暑中スペシャル
第四章 あなたが振った目、そして奪われたアタシの心
<キミに触れてもいいのかい? キミのその柔らかな肉体に。
もし先に、キミの心を覗くことができるのならば、
どんなに苦しみは少ないだろう……いや、そう信じたい>
夏の教室。ハルオの机のまわりに集まった生徒たち。そう、正確
に描写するならば、ただひとり幸福そうに薄笑いを浮かべて爆睡し
つづけている顔の大きなサイ・ユキコ嬢を除いた生徒全員と、そし
てドクターと生徒たちから呼ばれている白衣を着た痩せて細目の夢
授業の先生が、ハルオの机のまわりに集まって、じっと一点を凝視
していた。
ハルオの指を。その指が触れようとしている机の上のサイ、肉色
をした六角形のモノを。そのモノは脈動している、生きているかの
ように。
ハルオの人指しゆびが、小刻みに震えながらそのモノに近づき、
そのモノに触れる……とその刹那の直前に、
「待ち…!」
言った本人の心の葛藤をさらすかのように、その突然の言葉はそ
の途中で止まり、しかしその声は静まり返った教室に響き渡った。
声の主は……ドクター先生。
ハルオの緊張と逡巡を宿していた指先も、何か己を止めだてして
くれるきっかけを待っていたのであろうか、そのモノから1センチ
メートルの空間でピタリ、と止まった。
(うっ、この距離だと、こいつがもっている生暖かい熱が…指先に
伝わってくるよ。生きている、生きているよ、こいつ)
ハルオは内心、ぞくりとするような興奮が高まったのを感じて、
無意識のうちにゴクリと唾を飲み込んだ。しかしその興奮は、たと
えばカサカサと蠢く昆虫に触れようとしているときのような得体の
しれない気色悪さから沸きおこるようなものではなく、むしろその
逆で、赤ちゃんに触れるときのような慈しみと傷つけないようにと
いう慎重さから高まってくるような、そんな感覚だった。
「コホ、待ち…待ちなさい」
空咳をひとつして、ふたたびドクター先生がハルオの指に待った
をかけた。感情を表に出すことが少ないドクター先生らしくなく、
その声から喉がカラカラに渇いているほど緊張していることが、そ
こにいたクラスメイト全員に感じられた。
ハルオは、その指をじっと肉色の六角形のモノに触れるか触れな
いかの位置でとどめながら、自分の席の隣に立っているドクター先
生の顔を見上げた。
ドクター先生と目が合った。
お互いが相手の瞳の中に緊張のみなぎりを感じ、そして一瞬後、
この異常事態に立ち会っているのは自分ひとりではないという何と
はなしの共感が二人のあいだに生まれた。
そしてそれによって、ハルオとドクター先生の神経の緊張が少し
解けたようであった。
「うん…そうですね…」
ドクター先生が、少し言葉を探すようにして、ゆっくりとハルオ
への語りかけを続けた。
「君が触れようとしているのは、なにか分かりますか?」
「……これは……」
ハルオは言いよどんだ。
@
(フフフっ)
教室のうしろで両手で腕枕をした中に大きな顔を突っ込んで眠っ
ているサイ・ユキコが、静かに笑った。そのことに、誰も気づかな
い。
@
「お、お嬢さんじゃないんスかぁ?」
ハルオの隣の席からの少し遠慮がちな、しかし寝ぼけたような声
が、クラスの静寂を破った。アズンバだった。
そのときハルオには、ドクター先生の唇がピクリ、いやニヤリと
わずかに一瞬だが歪んだように見えた。
「そう、お嬢さんです。とても大切な」
ドクター先生が、ゆっくりとクラスの生徒たちに聞かせるように
アズンバの問いにこたえた。
「か、可愛いお嬢さんっスね…」
正解を褒められたと感じたらしく調子にのったアズンバが、いつ
ものとおりさらに軽口をたたいた。
それに対するドクター先生のいらえは、少し苛立ちを含んだ鋭い
声音であった。
「可愛い? そう思うのですか、アズンバ君?」
アズンバの顔をドクター先生が睨んでいる。アズンバは、これま
たいつものとおり、すぐに尻込みをした。
「ひっ……い、いや、気色ワルイっス…」
ドクター先生はアズンバの顔からすぐに目をそらし、またハルオ
の顔をじっとみつめた。
「ハルオ君。君も、気色悪いですか。君が夢世界から持ち帰ったそ
の…」
「…暖かいです。まるで、なんていうか」
(夢の中で、草原の中で、青い空の下で)
そう、それはまだ今日の、まだ1時間もたっていない過去のでき
ごと。あれは、出会いといえるのだろうか。
(ベッドに横たえられた可憐な女の子と会った。銀髪が綺麗だった)
その瞳をみたとき、胸がトクン、としたよ。
ハルオはそのときのことを思いだしていた。いまもまた、その胸
がトクンと高鳴るのを感じていた。
「…まるで、人を好きになってしまったときの気持ちのように」
「ほーっ」
「ヒューっ」
「やるーっ」
静まり返っていた教室が、そのハルオの言葉でいっきにざわめい
た。そして緊張の糸が切れたのか、生徒たちはお互いにがいがいわ
やわやと喋りだした。ハルオの机の上のモノについて、そして先ほ
ど見てきた夢世界の少女とのできごとについて。
「静かにっ!」
