暑中スペシャル
第五章 二重(ふたえ)の采、そして旅立ち


 <さぁ、旅立とう。止まってはいられない。死んじゃうから。
  ……死んじゃうから、僕の心が、苦しくて。 
  青い青いキミの心。赤い赤い僕の心。なぜこんなに…キツいの?>

 ハルオはそれを小さく口にした。
 彼の机の上で脈動する「お嬢様」とドクター先生から呼ばれてい
る六角形の物体、暖かく息づいているサイ…サイコロ、その眼の数
を。
「ろ…六です」
 じっと視ている。六つの眼が、それの上面をじっと覗きこんでい
るハルオの双眸をみつめていた。深く、引き込まれるような蒼い月
のような瞳が。
 蒼い、青い、暗き澱みの水のようにアオい眼球。
 満ちる涙を湛えるように、それはなんて……
「六ですか……。あぁ、なんて彼女のオモイは深いのでしょうか」
 ドクター先生が嘆声をあげた。その白衣は、窓から差し込む夏の
日差しをうけて、透き通るように彼の細身の身体の輪郭を映しだし
ている。
「何ということだ。あぁ、お嬢様!」
 その輪郭は、普段のドクター先生らしくない大仰な手振り、オー
ケストラの指揮者のように両腕を夏の空に突き出すようなしぐさを
さらに強調するように、白衣の下で影絵のように踊っている。
「ハルオ君! そ、そして彼女の心はっ!」
 ドクター先生が右指の人差し指と中指をそろえて、びしっとハル
オの顔を、まっすぐに腕を伸ばして指し示した。
 まるでフォルテッシモのように。
「あ…え…? 六ですけど……」
 びしっ、と指差されたハルオは、そんなドクター先生の勢いに押
されながら、同じ言葉を口にした。彼女の眼の数を。
「ああっ、違います! それは彼女のオモイの深さがマキシマムで
あることを現しているにすぎない。キミは人の心を一重(ひとえ)
でしか捉えていない…」
 ドクター先生が悲壮な表情と手振りで教室の天井を仰ぐ。
「一重って言われても…」
「キミはっ、彼女の心の表面しか見ていないっ!」

   @
 (フフフっ、でもよく視たわね。アタシの深いオモイを)
 教室のうしろで両手で腕枕をした中に大きな顔を突っ込んで、ま
だ眠ったままでいるサイ・ユキコ。彼女がまた静かに笑った。その
小さな口の端をキュッと僅かに歪めながら。
   @

「よく見るのですっ!」
 びしっ。またしてもドクター先生の見えないタクトがハルオの顔、
そして机の上の脈打つ物体を指し示した。

 なにもかも、わからない。

 わからないけれど、ハルオはもう一度その物体、「お嬢様」を上
から覗き込んだ。
 じっと顔を近づけると、その物体の発する暖かな熱が鼻頭と唇に
吹きかかるように感じられる。くすぐったいような、愛しいような、
怖いような、そんな感覚にドキドキしてハルオの息づかいは荒くなっ
ている。
 …キスしたい…
「お嬢様に、触れないっ!」
 びしっ。一瞬のオモイはすぐにドクター先生に看破され、ハルオ
はハッと息を呑み、突き出そうとした唇をぴくっと引っ込めた。
 教室に不意に溢れる失笑。
「惜しかったな、ハルオ」
 隣の席のアズンバが冷やかしの声をかける。さらに増幅されるハ
ルオを取り巻くクラスメイトたちの失笑の声。
 ハルオはキッとアズンバを睨んだ。
 …アズンバはその頬を真っ赤にしていた。
 何を興奮しているのだ、この悪友は? 俺とサイコロのキスシー
ンを期待して何をドキドキしているのだ?
 …なぜ俺はドキドキしているのだ?
 教室に差し込む夏の太陽の熱が暑い。ふと眩暈を感じた俺は、ま
わりを取り囲んでいる男女のクラスメイトたちの顔を眺め回した。
みな、いちように張り付いたような笑みをうかべながらも、何かに
浮かされたような眼差しで真剣に、真摯に、そして熱く俺とサイを
じっと見つめている。
 こ、これは本当にキス・シーンを見守っている観衆の視線ではな
いか!
「ハルオ君、さっ早く」
 ドクター先生がしばしぼうっとしていた俺を促す。
 俺はふたたび顔を、目を、唇を机の上のサイコロ状の肉色の物体
に近づけた。
 ゴクリ。
 という唾を飲む音が何人かのクラスメイトの喉から漏れた。
 勘弁してくれ。これじゃ本当にキス・シーンを見られている、期
待されているようじゃないか?
 なぁ、お嬢さん。
 俺はサイコロ、サイの表面の六つの眼をみつめた。
 その六つの眼は、先と同じように深い青色で、透き通るようなゼ
リーのような、そんな中に浮いていて、その奥深くまで見とおせる
ようであり……浮いている?
 この、肉色のサイコロ、脈動するサイ…その鼓動とともに六つの
眼がゆらゆらと揺れている…波に漂う海月(くらげ)のように。
 その眼の色、蒼、青、アオ。それは眼の色ではなかった!
 それを浮かべているサイコロの内部構造の色、少し固めのゼリー
のような、蜜豆に浮かんでいる寒天のような、六角形の…
「やっと気づいたようですね、ハルオ君」
 ドクター先生の声でハルオは我に返った。
「な、な、何ですか? このサイコロ、内側にもう一つの!」
「そう。それこそ内なる心のサイ」
「内なる心?」
「うむ」
 ドクター先生はじろりっ、と周りに集まっている生徒たちを眺め
やってから、転調するかのように元の穏やかな教師の語り口に戻り、
そしてかく語った。

