女に火を付けてしまったのだ。
「あんな不公平な神の何処がいいっつ〜のよ!」
テーブルに叩きつけられたコップが割れる音で座が白け、歌と祈りが止んだ。
「何だァ? ラミィじゃんか」
壁際にいた浅黒い男が、席を離れてカウンター席の方へ人を掻き分けて近寄った。汗で色が濃くなった着衣は乱れ、千鳥足でラミィの方へと歩いている。
 体格は然程しっかりしてもいなく少年のそれで、どちらかと言えば戦士ではなく、太陽に焼けながら畑仕事をする農民の肌をしていた。
額と頬に飛び出した短い茶色の巻き毛は、彼が手で梳かしても直に逆らって跳ねた。
「あんたは」
男は胃に納まっている酒の逆流を無理矢理押し止めながら言った。
「サウィーン様の御慈悲で神殿に住まわせてもらってんのに、その口どうにかならねぇのかよ」
ラミィの背後に立つ男を落ち着かせようと、スクルドは二人の間に入った。そして引きつった笑いを顔に浮かべて両手を挙げ、降伏したような仕草を見せた。
「ソロン、ラミィはかなり酔ってるんだ。俺が連れて帰るからさ」
スクルドはちらりとラミィを見やったが、彼女は後ろを振り向きさえしない。
「アストラルの力が及ばない地域の人たちはきっと神を恨んでるわよ」
ラミィは割れたコップの破片を一枚一枚重ねながら言った。
その態度に血が上ったソロンは愛想笑いを続けるスクルドを突き飛ばし、ラミィに詰め寄った。そして肩を掴み、無理矢理自分の方を向かせる。
「何だと、 今日こそは我慢ならねぇ」
「何よ、やるっての」
ラミィは汚いものに触れたようにソロンの手を叩き落とし、立ち上がって腰に下げている剣の柄を握った。
「毎日毎日神を侮辱しやがって、この拾われっ子がっ」
ソロンはいち早く腰から剣を抜いた。ちらちらと揺れるランプの中の炎が刀身に映り、その鋭さを誇示している。
二人に注目する客達が野次を飛ばし、どちらが勝つか賭けをし始めた。
「おいおい、こんな狭い所でやめてくれよ」
そう言ったのは酒場の主ではない。床に胡坐をかいて座ったスクルドである。
だがソロンは数歩身を引いて剣を前に構えた。
「スクルドどいてよ、邪魔」
ラミィはスクルドが腕を掛けていた椅子を蹴飛ばして転がし、柄を握る手を離さずに横へじりじりと動いた。
両者共睨み合い、もはや止められるような雰囲気では無い。
張り詰めた空気に酔いが醒めたのか、ソロンの額には汗が浮き出て額に皺を寄せている。それに対してラミィは微笑して余裕を見せているのだった。
 風も無いのに金の髪が意志を持った生き物のように動いた。
彼女を包むように、そこで空気が切り替わっている。人の殺意が目に見えるとすれば、まさしくそれであった。
周りは息を呑み、ラミィの気迫にスクルドは立ち上がって後ず去るにはいられなかった。
 ラミィが剣を一気に抜いた時である。
突然、木製の扉が軋みながら開いた。
「第二部隊! 仕事よ!」
髪を頭部の高い位置で一つにまとめた女性が、息を荒くさせながら店に駆け込んで言った。
「テオフィロがトゥーラで待ってる」
だが既に剣は重ねられ、ラミィの二つの蒼い瞳はソロンを捕らえて離さない。
 二人の周りでは文句を呟きながら客が店を出て行く。呼び出しが掛からなかった別の部隊の者は残っているようだったが、他の店で飲みなおそうと話していた。
「おい、ラミィ行くぞ」
そう言いながら、スクルドはマスターから外套を受け取って着た。
ソロンは溜め込んでいた息をゆっくりと吐き、しぶしぶと剣を下ろした。それを見て、ラミィも広げていた足を閉じて何事も無かったかのように椅子に掛けておいた外套を羽織る。
 ラミィはテーブルに硬貨を三枚置いてからソロンの横を無言で通り過ぎ、颯爽と店を出て行った。
彼女の姿が見えなくなると、片付けに追われるマスターの前でスクルドが言った。
「馬鹿か、お前。ラミィに勝てるわけ無いだろ」
「うるせぇっ」
ソロンはラミィが倒した椅子を起こして座った。気恥ずかしいのか、それとも酔いが顔に出ているのか、赤面している。
 殺気立つ少女に剣を向けられた時。
あの時すでに彼はラミィに対する積もった鬱憤と、酔った勢いで剣を抜いた事を後悔していた。それでも、アヴァンクーザー神を崇拝するソロンにとっては神を侮辱する彼女が許せなかったのだった。
