暑中スペシャル
第三章 サイのお嬢さん


 <キミを晒す(さらす)。なぜって、僕はキミが好きなのだから。
  僕の目を見ないキミの横顔。恥ずかしがっているの? 
  それとも……逃れたいのかい? この僕と同じ時間と空間から>

 ハルオたちが白衣のドクター先生から夢授業を受けていた教室、
その空間はいま、あれだけ響いていたセミの鳴き声さえも途絶え、

  コロン、コロン、コロン……

 木製の机の上を、ハルオの手からこぼれた薄くピンク色をおびた
肉色の六面体、あぁそれはサイコロと呼ぶべきものであろうか、そ
れが転がりすべる音が小さくしかし精神にこびりつくようにクラス
メイトたちの耳から耳へとその聴覚へ伝播したのはつい数十秒前の
過去に流れていったできごと。

  トクン、トクン、トクン……

 そしてハルオの机の上のノートの縁に当たって止まったその物体、
サイコロのごとき形状と赤子の肌のごとき色彩をクラスメイトたち
の目から目へとその視覚に晒しているその物体、それはいま、現在
のときを刻むかのように、

  トクン、トクン、トクン……

 微かに(かすかに)、幽かに(かすかに)、

  トクン、トクン、トクン……

 脈動している。

  トクン、トクン、トクン……

 ハルオの通う高校の、ハルオが平日の時間を過ごす二階の教室の、
ハルオが座って日常の授業を受ける机の上で、
  
 脈打っていた。


 ……アタシの心は、脈打っていた。

 彼女は、大きな顔をしていた。
 それは彼女の性格を例えた表現ではなく、本当に大きな顔をして
いた。口の悪いクラスメイトの男子の言葉を借りると、それはまさ
しくビッグ・フェイス。
 つまり、でかいのである、そのかおが。
 それも尋常でなく。
 彼女の名前は、西院由紀子、サイ・ユキコ。西の都から今年の春
に転校してきたばかりである。ハルオの同級生なので高校二年生。
 そして顔がでかいのである。
 身体は小柄で細身であり、現代の高校生としてはこれはちょっと
真剣に今後に期待しなければならないかなとクラスメイトの男子か
らも女子からも思われ、そして本人でさえそう思っているほど胸も
小さく、そんな首から下の六分の五頭身までは子供のように可愛ら
しい彼女なのだが、顔がでかいのである。
 それが彼女の転校当日から、彼女にとって移り住んだ新しい街で
出会った人々に彼女が与えた、最大にして最強の特徴であった。
 だから、誰も彼女を忘れたりはしない。
 いや、忘れられない。


 ……忘れることなんて、できない。

 ……だから私は時間を越えて、空間を越えて、夢と現実と次元の
   境を越えて、ここまでやってきた。そして再び、

   みつけた。

 キミのかけらを、みつけた。

「ふたたびようこそ采の国(さいのくに)へ、お嬢さん」  

 そこには、ドクター先生が立っていた。
 現実なのかこれは、とハルオは思い続けていた。生きた肌のよう
な牡丹色のサイコロが脈動するかのように律動(リズム)を刻んで
いる、その小さな物体を目でとらえつづけながら、彼の脳は知覚能
力を失ったかのようであり、その身体は動くことを忘れてしまった
かのようでもあり、呆然とただ、立ちつくしていた。

  トクン、トクン、トクン……

 現実なのか、これは? 現実なら、夢世界から戻ってきた俺の手
からこぼれたこの小さなモノは、これは何なのだ? 


