聖夜スペシャル
第一章 デパート怪獣 サクラコ


 日記を書きます。僕の幸福だったときの日記を。


 ……クリスマスのお買い物は三千円っていう決まりだった。
 五千円だと聖徳太子の顔がついていて子供の買い物としてはちょっ
と贅沢みたいで、四千円はなんだか中途半端だから、3000円っ
ていう数字はなんだかキリが良さそうだと、子供心に思っていた。
だからそれで良かったのだ。

 あのころの冬は、寒かった。

 もうすぐお正月。

 お正月にはお年玉を貰えるけど、それは郵便貯金に入れることに
なっていた。だって、クリスマスのおもちゃを買ってもらったばっ
かりだし、第一、お正月はおもちゃを売ってるお店はお休みなんだ
から。ううん、おもちゃ屋さんだけじゃなくって、ほとんどのお店
はお正月の三日間はお休みだった。
 だからお正月はおばあちゃんの家にいって、大阪とか京都から集
まってきたいとこの子たちと遊ぶのが楽しみだった。
 おばあちゃんの家は、大きかった。いや、大きいと感じていた。
おじいちゃんは生きていたけど、なんでか「おばあちゃんの家」っ
て皆んな言っていた。なんでだったのだろう。

 …あのころの冬は寒かった。

 2学期が終わってから最初の日曜日が、僕にとってクリスマス・
イブだった。もちろん24日の夜はパパかママがケーキを買ってき
てくれたし、子供の腰くらいの高さのクリスマス・ツリーの飾りつ
けをしたので、それはそれでクリスマスっぽかった。ケーキは白か
黒の二者択一だった。白はクリーム、黒はチョコレートだった。黒
いほうがちょっと得なような気がして、好きだった。
 でも、やっぱりクリスマス・イブは2学期が終わってから最初の
日曜日だった。
 なぜって、その日はデパートにクリスマスのお買い物に連れて行っ
てもらえる日だったから。

 日曜日だけがお休みの日だった。
 皇太子さまが天皇陛下になったらクリスマスのあたりがお休みに
なるかもしれない、って誰かから聞いたことがあったけど、それは
遠い先のことのようで、実感がわかなかった。冬休みと重なったら
4月のお休みが減っちゃう分だけ損だな、ってちょっと不安に思っ
た。
 土曜日がお休みになるなんて考えもしなかった。土曜日は、午前
中は学校があって、午後は昼ごはんを家で食べて(たいてい、焼き
そばかお好み焼き、たまにカレーだった)、そしてテレビで吉本新
喜劇をみながらぼんやりする日だと思っていた。

 だから、デパートに連れて行ってもらえるのは、大人がお休みの
日曜日、2学期が終わってから最初の日曜日だった。

 だから今日は、手袋をつけておでかけ。女の子みたいでイヤだっ
たけど、手袋は必要だった。

 ……あのころの冬は寒かったから。

 国鉄の青い普通電車か、オレンジ色と汚い緑色の快速電車に乗っ
て、乗っているあいだは退屈だから、薄い橙色か桃色っぽい切符に
改札の駅員さんがパチパチするやつで切ってくれたギザギザの角の
数をかぞえたりしながら、それでも退屈なので仕舞いにはその厚い
紙の切符を折ったりしてくしゃくしゃにしながら、三宮に着くまで
立っていた。

 神戸の中心地は三宮(さんのみや)だった。それはずっと変わっ
ていない。

 デパートといえば「そごう」だった。エス・オー・ジー・オー、
そごうへ行こう、っていうコマーシャルがあった。なぜエス・オー・
ジー・オーなのかそのころはわかっていなかったけれど、とにかく、
お買い物といえばデパートだった。三宮にそごう、元町に大丸、そ
して神戸には三越があった。大丸も悪くはなかったけど、そごうの
ほうがおもちゃが多そうで好きだった。三越は制服なんかを買うと
ころだと思っていた。つまらなかった。