戦わずして敗れた男の背中を横目に、スクルドはラミィの後を追って出て行った。


 酒場に連絡が来てからわずか十分足らずで、四人の自警団員はトゥーラに着いていた。
皆甲冑に身を包み、支給された麻のマントを羽織っている。
 彼らの住む町であるソル・ハダトと王都ソル・アラムを繋ぐメレーナ街道沿いにあるトゥーラという広場は、町の子供達が走り回って遊べる広さで、祭りの時に使われる公共の広場でもある。
だが神祭りまでまだ日にちがあるせいか、芝生は整えられてはおらず雑草が茂っていた。
「おいラミィ、酔い抜けてんか?」
先を歩くラミィにスクルドは問いかけた。
「うん」
ラミィは発泡酒を浴びるように飲んだようには見えず、一歩一歩草を踏みしめながらスクルドの前を歩いている。まどろんでいた目には澄んだ海の色が戻っていた。
 彼らの頭上に垂れている枝葉の間から月が覗いている。雲はいつの間にか北へ追いやられ、月を装飾するように無数の星が輝いていた。
何処からとも無く聞こえてくる虫達の奏でる曲が暑さを和らげていたが、今のラミィにとっては雑音でしかない。
売られた喧嘩を買ったはいいが剣を交えずに終わり、発散されなかった闘争心がラミィの心に荒波を立てていたのだ。
「お前さ、この仕事終わったら神殿へ帰れよ、サウィーン様心配するぜ。最近帰ってないんだろ」
片手に持つ松明を掲げるようにして歩き、広場を囲む木を一本一本確認しながらスクルドは言った。
「親でも無いのに心配される義理は無い」
ラミィは吐き捨てるように言った。煮え切らない怒りが湧き起こり、スクルドを睨みつける。
傍にあった木に寄りかかって、ラミィは上を見上げた。
 月はまだ低い位置にあるせいか橙色をし、それを背景に黒い葉が動いていた。あたかも虫のように。
彼女は首を斜めに傾け、街道と反対側の茂みを見た。
八重に立つ木の奥に、煉瓦の壁がひっそりと立っている。塀に沿って立つ木を見て、ラミィは目を細めた。
脳裏に蘇るのは残像であり、逃れる事の出来ない現実へと繋がる過去であった。
木によじ登ってこの国ソリヴァーサへ逃れ、この広場の木に躓いて倒れたまま泣きじゃくった幼い日の事を彼女は決して忘れる事が出来ないのだ。
『これをもって行きなさい…・・・私達に代わってお前を守るだろう』
魅惑的な月虹がかけた術による幻聴なのか、父親の声がこだました。
ラミィは見上げたまま葉の間から覗く丹色の月を眺めていた。
その赤は血を連想させ、父が自分に埋め込んだ物と重なる。
『ソリヴァーサへ逃げなさい』
清絶にして凛然とした声がラミィに聞こえた。今度は母の声であった。
母は父にしがみつき、追い払うように幼いラミィに叫んでいた。
その後は飛散するおびただしい血しか彼女には思い出せない。
母の細い体の中にあんなに大量の血が入っていたとは思ってもいなく、目を逸らしたくても、神経が麻痺したように体が思うように動かせなかった。
両親の体液は混じり合って母のドレスを真紅に染め、父が着ていた純白の神官衣も緋色の衣と化した。
(本当に自分勝手ね)
塀を見透かして、その向こうに広がる草原を思い出しながらラミィは思った。
壁の向こう側にある国で起きた出来事であった。
だが、それらの情景は彼女の目に焼きついたまま色褪せる事は無い。
(サウィーンに初めて会ったのはここだっけ)
小さなラミィは木の根に躓き、草の上に倒れこんでいた。起き上がる気力も無く、突然降って沸いたように涙が出てきて泣き続けていた。
どれくらいそうしていたのかさえ解からない。ただ時間だけが経過して行き、森の中が暗くなっていた。
 そんな時であった。サウィーンがラミィを見つけて話しかけたのは。
『まぁ…・・・そこで泣いているのはどなた? 今夜は寒くなります。他に泣く場が無いのなら、お出でなさい』
何の戸惑いもなく差し伸べられた腕を、ラミィは躊躇した。
自分に向けられた救いの手を、追っ手と考えて拒絶したのである。
否、それだけではない。
もはやアヴァンクーザーの神官は彼女の中で敵であった。憎むべき偽善者であったのだ。
(ソロンなんかに言われなくてもこんな所、早く出て行ってやる!)