 ……現実よこれは。少なくともアタシにとっては。
   だって、あなたはアタシの存在をちゃんと見ているじゃない。
   モノですって? ま、なんて失礼なのかしら。
   それは小さなアタシの心。
    それは可愛いアタシの心。
     あなた、アタシの心をその手で握ってたわよね。
    忘れたなんていわせないわ。
   誰もアタシを忘れない。

   覚えていて、アタシはサイ……
   ……あっ、ダメだよ。そんなに見つめたら。
     なんて失礼なのかしら。
     アタシの心をそんなに凝視しないでよ。
     エッチね。  
     あっ、そんなに近づいて見ないで、
      あっ、触らないで。
       あっ、彼の指が近づいてくるよ、あっ、ダメダメ
        ダメなのダメなの、いやいやいや、あっ
         そんなに、そんなに、
          アタシの心が欲しいの、ああっ触覚はダメ
           イヤなのよホント、イヤなの、
            見ないで、もう見ないで、無理ダメ、
             ああっ、っっっ、っっっ、

 「フフフっ」
 彼女は小さく笑っていた。
 その大きな顔の中で、小さく笑っていた。
 

 そしてハルオは、その小さな脈打つモノを凝視していた。
「へ? お嬢さん、って何すか、先生?」
 隣の席に座っているアズンバが、ハルオとアズンバの席の間に立っ
てそのサイコロのようなものを熱い眼差しで見つめているドクター
先生を見上げながら質問をした。
「……ん? あ、あぁ、それはですね」
 いつもは冷静、いや、その白衣と同じように無表情そして無感情
とでも形容したほうが相応しいドクター先生が、珍しく口ごもった。
そして彼の悪友であるアズンバの声(それはまだ半ば寝ぼけたまま
のような口調であったが)が耳に入ったとき、呆然としていたハル
オの意識もハッと現実に戻った。
「お嬢さん……?」
 ハルオは、肉色のサイコロを握っていた右手を自分の顔の前に広
げて眺め、そして机の上で微かに震えているサイコロへと視線を転
じた。右手とサイコロ、交互に眺めてみる。
 夢世界のあの可憐な銀髪の女の子、その胸から俺が抉り(えぐり)
だしたのか? 机の上の、このモノを、持ち帰ってきたのか?

  トクン、ドクン、トクン……

 ハルオがそう考えた一瞬だけ、机の上のサイコロが強く震えた。 
 
  ……モノですって? ま、なんて失礼なのかしら。

「そう、お嬢さんです。キミがさっき夢授業レビュー・レポートで
話してくれたとおりですよ。そのサイコロ、あぁサイと呼びましょ
う、そのサイは夢世界の少女の胸からキミが持ち帰ったものなので
すよ」
 ドクター先生が、アズンバではなくハルオに、いやドクター先生
は自分自身に語りかけるように、静かに答えた。
「だから、お嬢さん?」
 ハルオはまだ少し呆然としたまま、鸚鵡返しに聞き返した。
「そう。だってそのサイは彼女なのですから」
 ドクター先生の頬が少し笑っているように思えた。それは生徒で
あるハルオに対する優しさの微笑みではなく、まるで、己自身の内
部からの歓喜で湧きあがり震える笑みであるかのように。
「彼女のつけていた装飾品、ネックレスとかを引きちぎったのかも
しれないですよ?」
 そしてハルオの心臓の震えも少しずつ高まってきた。イヤな感じ
が予感として湧き起こってくる。
「それならば、このような綺麗な肌色をして、脈を打ったりはしな
いでしょう?」
 確かにそうだ。ハルオも分かっていた。このモノは装飾品ではな
いかという推論は、彼の理性はもっとも妥当な可能性だと信じたがっ
たのだが、そのサイコロを握っていた右手の掌の感触がそれを否定
していた。アレは、生きた肉だったと。
「じ、じゃぁ、彼女の心臓かどこかの腫瘍だったのじゃ…?」
 そして俺は夢の中で、魔術的な手さばきでその腫瘍を摘出したの
だ。だってクラスメイトの誰かが俺の前にレビュー・レポートで発
言したとおり、あのシチュエーションって医者の手術っぽかったじゃ
ないか? ハルオが次にたどり着いたこの可能性も、ドクター先生
にそっけなく否定されてしまった。
「ふむ。キミは、机の上のサイが、そのような死んだ細胞の残骸に
見えますか?」
 それはハルオにも分かっていた。
 机の上の小さな六面体、そのモノ、それは間違いなく、生きてい
る。
 それは、ドクター先生の言うとおり、あの銀色の髪の、草原で台
に寝かされていた、あの可憐な女の子なのだ。お嬢さんなのだ。
 俺の机の上に、お嬢さんがいる。お嬢さんが、脈打っている。
 生きている、生きている。
 彼女の胸の感触が右手の掌に蘇ってきた。
 ハルオは自分の鼓動が速くなり、息が荒くなるのを感じていた。
そう感じながら、彼は顔をさらに近づけた。自分の机の上、ノート
の縁に添うように止まっているピンクの肌色の六面体に。
 クラスメイトもいつの間にかハルオの机の周りに集まってきてい
る。そして皆んながその脈打つモノ、お嬢さんをじっと見詰めて、
いや、固唾を飲んで凝視していた。

