聖夜スペシャル
最終章 雪の幻想獣


 今年の冬は寒くない。

 今年の冬も寒くない。

 あの頃に感じたような寒さは、もう戻ってはこないのだろうか。
 あの感覚は。
 幼かった頃に感じたあの寒さ、

 …指先を凍えさせながらも、心をときめかせ歩いた、デパートへ
 の道、クリスマス。

 そして、家族。

 家族と歩いたあの道。幼き心には、電車で数駅の距離にあるデパー
 トへの道程ですら、大冒険だった。

 そして、消えた。

 今年の冬は寒くない。今年の冬も寒くない。
 何年ものあいだずっと、ずっと、

 寒さは消えた。あの凍える感覚、そしてときめき。

 デパートへ行くことも、電車に乗ることも、慣れた。
 そこにはもう、何のときめきもない。
 ただ入って出るだけ。
 何日も前からその日を心待ちにすることもない。
 ただ思いつきで、過去の聖域へと、とぼとぼと入っていく。


 (大きくなったのね、ユキちゃん)

 ……サクラコさん、あなたはたしか、僕が、昔に、
   
 (そうよ、あなたが小さなときに倒した……獣)

 ……蜃気楼のように大空へと舞っていった、

 (ワタシは、け・も・の)

 ……栗色の長い髪をなびかせて大空へと消えていった、

 (ユキちゃんの心の中の幻想獣)


 そして、家族とも離れて暮らして、今はひとり、
 日曜日。
 今年のクリスマスは日曜日なんだ。
 ひとり。

 あなたを追って、旅をした。
 世界の中を、日本の中を、時間をまたいで、流離う(さすらう)
 ように、

 ときめいた。あなたと会えたかのようにときめいた。
 初めての土地、はじめての国、
 誰もいない。
 父も母も、そこにはいない。ひとりでガタゴトと、
 空飛ぶ白い電車に乗って、
 ガタゴトガタゴトと、旅をした。

 ……大空へと舞っていったあなたを追って。
 
 初めての土地、はじめての国、
 どこにでも、アツアツのアベックさんがいた。
 子供の頃に、あのデパートへの道で見たような、
 見てはいけないような、どきどきするような、
 アツアツのアベックさんがいた。
 ケンカをしているアベックさんもいた。


 (そしてユキちゃんはひとり)

 ……でもサクラコさんに会えた。

 (ユキちゃんは日曜日にひとり)

 ……サクラコさんはどこへ行ったの?

 (ユキちゃんはクリスマスもひとり)

 ……ときめかないですよ、クリスマスって。


 父と母が三千円をくれた。
 三千円で心がときめいた。
 三千円でサクラコさんに会えた。

 お札の顔が違う人になった。変わってしまった。

 僕の心も違う人になった。変わってしまった。

 シンガポールのホテルで、ボーイさんにちょっとしたことを頼ん
だことがある。部屋の何かを修理してもらったのだったろうか、何
を頼んだのかは忘れてしまったけど、お礼に3ドルをチップとして
渡した。彼はマレーシアかインド系の出稼ぎの若いボーイさんだっ
た。
 それから3分ほど経ったとき、部屋で休んでいた僕の耳にノック
の音が聞こえた。ドアを開けるとそこには、その若いボーイさんが
雑巾をもって立っていた。彼は笑顔で部屋に入ってくると、洗面台
をごしごしと磨き始めた。磨いて磨いて、カラテキッズの訓練シー
ンのように一生懸命に磨いて、そして去っていった。

 3ドルがそんなに嬉しかったのだろうか。
 3ドルでそんなにときめくことができるのだろうか。

 部屋に残った僕は、呆然としながら、もう一度チップを渡すべき
だったろうか、いやそうすると今度は何をしてくれるかわからない、
どうしよう、なんてことを考えながら、立ちつくしていた。

 ただちょっと嬉しかった。

 彼は3ドルでサクラコさんに会えるんだ。


 ……それは不幸なのでしょうか、それとも幸福なのでしょうか?

 (ユキちゃんは幸福なの?)

 ……不幸じゃないと思います。

 (これからもずっと?)

 ……それはわかりません。それを考えるのは、とても怖いです。

 (だから、それを忘れるために旅に出るの?)


 そうなのだろうか。

 消えてしまった過去を、忘れるために。

 このままだと不幸になるかもしれない未来を、忘れるために。

 怖れず、恨まず、憎まず、怯えず、悔やまず、
 
  そのために、旅をする。

 怪しまず、悦ばず、懐かしまず、悟らず、慎まず、

  白い翼をもつ電車に乗って、

 惜しまず、憧れず、悩まず、憤らず、愉しまず

  あなたに会うために、

 旅をする。

 時は流れる。ずっと、ずっと、ベルトコンベヤーのように、僕を
乗せて、未来へと、未来へと、死へと、死へと。

 そして今年もゲートをくぐる。ベルトに乗って揺られる僕を見て、
ゲートのセンサーがつぶやくのさ。数量1ってね。
 それはディズニーランドのチケット売り場で尋ねられた、
「オンリー・ワン・パーソン?」の言葉のように。

 ひとりのクリスマス。

 暖かいクリスマス。雪はふってもいい。僕には関係ないから。

 自分のことだって、もう関係ないから……


 (ユキちゃんは幸福なの?)
 
 ……不幸じゃないと思います。だから、

 (だから…?)

 ……日記を書きます。忘れたくないから。

 (ユキちゃん、真犯人は誰なの?)

 ……それはね、サクラコさん、


 次に出会ったときに、教えてあげる。
 心がときめいたとき、あなたはやってくる。
 それは幸せなときでなくてもいい。

 怖れず、恨まず、憎まず、怯えず、悔やまず、
 怪しまず、悦ばず、懐かしまず、悟らず、慎まず、
 惜しまず、憧れず、悩まず、憤らず、愉しまず

  あなたに会うために、

  旅をする。

  そして日記を書くのです。

  あとでふと思い出して、幸福だったなと感じたときを、

  感じた瞬間(とき)を、忘れないように。 


<幕>