慶雲の采
第三話 慶雲の采

 老人は薄暗い聖堂の床に膝まづき、眼を閉じ手を合わせて、静かに祈りを捧げている。
「采の神よ、いつになったら慶雲たなびく世がくるのでしょうか。私はもう、待ちくたび
れました…」
 だが、采の神に仕える身である司采ですら、その問いに答えることはできず、ただ老人
の魂が救われることを願い、コロンと澄んだ音を響かせ采を振るだけだった。
 この二人の儀式は、もう何十年も続いているのだが、その間、幸運をもたらすといわれ
る伝説の紫色の慶雲が、この采の世に現れることはなかった…。

 中央議会選挙の投票日まで、あと十日あまりとなった。大黒党の支部では、異国との商
売を成功させて帰郷したばかりの弁天が、机の上に片肘をつき顎をのせて興味なさそうに、
都から動員されてきた男たちの働きぶりを眺めていた。
「後援会の活動状況は?」
「あさって集会を開いて、票堅めの確認をします!」
「候補者の知名度は?」
「一日に百回は『司馬晴信』の名前が、有権者の耳にはいるように、運動員に連呼させて
います!」
「カネはどうだっ?」
「ちゃんと打つところには打っています!」
「ようし! 当選間違いなしだ」
 景気づけに万歳三唱を始めた男たちを背にして、弁天は立ち上がり部屋を出た。
(こんな男たちに、わたしが生まれ育った慶雲郷が支配されてしまうのだろうか…)
 慶雲郷で一番の才女と言われ、事実その行動力と才能で成功を収めた弁天に、当然のよ
うに都の大黒党は目をつけた。都の政治を牛耳る大黒党と手を組むことは、商売の上でも
好都合だったので誘いにのったのだが、弁天はしだいにそのことを後悔していた。
(死ぬような苦難を乗り越えて帰ってきたのに、わたしの愛する故郷はこの先どうなるの
だろう…。)
 しかし、今さら大黒党との縁を切ることは、弁天にはできなかった。弁天の商売は都と
の取り引きを抜きにしては考えられないし、大黒党の便宜がなければ、都においている部
下たちが苦境に陥ってしまう。
 あぁ、誰かわたしに慶雲を見せてくれないだろうか…。弁天は空を見上げ、大きく溜め
息をついた。

 新党毘沙門の選挙参謀である鉾太郎は、ここ数日、ずっと焦っていた。選挙運動は大黒
党の司馬晴信に押され続けているのに、当の候補者の多聞景虎が、なかなか動こうとしな
いのだ。
『我れを信じよ、我が采は神の采なり』
 多聞景虎はただこう叫びぶのみで、護摩の煙りがたちこめる新党毘沙門の選挙事務所か
らめったに出ようとはしない。そしてたまに気が向けば采を投げるだけで、緊張感はまっ
たくなく、誠に悠々と毎日を過ごしている。
 新党毘沙門のさまざまな実務処理は、ほとんど参謀である鉾太郎がこなしているのだが、
このことは不満ではなく、むしろ彼は喜んで立ち働いていた。勝利を求ているからである。
鉾太郎は、多聞景虎をどうしても勝たせなければならないのだ。だが、現在までの情報を
総合すると、多聞景虎が落選の危機に陥っていることは間違いない。
「くそっ!」
 漂ってくる護摩の煙りに顔をしかめながら、鉾太郎は歯を食いしばり、拳を握りしめた。
慶雲郷の最高権力者に謀反をおこしてまで、新党毘沙門を旗揚げした鉾太郎である。もは
や撤退はできないし、悔いることも許されてはいない。
 あの、屈辱の日々には、絶対に戻りたくない…!
 鉾太郎は頭を振り、彼を指さして高笑いをするあの男の影を振り払った。

