暑中スペシャル
第七章 暗転
<確保ぉぉぉっ! 確保しましたぁっ!
キミの心を! よく頑張ったな、もう大丈夫だ。
さぁ病院に行って手当てを受けよう。だって、頭が変なのだから。>
ドクター先生の黒い革靴が、ギリギリと肉色の物体の残骸を踏み
つけている。
さきほどまで臭気を撒き散らしていたその物体はすでにほぼ二次
元の平面と化し、そこから流れ出る暗赤色の液体は地面にタラタラ
と流れ、さらなる悪臭を南国の暑い太陽の下に発散し、溶けていく。
ここはバザール。休日の自由市場、フリーマケット。
僕たちは、分かってしまった。僕と、僕が座っている茣蓙の上で
プルプルと震えているお嬢様、黄色く怯えているサイコロ状の小さ
な肉塊は、ドクター先生が踏み潰した物体の正体を、直感的に、分
かってしまった。
それは、ヒトの、心。
あるいは魂。
まるで心臓のような。
…僕たちにからんできた酔っ払いの男。お嬢様を食べようとした
男の心臓が、いま目の前でドクター先生の靴の下でギリリギリリと
潰され、引き裂かれ、そして地面へと吸い込まれている。
「こ…、殺したのですか」
「ふん」
ドクター先生は鼻を鳴らしたような声を出して唇を歪め、実にく
だらないことだというような表情で僅かに笑った。
そして右腕を伸ばして後方を指し示した。そこは南国のバザール
の人込みの中。
あ…あぁ…そこには、先生が示したその向こうには、
…あの男がいた。
ふらふらと千鳥足で、家族づれの人々とぶつかりながら、放心状
態で歩いているのは、まさしくあの無礼な酔っ払いの男。
しかしその歩みが不規則かつ不安定なのは、酒酔いによるもので
はないことは、はっきりとわかる。
その顔は、アルコール中毒の人のような赤焼けた色をしているが、
その眼の虚ろさは酔いがもたらせたような肉体を酒精に侵されたも
のではなかった。
精神が…侵されている。いや、犯されている。
誰に?
「わたしがっ!」
ドクター先生がとつぜん、テノールの響く声量で叫んだ。
元酔っ払いの男が人波の中から、ハッとこちらへと顔を向けた。
その距離はここから10メートルくらいだろうか。
「あなたの心を!」
ドクター先生が歌うようにさらに叫ぶ。笑っている。唇を、頬を
歪ませて笑うように、蔑むように。
元酔っ払いの男の眼が、怯えている。ドクター先生を見て、震え
て…黄色く…唇が…その心の動揺を映して、泣きそうな逃げ出しそ
うな、それでいて泣けない逃げ出せない、その状況に明らかに男は
怯えていた。
「奪って!」
元酔っ払いの男の口が半開きになった。ドクター先生を見つめて
いる。焦がれるように。
その男をドクター先生の冷たい眼差しが睨みつける。冷たく、ひ
たすら冷たく、笑いながら、嘲りながら。
男はドクター先生のもとに駆け寄りたいような、逃げ出したいよ
うな、その逡巡で立ちつくしている。まるでゾンビ人のように、ふ
らふらと、ゆらゆらと。そしてわなわなと、罠にかかった小鳥のよ
うに。
「踏みにじったぁっ!」
ドクター先生の高いテノール声が、夏の大空にこだまする。
「ぁあ…あぁぁぁああ…あぁあっ!」
酔っ払いの男が髪を掻きむしり、狂おしく眼を大きく開いて…赤
く黄色く瞳を充血させながらドクター先生を見つめ…叫んでいる。
あうあう、あうあうと口を開閉しながら…言葉にならぬ嫌な音声を
発しながら。
「はっ、はははは、ははははははは、ハハハああああっ!」
ドクター先生が実に愉快そうに笑っている、狂ったように。
「あぁぁぅあああ…あ…あああぐぁ…!」
「ハハハハハハハハハハハ、ハッはははははぁっ!」
二人の狂人が叫びあっている。
泣く男と、笑う男。陰と陽。生と死。拒む者と慕う者。
「ハハハあ、ハァハァ…なのにっ!」
ドクター先生の首が、キリリと回って僕たちのほうを向いた。
怖い。恐い。コワイ。
「なぜ、なぜアナタは…私に心を奪われないのですかぁっ!」
ドクター先生がお嬢様…六角形のサイコロのような小さな肉塊に
ビシリと指を突きつける。
僕の目のまえで、小さく脈打つお嬢様は、またさらに少し黄色く
なって…
「恐れているんだね」僕は心で囁いて、
お嬢様はすぐにプルッと震えたかと見えると、たちまち赤くなっ
て、
「怒っているんだね」僕は声に出して呟いた。
「フフフふっ」
その時、一陣の風が吹いた。風に乗って、僕の右隣のほうから、
若い女性の小さな笑い声が、僕たちの耳へと運ばれてきた。砂塵が
舞うその向こう側から、その含み笑いは聞こえてきた。
「なぜ、ですって? フフフふっ」
風が収まった。
影が、南国の真昼の陽光に照らされて、形を成してきた。
そして僕の目に映ったものは…勉強机と椅子だった。
「フフフふっ」
僕と同じようにフリーマーケットの売り子の人々は色とりどりの
茣蓙やビニール製の敷物を並べてみんな地べたに座っている。
そのスペースの中でただ独り椅子に座っている少女がいた。
僕の隣に、それはとつぜん現れたかのように、学校の椅子と机が
一組、そしてその椅子に座って、机に頬づえをついている制服姿の
少女がひとり。
地べたに座っている僕は、彼女の姿を見上げるような形になって
いる。
「き…君は…西院(さい)さん?」
大きな顔の少女がひとり、まるで高校の授業から椅子机ごと持ち
去られて抜け出してきたかのように、屋外のバザールの色彩豊かな
出し物の中に、ぽつんと座っている。
その当人、西院さんはしかし、いかにも自然に、いつものような
半ば眠たそうな顔で、僕のほうを愉しそうなにぼんやりと見つめて
いた。
「き…君は…サイ君かね。なぜ…ここにっ?」
立っているドクター先生も呆気にとられて西院さんに近づこうと
こちらに一歩ふみだそうとした。
「フフフっ」
そのとき、西院さんの大きな顔の中の小さな瞳に、何か炎のよう
なものが揺らめいたように、僕には見えた。
そして、西院さんは、頬づえをついていた机から腕を離して、僕
とドクター先生にむかって机の上を見るようにと、目線で伝えた…
ように見えた。
僕と、そしてドクター先生は、西院さんの机の上を見た。
そこには…あぁ、なんということだろう…今まで西院さんの腕に
隠れて見えなかったのだが、そこには…あぁ、なんということだろ
う…小さな…小さな…30センチくらいの…そう、人間の体と比べ
ると1/6くらいの、つまりあり得ないサイズの…
『少女』がいた。
大きな瞳を潤ませた『少女』がちょこんと、足をくずして座って
いた。
その『少女』の淡い色の髪はセミロングでとても綺麗で、そして、
そして…あぁ、なんということだろう。その『少女』の頭には、ま
るで猫のような可愛い耳がぴょこんと付いているのだった。
(みゃーん)
「な、なんということだ! サイ君…キミは…キミは…」
ドクター先生の掠れるような呟きを楽しむかのように、西院さん
はまた小さく哄笑した。
「フフフふっ。物語がピンチになると現れるのよ、ネコ耳さまが」