暑中スペシャル
第二章 夢授業(ゆめじゅぎょう)


 <このかけらは僕が預かっておこう。
  キミには内緒だ。
  だってキミの心が欲しいから。欲しいのだから仕方ないだろ?>

          *

「いや、だめ、いや、だめなの、いやぁぁ……」
 少女のひきつったような叫び。驚きに見開かれた彼女の瞳。
 ふふっ、と俺は彼女に微笑んだ。
 微笑んだ……彼女に…… 
 少女の淡い銀髪が、優しく涼しい風にのってゆらりゆらり……揺
れている。
 トクン、トクン……
 涼しい風が、暖かく、暑くなって、生暑く、息が、熱い、暑いなっ、
むにゃ、ああっ、暑いアツイ、むにゃ。
 
 ……むにゃ?

 薄く目をあける。ここはどこだ? 窓の外からセミの鳴き声がミ
ンミンミンミンと入ってきて、その大合唱が教室の中にまで響いて
いる。ああ、夏なんだなぁ、とハルオは思った。
 そして夏の熱気もまた、全開になっている窓をとおしてむうっと、
むうっと、むううっっと、ああっ、暑いっ!

 ……夢だったのか。

 と、ハルオは思った。

 そしてクラス全員がそう思った。

 それは夢授業。

 夏の暑い日の午後の夢の授業、寝汗が机に小さな水溜りをつくっ
ている。

(……なんだ、授業中だったのか)

 ふあぁあっ、とハルオは大きくあくびをした。

(まだ眠いな。でも授業ならしょうがないかぁ。いまみた夢のこと、
さっさと忘れないように復習しなきゃ。宿題になったら嫌だしな、
あ、ふあぁああっ)

 机の上で光っている寝汗の水溜りを睡眠から覚めたばかりの目で
ぼうっと見つめながら、大あくびを抑えつつ、ハルオはまだ寝ぼけ
ている脳ミソに酸素を送り込りこむために呼吸を整えようとした。
静かに息を吸って、ゆっくりと吐いて、吐いて、吐いて……。

「おえっ……」

 隣の席から、えずく声。友人のアズンバだ。手で口を押さえなが
ら慌ててきょろきょろと左右を見回している。そして、ハルオと目
が合った。
 ハルオの目にアズンバの姿と彼の机の上の枕が入った。アズンバ
が家から持参した枕の白いカバーは、なんだかねっとりと濡れてい
るようだった。ハルオは、その湿った枕カバーをじっと眺めてから、
視線をアズンバの顔のほうへとゆっくりと移して、彼の動揺してい
る瞳をじっとみつめた。
「汚いなぁ、アズンバ」
 アズンバの瞳を、さらにじーーーっ、とみつめた。
「い、いや、違う違う。これゲロと違う。ヨダレヨダレ、涎だって」 
 アズンバが赤くなりながら首をぷるぷると振って、そしてパタン
と枕をひっくり返した。
「これで大丈夫」
 そしてポンポンとその枕を叩いて照れたように笑った。
「アズンバ、やっぱ汚いって、ヨダレ」
 ハルオは自分のアゴのあたりをちょんちょんと指さした。
「へ、へ、あっ、俺ヨダレまだ垂らして……ちょっとタンマ」
 アズンバが慌てて右の手のヒラでアゴをごしごしとさすった。そ
のアゴからぴゅーっとヨダレの糸が机の上、裏返したばかりの枕の
うえにポトンと落ちた。
「あぁぁぁぁ」
 枕の上に新しくできたヨダレの染みをみて、アズンバが情けない
声をだした。
 それをみて、ハルオは大笑いした。
 クスクスという笑い声、まわりの席のクラスメイトもアズンバの
ほうをみて笑っている。
「し、仕方ないだろっ。あ、あんなエッチな夢をみたんだから」
 アズンバが真っ赤になりながら笑い転げているハルオに反論した
が、その大きな声はクラス中に聞こえてしまったらしい。
 こんどは、クラス全員がアズンバのほうに顔をむけ、そして教室
中が大笑いの渦となった。

 そのとき、教室の前方からパンパンッと教壇を叩く鋭い音がした。
「はいっ、静かにっ。皆さん、そろそろ目を覚ましなさい」
 パンパンッ! さらにもういちど木製の古びた教壇を叩いたのは
俺たちのクラスを受けもつ夢授業の先生。年は四十才くらい、痩せ
ていて細い瞳の神経質そうな男の先生だ。化学担当でもないのにい
つも白衣を着ているので、通称ドクター。生徒たちはそう呼んでい
る。  
 クラスメイトたちが笑いを止めて、ドクター先生のほうに顔をむ
けた。皆んな、まだ赤い目をしていたり、眠たそうだったり、髪の
毛が乱れていたり、要するに寝起きの顔をしている。女子たちはま
だ先生の目を盗んで、コンパクトの鏡をみてワサワサと前髪や瞼の
あたりを整えるのに余念がない。
 それを無視(黙認かもしれない)して、ドクター先生は一人の生
徒を指差した。
「さぁ、いまみた夢についてレビュー・レポートしてください」
 そして生徒がこたえる。これが夢時間の授業なのだ。