 あのころの冬は、暗かったような気がする。

 そごうへは、国鉄の三宮駅から自動車のとおる道路をまたいで延
びている長ぁーい歩道橋をとおって行くことができた。僕はパパと
ママに連れられて(妹もいたかもしれない)、その歩道橋をあるい
ていた。目のまえにそごうの大きなビルがでーんと立っていて、心
がわくわくしていた。

 その歩道橋をむこうから、つまりそごうの方からこっちに向かっ
て歩いてくるお兄さんとお姉さんが見えた。アベックさんだった。
お兄さんはお姉さんの肩を抱いていた。お姉さんの栗色の長い髪を
うっとりと眺めながら、お兄さんの左の腕がお姉さんの首をまわっ
て左の肩を撫で撫でしていた。

 アツアツのアベックさんだと思った。

 お兄さんはお姉さんの肩を撫で撫でしながら歩いているので、だ
んだんと僕たちのほうに近づいてきた。僕のまえを歩いていたパパ
とママが道をよけた。いつのまにか、お兄さんの手が、お姉さんの
胸のほうに動いていた。歩きながらおっぱいを揉み揉みしようとし
ているみたいだった。

 パパもたまに冗談で台所でお皿を洗っているママにそういうこと
をしているので、ふつうだと思った。やっぱりアツアツのアベック
さんかなーと思いながら、僕はじっとお兄さんたちを見ていた。

 お兄さんとお姉さんと僕たちのあいだの距離はすでに1メートル
くらいで、いますれ違おうとしていた。

 僕はお兄さんの手を、じっと見ていた。

 そして、お兄さんの手がお姉さんの胸をさわった……かと思った。

 ……突き抜けた。

 お兄さんの手が、お姉さんの胸もコートも服も、たぶん体も骨も
なにもかも突き抜けてしまった! 栗色の髪の毛をしたお姉さんは
笑っていた。さわってくるお兄さんの手をちょっと払いのけようと
しながらも楽しそうに笑っていた。

 ……笑いながら、すっと消えてしまった。

 お兄さんが僕たちの横をとおりすぎた。すれ違ったとき、お兄さ
んの両手は、ジャンパーのポケットに入っていた。少し前かがみに
なって寒そうにしながら、お兄さんはスッととおりすぎていった。
 お姉さんは、いなかったのだ。

 パパがすれ違ったお兄さんのほうをちらっと見て、こう言った。
「幻想獣だね」
 ママがクスクスと笑いながら、パパに言った。
「昼間っからもう、イヤですね。ふふ」
 そしてパパが、僕にこう言った。
「ユキちゃんも、あんな綺麗な女の人をみつけないといかんよ」
 パパは僕をやさしい目でじっと見ていた。 
「大丈夫ですよ」
 ママが言った。
「だって、ユキちゃんはきっとモテるから」

 僕は歩道のうえ、いまきた道を振り返って、三宮駅のほうへと歩
いていくお兄さんの後ろ姿を見つめていた。お兄さんはひとりだっ
た。すると、そのジャンパー姿のお兄さんがふと立ち止まって、そ
して、ふり向いて僕のほうへと首をむけた。

 お兄さんと目が合った。

 おやっ、というような顔をしたお兄さんは、少しだけ何かを思い
だそうとしたように見えたが、それから右唇をすこし曲げて、僕に
そっと微笑みかけた……ように感じた。
 お兄さんはひとりだったけど、寂しそうじゃなかった。
 今日はクリスマス・イブだった。
 パパとママが、僕のほうを何か期待をこめたようなまなざしで、
じっと見ていた。今学期は通知簿の点がちょっと良かったからかも
しれないな、と思った。そう、僕も未来はちょっと明るいかなと、
なんだかしらないけど、そう思っていたのだった。

 でも、未来なんかより、今日の3000円が重大事だった。
 だって、今日は僕にとってのクリスマス・イブなんだから。

 そして、僕とパパとママは(そしてたぶん妹も一緒だったけど)、
そごうデパートへと入っていった。


 ……げんそうじゅう?