15歳で自警団に入団して2年も経ち、金も溜まったラミィはそろそろ自立を考えていた。
この場所に留まっている必要は無いのだ。自力で生きて行く力もつけ、虫唾が走る程嫌いな者達の庇護の下で生きている理由はもう何処にも無かった。
「もっと先まで見に行った方がいいかしら」
同僚の声にラミィは我に返るが、丁度スクルドと目が合いおもむろに逸らした。
(何よ、もう!)
気付かない間に、どれだけスクルドが自分を見ているのかと考えると、ラミィは決まって体がむず痒くなるのだ。スクルドの真摯な視線は時にラミィを動揺させる。
黙思に耽っていた事を誤魔化す為に、ラミィは言った。
「で、どういう呼び出しなわけ、ジェニカ」
「一昨日に神殿騎士と一緒に神官がソル・アラムの本殿を出発したらしいけど、到着が遅いから見てきてくれってサウィーン様が」
ラミィの前を通り過ぎながら酒場へ呼びに来た団員が言った。紐で結ばれた髪は背中まで垂れ下がり、馬の尾のように揺れ動く。
「何よソレ! 神官のお迎えに自警団員を駆り出すなんて馬鹿にしてっ。私たちは治安維持の為の人材よ」
ラミィは腕を組んで木に寄りかかった。
その態度にスクルドの後ろを歩いていた男がため息をつく。
「テオフィロ、私行かないわよ」
殿を務めるテオフィロの、松明の炎ごしにラミィは言った。
落ち着いた物腰と温容な表情なまま、ラミィに構いもしないテオフィロに代わって、黙視していられないスクルドが彼女に近寄った。自分の主義に反する事は決してしないラミィだとは知っていても、スクルドは宥めずにはいられないのだ。
「あのなぁ…・・・」
 その時、木々を薙ぎ倒す勢いで突風と共に激烈な一閃が木々の間から射し込み、動物の金切り声のような悲鳴が彼らを襲った。
凄絶な叫び声の後の静寂に彼らの背筋が凍り、凝然となった。
目視出来る限りの距離を慎重に見回しながら、各々硬くなった手で剣を抜いたが、ラミィだけは剣の柄を握ったまま辺りを睨んでいる。
「な…・・・何だ今の?」
スクルドの喉は渇いて引きつっていた。
(何なのあの叫び!普通じゃ無い)
ラミィはテオフィロの手に握られている松明を奪って駆け出し、スクルド達の視界から消えて行った。
遠くの樹林の闇で孤火が揺れている。彼らはその灯火を頼りに彼女の後を追った。
足首までを覆う革の靴がぐっしょりと湿った草を踏み、ラミィは立ち止まって足元を見た。
 深紅の水溜りに黒い塊が浸かっていた。
ラミィは驚愕のあまり短く息を吸い込む。
それと目が合ったのだ。切断された首がラミィを睨んでいたのである。
血走った白目に、縦に割れた瞳孔。頬には玄色の見知らぬ刺青が施され、異様に発達した牙の間からだらしなく舌が垂れていた。
「これ・・・…魔族…・・・」
すでに息絶えていると判断できても、その屍から戦慄する程の悪気が立ち上っているのだった。
「うわっ何だコレ…・・・バラバラじゃないか!」