「女の子がいました。たぶん高校生くらいだと思います。可愛い子
で……あの……縛られてました」
 (女子の半分と男子の一部が、ここで恥ずかしそうにうつむく)
 ドクター先生が次の生徒を指名した。
「それから、僕はたぶん医者で、それで女の子が寝かされていたの
は…、たぶん治療台だったと思います。なぜか草原の中で…」
 (教室の中にちょっと笑いがおこる)
 次の生徒が指名された。
「それで…治療のために服を脱いで欲しかったんですが、脱いでく
れなかったから…手を入れました」
 とたんにクラス中に沸き起こるヤジの声。
 (どこにだー?!)
 (治療のためだって? 脱がしたかったんだろっ!?)
 (エッチーっ、セクハラーっ!)
  これは女子から。
 (変態ヘンタイっ!)
  これも女子から。なんか涙目になってる。
 (だって医者だろ)
  これは男子。なんか顔がニヤけてる。そのときの感触を思い出
  してハルオもついどきどきしてしまった。アズンバなんかは手
  をみつめながらまたヨダレを垂らしてる。
 (じゃーなんで縛られてたのよっ!)
  ん、ん、どうやら女子の夢の中では少女役になっていたらしい。

 ……そう、夢授業では眠りについたクラス中の生徒がすべて、同
じ夢をみるのだ。まるでリアルな映画鑑賞会のように。いや、映画
というより遠足といったほうが近いだろうか。そしてそれは、いわ
ば異世界への遠足なのだった。

「ハイハイ、感想は真実をつきつめた後にしてください」
 パンッとまた教壇を叩く先生。
「はい、続けて次、ハルオくん」
 指名されたハルオが、ええっと、と困ったような顔をしながら立
ち上がった。
「あ、あの……真実ですか?」
「そうです。真実です」
 夢授業のレビュー・レポートは読書感想文ではない。そのくらい
のことはハルオにもわかっている。目的は真実を掴んで戻ってくる
こと。

 そう、その意味においては夢授業は遠足でもない。目的をもった
使命、ミッションなのだ。異世界への探索ミッション。クラスメイ
ト全員が同じ世界で重ならない次元を歩んだかのような体験。それ
が夢授業、この采の国(さいのくに)の高校生の必須科目なのだ。

「えと、女の子の胸からなんか、あの、心臓みたいな、それより小
さくて生きてるみたいな、そんなのを取り出しました」
 ハルオが「取り出した」といったとき、何人かの女子が胸のあた
りを押さえた。そしてほとんどの女子が恥ずかしそうに視線を机の
上に落とした。彼女たちは「取り出された」夢をみたらしい。
 ふと、それはどんな感触だったのかな、とハルオは思った。
 が、ハルオがそれを想像しようとする前に、先生が質問を発した。
「取り出した、のですか?」
 ドクター先生が細い黒い目で、ハルオをじっと睨んでいる。
「は、はい、たぶん」
 ハルオが自信の無い声を出した。レビュー・レポートでもっとも
難しい箇所で指名された不運に気づいて、声が小さくなっている。
「それを……それをキミはまだ持っていますか?」
 ドクター先生の声が熱を帯びて、少し興奮で震えている。普段の
無感情な先生とは違った印象だな、と感じながらもその一方で、ハ
ルオは「なんてバカな質問をするのだ?」とも思った。
「無理ですよ、先生。夢世界からものを持って帰ってくるなんて」
 (あ、あの女の子、持って帰りたかったなー)
  隣の席でアズンバが無意識のうちに呟いていた。
  ……呟いたつもりが、けっこう大きな声だったらしい。クラス
  の皆んなの目がアズンバに集中した。
 (バカと違うー?)
 (アズンバ君って、やらしいのねー)
  女子の総顰蹙を買って、アズンバが困ってアタフタして、その
  目が助けを求めるようにハルオの顔をみた。
 やれやれ、というふうに呆れた顔をしてアズンバをちらっと見て
から、ハルオはドクター先生のほうを向いて、夢授業レビュー・レ
ポートを続けようとした。
「無理ですよ。ホラ、いつも夢から覚めたら手ぶらです…あたり前
じゃないですか」
 そしてハルオは、両手を自分の胸の辺りに上げてパッと広げてみ
せた。

 コロン、コロン、コロン……

 何かが……何かが……ハルオの右の手のヒラから落ちた。
 そしてそれは、ハルオの机の上に落ちて……

 トクン、トクン、トクン……

 異次元の、夢世界の、あの銀髪の少女のサイコロが……トクン、
トクンと……、その暖かな生命を脈打たせていた……、ゆっくりと、
ゆったりと……。

 教室が、しーーーーん、となった。セミの鳴き声がミンミンミン
ミンと響いている、ただそれだけ。

(い、いのち、いのちぃぃ、アタシの……)

 ハルオ、そしてクラスの男子は、夢記憶の中から少女の声が脳内
に聞こえてきたような、そんな気がした。

「ふ、振っちゃったな、ハルオ。あ、あの子のサイコロ」
 アズンバが呆然と呟いた。

 今度はハルオがアズンバの顔を、救いを求めて見つめていた。

 ……その視線を白衣がさえぎった。

 そこには、ドクター先生が立っていた。いつの間にか教壇から降
り、ハルオの机の隣に立っていた。
 白衣のドクター先生の細い瞳は、ハルオの机の上、脈打つサイコ
ロを凝視し、そしてその唇は、小さく小さく言葉を発したのだった。
 ……まるでハルオの机の上にポツンと落ちたサイコロに語りかけ
 るかのように。

「ふたたびようこそ采の国(さいのくに)へ、お嬢さん」
 
 ……ハルオは思った。これはまだ夢なのかもしれないと。
 だとしたらこの夢世界の真実は何なのだろうか、と。