 その夜、買ったゲーム盤でパパと1回遊んでから、幸せな気分で
僕は布団に入った。
 子供にとって布団は大きなものだった。冬用の掛け布団を頭から
かぶってしまえば、それはまるで海に潜っているようなものだった。
そういう遊びが好きだった。
 ズブ…ズブ…ズブ…
 潜っていくと、そこは真っ暗闇だ。布団の中だから当たりまえな
のだが、それはまるで暗黒のトンネルのようでもあり、やはり深海
のようでもあった。
  ズブ…ズブ…ズブ…
 暗黒の中に、怪獣が現れた。昼間のそごうデパートを突き破って
現れた。歩道橋のうえで巨大な怪獣を見上げる僕。

 <デパート怪獣 サクラコ>

 脳裏にテロップが現れた。これは手ごわそうだ。変身した僕は、
怪獣にジャンプ・キックをお見舞いした。怪獣が倒れた。
 (やったか?!)
 怪獣は動かない。しかし僕のキックの衝撃で、そごうの建物も怪
獣と一緒に倒れてしまった。おもちゃ売り場の8階あたりがメリメ
リと壊れた。
 (しまった!)
 その油断をついて、死んだふりをしていた怪獣が僕に襲い掛かっ
てきた。腹と顔面を怪獣のごつい手に殴られて、布団の中で「あうっ、
あうっ!」ともだえる僕。ピンチだ。エネルギーも尽きようとして
いる。時間がない。
 そのとき、道路を押しつぶすようにして倒れた僕の目に、昼間に
あの歩道橋のうえで出会ったお兄さんの姿が映った。お兄さんが僕
に何かを訴えようとしている。左手をなにか揉み揉みするように動
かしている。
 (そうか!)
 変身して巨大化していた僕は、街路樹に掴まって立ち上がると、
怪獣サクラコの胸めがけて、指を開いたり閉じたりしながらパンチ
をくりだした。
「揉み揉みパーンチっ!」
 ドリルパンチの変形っぽくて、我ながら格好よかった。怪獣は胸
が急所だったのだ。その怪獣は、すっと僕のパンチを吸い込むと、
うぐっと呻いて、ザザンと崩れた。
 勝った! 布団の中で倒れた怪獣を見下ろしている僕。その怪獣
から、すうっと何か幻のようなものが浮かび上がって、蜃気楼のよ
うに大空へと舞っていった。それは栗色の髪をした、女の人の姿を
していた。
 去っていった。怪獣サクラコは空の彼方へと、もう手の届かない
ところへと消えてしまった。
 僕もそろそろ戻らなければ。うん。空を見上げてひとつうなずき、
僕はシャッと飛び上がった。

 そして、しあわせに満ちて、眠りにおちる。

 そして、朝が来た。目覚めた布団は、僕が潜るには、もう小さす
ぎた。ここは、神戸ではなかった。あれからいくつものクリスマス・
イブが過ぎて、終わって、消えてしまった。そして、今、僕はここ
にいる。子供のころは地の果てだと思っていた遠いところに。
  
 そう、僕は戻ってきたのだ。幸福だったときの僕の幻想の世界か
ら。時が過ぎた現実のクリスマス・イブの今日の朝へと。
 いまの僕はしあわせでしょうか。
 ……はい、しあわせです。幻想をみつづけています。
 それは現実から逃げているということでしょうか。
 ……わかりません。ひとりでいるということは、そういうことな
のでしょうか。

 でも、今度の正月にはあの三宮に帰ってみよう。いまはそう感じ
ています。

 あのころの冬は寒かった。
 戻りたいとは思わないけど、でも忘れたくない。
 ……だから、日記を書きます。