  トクン、ドクン、ドクン、トクン……
 
 また、机上のサイコロが、一段と強く震えた。 

   ……あっ、そんなに近づいて見ないで、

 そして、次にハルオの戦慄く(わななく)心の衝動が、彼の右手
を無意識に机の上へと伸びばしていた。触りたい、生きているのな
ら感触で確かめたい。彼の震える人差し指がゆっくりゆっくりと、
脈を刻むサイ、お嬢さんへと近づいていく。触りたい、もう一度、
あの少女の肌に、感じたい、触りたい。生きているんだろ、ならば
触感が欲しい。欲しい……ハルオの心の止められない衝動、たまら
なく欲しい、彼女が欲しい!

 その静かにゆっくりと、空間をそのモノへと近づくハルオの人指
し指を、クラスメイトたちがじっと見つめていた。じっとりと重い
夏の空気の中で。目のまえに晒されているモノ、お嬢様に近づく指
を、ただただじっと、見つめていた。
 その中には、ドクター先生も存在した。この白衣の男も生徒に負
けないくらい、いやそれ以上に熱い視線をその指とモノに注いでい
た。そして普段は冷静な当の本人も気づいてはいなかったのだが、
その彼の口は無意識のうちにつぶやきを発していた。

 ……忘れることなんて、できない。
   あの時と同じだ。
   
 ……あの時、彼女は私を拒否した。彼女の心は私から逃げた。
   ならば彼、ハルオという私の生徒の指が彼女へ接触しようと
   試みている今回も、同じことが再現するのではないか?
   もしそうなったら、またやり直しだ。
   だが、もしそうならなかったら。

 ハルオの指とそして机の上の美しくも肉々しく存在している六面
体のモノを注視している生徒たちのうち、果たして何人がドクター
先生の表情が苦悶に歪んでいることに気づいたであろうか。

 ……それにしても、彼女の本体はどこに居るのだ。
   心がここに現れたのならば、本体も同じ夢世界からここへと
   トランスファーされたはず。
   どこだ? 彼女はどこに?

 ハルオの机を囲むように集まってきた生徒、そのうち女子生徒た
ちの姿の上を、激しく射抜くようにドクター先生の視線が巡る。
 どこだ、どこだ? 違う、彼女も、彼女も、あの少女の瞳ではな
い。どこだっ?!

  ドクン、ドクン、ドクン、ドクン…… 

 そのとき、由紀子は眠っていた。
 大きな顔をしたサイ・ユキコは、教室の後ろのほうの自分の机の
上に、その大きな顔をうつ伏せにして、二度寝をしていた。
 大きな顔で爆睡していた。

  ……ああっ、っっっ、っっっ、フフフっ。
 彼女は小さく笑っていた。
 その大きな顔の中で、小さく笑いながら、眠りに落ちていた。