スクルドは彼女に追いつくや否や、四散している身体の一部を見て言った。
テオフィロは二人の後方を守備しつつ足を運んでいたが、足先が金属に当たるとしゃがんだ。
銀の肩当てに、塗りたくったような血痕がついている。すぐ傍に横たわる胴体から腕がもげていたのだ。
「こっちには神殿の紋章が入った甲冑の…・・・神殿騎士だ」
テオフィロの横に立つジェニカが、そこかしこに転がっている体の一部を指で一つ一つ数えて言った。
「数えにくいわ…・・・三人かな」
ジェニカは生まれて初めて見た禍々しい存在を目の当たりにして嗚咽混じりの声である。口元を押さえ、木に片手をついてしゃがみ込んだ。生臭さと見るも耐えない無残な死体に胃液が口から出てこようとしていたのだ。
だがその木にも飛び散った血が付着しており、ジェニカは慌てて手を引っ込めた。
 微風が死体の上を過ぎ、神殿騎士達の裂けた肉隗から飛び出している五臓を揺らした。
「魔人一人、神殿騎士三人? 神官がいない」
ラミィは死体を跨いで先へ進んだ。血溜まりに足が浸かり、革靴がねっとりとした血に汚れる。
「何処かに逃げたのかもしれない、見てくる」
ラミィは剣を抜いて走り出した。
「あっ、おい待てよ」
「お前は南を見て来い」
ラミィの後を追おうとするスクルドの肩をテオフィロが掴み、留まらせた。
ラミィは進路を阻む背の高い雑草を剣で切り払いながら悪態をついた。
「まったく、ほろ酔い気分が台無しよ」
だが、身体を縛り上げる緊張感はラミィにとって懐かしく、むしろ心地よくさせていた。
眠っていた熱い血潮が目覚め、体中を駆け巡っているのだ。
 道の無い森を抜けて街道へ出、ラミィは猛然とトゥーラまで戻った。
月が天上へ昇りきり、薄雲が月光に白んでいる。
ラミィは広場の真ん中で佇む者に気付いた。
(・・・…誰?)
その者は月の光に照らされた白刃のように浮き上がる白衣を纏っている。
長い髪の斜影が、その人物を今にも襲おうとしているようにラミィには見えた。
神殿に住むラミィには解かっていた。長い黒髪を一つにまとめた神官など、ハダトに住んではいない筈であった。
 ラミィは相手が神官だと認めつつも、剣を握る手に力を込め、松明を掲げた。
「自警団の者よ。あんたは…・・・」
ラミィの声に反応を示し、その神官はゆっくりと彼女の方へ振り向く。
二人はお互いを、見た。
それなのに、男の焦点は定まっていない。
ラミィはふと、男の目に月の光が差し込んでいるのではないかと疑った。
金の瞳は瞬く星のように閃閃とし、ラミィの胸を貫いた。妖しいまでの光を放つ双眸にラミィは釘付けになり、彼が近寄っている事に気付かない。
「私は…・・・私は…・・・アヴァンクーザーの神官…・・・セイラン…・・・」
うわ言の様に男は言う。
近くで見る彼の瞳は金では無く、浅葱色であった。
(セイランって…・・・誰よこいつ。こいつがハダトに来る筈の神官?)