パンパン、と手を鳴らして、ドクター先生がその喧騒にピリオド
を打った。ふたたび教室に静寂がおとずれる。しかし生徒たちの顔
には先ほどとは違って安堵が広がっていた。
……しかしそれも長くは続かないのだが。
「ハルオ君に質問を続けます。君は好きになってしまったのですか?」
「…エっ?」
「君がいま指さしているお嬢さんを」
「…い、いえ…むしろ…あの夢世界で会った女の子は可愛かったな
と思いますけど…」
ハルオは、自らが無意識に「好き」という言葉を使ってしまった
とはいえ、高校の先生からクラスメイトたちのまえで恋愛感情につ
いて告白をさせられるとは思ってもいなかったので、しどろもどろ
になっていた。
「ですから、その夢世界の女の子がお嬢さん、すなわち君が持ち帰っ
ているその…」
ドクター先生の追求は、そんなハルオの感情を無視するかのよう
に厳しく続いた。
「その…サイなのです。それでも君は……君は好きなのですか」
「…エっ?」
どぎまぎしながら、ハルオはその机の上の肉色のモノ、サイを見
つめた。
小さく、小さく、脈打っている。指先に伝わる熱。それは自分と
ほぼ同じくらいの人間の体温に近いものだと感じられる…温かい。
「す、好きというより…な、なんだか愛しいかも…」
「エっ!!!」
ふたたびざわめくクラスメイトたち。しかしドクター先生とハル
オの耳にはその喧騒は入らないかのように、二人は問答を続けるの
であった。
「な、ならばですよ。お嬢さん…すなわち彼女は君のことをどう思っ
ているのでしょうか」
ハルオはドキリとした。そういえば、夢世界での出来事は、あれ
は夜に見る夢と同じように、自分はシナリオに沿って動いていただ
けのような気がする。しかしシナリオどおりに行動しただけとはい
え、ハルオは彼女の胸から無理やりこのモノ、肉色の六角形の断片
を『奪った』のではなかったろうか。
(ふ、ふつうは嫌われている、いや憎まれてるよな)
「か、彼女の気持ちを知るまえに、これを奪ってしまいました…」
ハルオの声は悲しみで震えていた。クラスメイトたちは、それを
呆然と聞いていた。茶化すことができそうな軽いレベルではない感
情をその声に認めたからだった。
「いや、それはよいのです。しかし問題は、その後にお嬢さん、す
なわちサイを振ってしまったことなのです」
ドクター先生がピシリ、とハルオの机の上の脈打つ『お嬢さん』
を指し示した。
「さあっ、振ったからには後戻りできませんよ。確かめるのです、
彼女の気持ちを!」
「…ど、どうやってですか!」
ハルオと、そして生徒たちの8割が同時に叫んでいた!
それに対してドクター先生は、なにを当たりまえのことを訊くの
だというような表情で、無造作にこう言ったのだ。
「彼女の心を知るのです」
「…だ、だからどうやってですか?」
「目を見るのですよ」
生徒たちは思わず、隣にいたクラスメイトたちと目を見つめあっ
た。確かに「目をみて会話しないと心は伝わらない」とは聞いたこ
とはあるのだが…。
「違います。その目ではありません。もっと、ごまかしの効かない
目を覗きこむのですよ。ほら」
そしてドクター先生は、ふたたびピシリと指さしたのだった。ハ
ルオの机の上で、安らかにまどろんでいるかのように、呼吸をして
いるかのように収縮を繰り返している肉色の六角形のモノを。
サイを…サイ、コロ?
「そうです! 彼女のサイを振ったからには責任をとりなさい!
見るのです、その目を! そして知るのです、君が彼女からどれだ
けの心を奪ったのかをっ」
こんなに興奮して叫ぶように話すドクター先生をみた生徒は、こ
れまで一人としていなかったであろう。
@
(エっ、なになに、そんな、待ってよ)
教室のうしろでまだ眠っているサイ・ユキコの頬がピクピク震え
ている。そのことに、誰も気づかない。
(そんな、まだ心の準備が…)
ピクピク、ピクピク。
(…無駄なのね)
ピクピク、ピクピク。
(フフフっ)
まぁいいわ、あなたなら。
……いえ、あの人でなければ、誰だって!
@
クラスメイトの注目を浴びて、ハルオは机の上に指さしっぱなし
にしていた人指しゆびをゆっくりと離してから、覗き込むようにそ
の六角形のモノに顔を近づけた。
ハルオの眼が、六角形のモノの上面をみつめている。今まで肉色
の塊としかみていなかったのだが、サイコロと思って見つめている
と、その上面、いやその表層から少し沈んだところにぼんやりと丸
い点が浮かんできたような気がしてきた。
いや、はっきりと浮かんでいる。まるでその点も意志のある目の
ように、光を湛えたり潤んだりしているようであり……
ハルオの眼が、夢世界の少女のサイの目をみつめていた。
「あのぉ、サイの目は大きいほうがいいンですか? ちっちゃいほ
うがいいンですか?」
アズンバの間の抜けた声は、まるで遠く彼方から聞こえてくるか
のようだった。
夢世界の少女のサイの眼が、何かを訴えるようにハルオの目をみ
つめていた。
そのサイの眼の数は……ハルオはそれを小さく口にした。
「……です」