 人の心は一重にあらず。
 表の心と、内なる心。
 オモイの深さと、オモイの方向である。
 深さ、すなわちサイの目。それは起伏の度合いを表すモノ。
 方向、すなわちサイの色。それは感情とも呼ばれるモノ。
 心のサイを振ると、その二重構造の心は互いに転がりあい
 六と六、あわせて三十六の結果のうち一つをもたらす。
 これ、単なる結果にあらず、すなわち人のオモイなり。

「……三十六って、けっこう簡単なんスね、人の心って」
 アズンバがその説明を聞きながら、なんとはなしに呟いた。その
呟きは(アズンバにしては珍しいことだが)クラスメイト何人かの
賛同を得たようである。うんうん、という肯きが感じられた。
 だがしかし、
「その心をキミは読めるのかね? ん?」
 びしっ、とドクター先生は架空の指揮棒をアズンバに向ける。そ
してクラスメイトたちを順繰りに見回す。
「心は隠されるものです。特定の、オモイを開いてもいいと許した
人のほかには」
 ドクターは真剣な口調、まるで致死の毒物の扱いを説明するよう
な冗談を許さない強さで生徒たちに語りかけると、最後にまだサイ
コロから3センチの距離で見詰め合っているハルオにびしっ、と視
線を向けた。
「さぁ、お嬢様が心を許したハルオ君よ! 今こそ告げたまえ、お
嬢様のお気持ちは如何にっ?!」
 ドクター先生がびしっ、とハルオを見つめる、その視線が痛いほ
ど肌に焼き付いて感じられる。
 …まるで、そう、まるで恋敵を射殺すかのような激しい視線。

   @
 (フフフっ、嫉妬なのね。いいわ! そうよ。もっと、もっと、
  あのギリシア神話の女神ヘラのように、焼けるオモイを抱き
  なさい!)
 ……アタシは、アナタでなければ、誰だってよいのだから! 
   @

「さあっ!」
 ドクター先生の催促の声。その声はまた再び冷静さを失って情熱
を帯びたものになっていた。
「…あ…あ…」
「赤なのか…赤なのですかッ!」
 ハルオは小刻みに首を振った。
「そ、そうですか。怒ってはおられないのですね」
 ドクター先生の震えた声。そこから少し安堵のようなため息が漏
れた。
「な、ならば何色ですか。アナタは何をオモっているのです?」
 アナタ? この「お嬢様」と先生が呼んでいるサイコロのことだ
ろうか? いったいこの先生と「お嬢様」って…?
 ハルオはそういったことを虚ろに考えながらも、ドクター先生に
釣られるような形で、少し慌て気味でその問いに答えた。
「あ、青です。深い…」
「ああっ、なんとっ!」
 ドクター先生はガバッと両手で自分の顔を覆って、そして、嘆い
た!
「お嬢様は、悲しんでおられるっ!」
 その先生の振る舞いをみて、呆然とするクラスメイトたち。
 しかし、ハルオだけは妙に得心していた。そうか…だからこの、
彼女の六つの目はこんなにアオい涙を湛えているのか、と。
「しかもアオの六っ! とても深い悲しみ。なんたること! お嬢
様は悲嘆に染まっておられるっ、おぉっ!」
 ドクター先生が髪を掻きむしるように、くるくると一人で踊るよ
うにその場で回転をはじめた。
 ……狂っている。
 誰もがそう感じた。
 まるでシェイクスピアの悲劇のクライマックスを演じているかの
ように、感情を制御できなくなった狂王のように、嘆き、叫んでい
る。
 その狂える王の漆黒の双眸が、ピタリとハルオを捉えた。
 ……ハルオは泣いていた。
 哀しみの蒼い六つの眼をみていると、なぜかしら感情が溢れてき
たのだ。彼はまだ若い高校生である。可憐な乙女の潤む二つの眼で
みつめられたら恋の虜へと堕ちていく年頃である。
 それが六つの涙目でオモイを訴えられたらどうなるであろうか。
仕方がないことと言わねばなるまい。
「ハルオ君!」
「ド…ドクター先生っ!」
「行くぞっ、彼女をその深い悲しみから救うのだ」
「はいっ、先生!」

 そして、唖然とするクラスメイトたちを尻目に、白衣のドクター
先生と脈打つサイコロをやさしく掌に包んだハルオの二人は、教室
の窓辺へと向かったかと思うと、夏の熱気をすこしでも冷ますため
に開けっ放しになっている窓から身を乗り出し、
 ガバッ……と外へ、空へと飛び出したのだった。

   @
 その時、大きな顔のサイ・ユキコは、まだ眠っていたが、大きな
あくびをしたのでした。
 (あああっ、まだ眠いの)
 それは何かを吸い込むかのような、大きな顔のわりには小さな口
の、深い深いあくびでした。
   @ 

「き、消えた…」
 アズンバが呆けたような声を出した。
 慌てて窓へと駆け寄ったクラスメイトたち。誰もがアズンバと同
じ驚きにとらわれていた。


   ※


 なにもかも、わからない。
 遠い空、苦りきった黒い海。

 笑い声。幼き子供と、その手を引く父母の笑い声。

 ここはバザール。休日の自由市場、フリーマケット。

 ……なにもかも、わからない。

 そんな場所に、ハルオは居た。

   @
 そしてサイ・ユキコは、まだ幸せそうに眠っていた。小さな口の
端をニヤリと揺らめかせながら。
   @