彼の虚ろな容顔を見上げながら、ラミィは幾分安堵して剣を納めて言った。
「一体何が」
だが、男は応えもせずに、まるで何かに導かれるままラミィの方へとひたすら近寄ってくるのだ。
ラミィの元まで一歩というところで彼の膝が力を失って折れ、彼女に体当たりするように倒れ込んだ。
「あっ」
男の全体重が圧し掛かってラミィは尻餅をついた。
 咄嗟に手をついて何とか後ろには倒れないで済んだが、腰まで響く痛みにラミィは目をぎゅっと瞑った。顔を歪ませながら目を開けると、手から落ちた松明が彼女の傍から転がっていくところであった。
そして、ラミィはくの字に曲げた膝の、太股の間に顔を埋めたまま動かない男の存在に気付いた。
「ち、ちょっと!」
セイランと名を告げた神官はしっかりとラミィの腕を握り締めていた。


 各先端が槍状になった十字架を、環を描く龍が囲っている。神の偶像の代わりに、その紋章が聖堂の壁一面に浮き彫りにされていた。
天井と床から突き出た柱の途中には中に浮く結晶体があり、西日が水面に映って暖色の煌めきを放っているのと同じような光輝で広間を照らし出していた。
聖堂の前に奉られている物体、これがアヴァンクーザー南の分殿に奉られているアストラル結晶体の破片であった。
意志を持った石であるかのように、淡紅から鮮紅となったり、突如として目もくらむような光を発したりと色合いは様々に変化している。
 女の纏う衣には縁に金の刺繍が施されて、皓伯の布地に結晶体の放つ色が映りこんでいた。
「それで、我が本殿の騎士達は魔人と相打ちになったと?」
声が、結晶体から出た。
人間の男の、所々喉を懸命に震わして搾り出した声である。
 女は頭に被っているヴェールの肩辺りの裾を、後ろへ少し引っ張って整った面相を出した。色白の肌に映える艶やかな唇が動く。
「・・・…そのようでございます。町の自警団員が甥を保護したとの報告を、先程受けました」
「司祭長の帰省に神殿騎士の護衛を付けるというそなたの要請、少々過保護だと思っておったが……そなたは魔の出現を予測しておったのか、サウィーン高司祭」
『魔』という単語を耳にしてサウィーンと呼ばれた女神官の細い指がピクリと動いた。
「いえ、アストラルの力に満ちておりますゆえ、そのような懸念は……。ただ、甥のセイランは我が妹の忘れ形見。何かあってはと無理なお願いをいたしました」
腹部の前で繋がれていた手を解き、サウィーンは右掌を胸元で閉じた。
「聖女サーラの息子か。あの者の噂は本殿まで聞及んでおる。その面影をセイランに見て懐かしむ村人も多かろう」
声には感情が無いようだった。あらかじめ用意された文を読み上げる淡々とした口調である。
「御配慮に感謝いたします」
サウィーンはそう言いながら手をまた前で組み、ゆっくりと頭を下げる。お互い姿は見ることの出来無い声のみの通信であったが、それでも彼女は謝意を表した。
「アストラル圏内での魔の出現は他の分殿には漏らさぬよう……良いな、サウィーン」
擦れた声の中に有無を言わせぬ鋭さが見え隠れすると、サウィーンの顔つきも険しくなって一文字の形をした眉をつり上がらせた。
「解かりました」
「ソル・ハダトの同胞に幸あれ」
その言葉と共に、アストラルの光が一定の強さとなった。通信が切られたのである。
 聖堂の間を照らし出しているのは、今や祭壇に置かれている燭台と、その横に置かれた一本の蝋燭のみであった。一本の柄から七つに分かれたその各部分に炎が灯ってはいても、アストラルの力を利用した通信が遮断された今となっては広い聖堂を照らすには暗すぎた。
サウィーンは切れ長の目をより細くし、彼女の頭一つ分位上に浮くアストラルを見上げていた。
(サーラ……帰ってきたわ)
彼女は天井と床からアストラルに伸びてきている、ごつごつした柱に触れた。
骨灰を疎らに含んだ泥で形作られている、乾いた土の柱は荘厳な雰囲気の神殿内部には不似合いだ。
だが神殿責任者は代々こうして粉末にした骨をこの柱に塗りつけて、死して尚もアストラルを守っているのだった。
 アストラルに一番近い部分の白い粒を、サウィーンは指でなぞった。
そこが、愛しく思っていた妹の骨なのである。
(貴方の息子が帰って来た……)
不安を胸の奥に封じ、危惧を取り除こうと妹の骨を撫でた。
しかしすでにこの世には居ない妹が、サウィーンの心の中に落とされた影を取り払うことは出来なかった。
 サウィーンは後ろを向いて燭台の七つの焔を息で吹き消し、半分溶けた蝋燭を手に取った。
扉と祭壇を結ぶ長い絨毯の両側に四人掛けの簡素な椅子が並んでいる。
静けさに包まれている暗憺とした部屋の中を、朧な明かりを伴ってサウィーンは移動した。
そして扉を押し開け、自警団員によって運び込まれた甥に再会する為に聖堂を出て行った。

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