 美しい庭に囲まれた広大な屋敷の中で、優雅に座っている貴族の男は、平伏する大黒党
の幹部を見やり、微笑を浮かべながら従者に酒を注がせていた。
「司馬晴信が優勢とは、誠に結構なことよのう。これで我が一族も安泰じゃ。ほほ…」
「ははっ、これもあなた様の御威光のお陰でございますっ」 
 満足そうに貴族の男は頷くと、さらに杯に満たされた酒を飲み干した。この大黒党の幹
部たちは、何を命令しても、黙々と従う。都の大黒党は、それほどまでに、慶雲郷を支配
してきた我が一族の力に頼りたいらしい。従者の分際で主人に反抗して、屋敷を逃げだし
ていったあの男とは大違いだ、と不意に貴族の男は、一年前まで奴隷のようにこき使って
いた青年を思い出した。あの青年はいつも犬が飼い主に媚びるような眼をしていたが、そ
のような眼を見るとつい、無理を言いつけて苛めたくなるのだった。
「くくっ、あれは楽しかったのう」
 青年をいたぶっていた頃のことを想像の中で蘇らせ、ひれ伏す大黒党の幹部たちを無視
して、貴族の男は加虐的な快感に浸っていた。だが、青年が逃亡した一年前の日から、彼 
のその楽しみは半永久的に失われたのだ。それを思うと、貴族の男に突然、怒りが込みあ
げてきた。
「新党毘沙門の動きはどのようになっておるのじゃ!」
 鉾太郎め、犬の分際で裏切るとは! 貴族の男は、自分から最高の楽しみを奪い去った
青年を許せなかった。それだけならまだしも、得体の知れない神懸かりの男を担ぎ上げ新
党を結成し、慶雲郷の支配者である一族に挑みかかるとは、采の神をも恐れぬ暴挙である。
「どうじゃと問うておるのじゃ!」
「はっ、多聞景虎は新党の選挙事務所に閉じ籠ったきり、めったに活動はしておりません」
「ふむ?」
 妙なことだ、とさすがに酔っている貴族の男も感じた。あの犬はなにを企んでいるのだ
ろうか?
 貴族の男は、おぼつかない様子で従者に支えられて立ち上がると、傍らの箱から采を取
り出した。それは骨でできている、一族に先祖から伝来する采であった。
「雅流采道秘伝、『まじないの采』! あ、そうれ」
 貴族の男から放たれた采は、空中をゆっくりと漂うと、一つは『六』の目を出して、ポ
トリと畳の上に落ちた。もう一つはそれを追うように落下すると、ちょうど先に止まった
采の上にカチンとぶつかり、それを押し退けて『一』を出した。押し退けられた采はクル
リと回転し、その目は大吉の『六』から大凶の『一』へと変化した。…ピンゾロである。
「こ、これは…、強き運気をもつ敵を追いたてて、一気に滅してしまわなければ、一族の
破滅となるであろうことを予言する『キツツキの卦』じゃ…」
 采を投げた貴族の男は、震える声で結果を告げると、わなわなと畳に崩れた。
「せ…、攻めよっ! 手をこまねいていてはならぬ。一族にとって災いとなるまえに、新
党毘沙門を、う、討ち取るのじゃ…」
 気を動転させ、錯乱してわめく貴族の男を驚きの表情で見ていた大黒党の幹部だが、そ
の暗い瞳が一瞬ギラリと光った。
「そのことならば我が大黒党にお任せを。我らの得意でございます」
「そ、そうか。よきにはからうがよいぞ」
 安堵し喜んで、狂ったように手を打ち叩く貴族の男の前から退出すると、蔑すむように
口元を歪めて、大黒党の幹部は呟いた。
「ふん、都で権力を握りつづけてきた大黒党のやり方を、とくと知るがいい。その次に討
たれるのは貴様なのだと、とうに予定に入っているのだから…」
 馬鹿な男だ、腐れ落ちようとしていた貴族による支配体制を守るために、よりによって
大黒党と手を組むとはな、と考えながら、大黒党の幹部は屋敷の門から出ていった。そし
てそのときには、この敷地はいくらになるだろう、と値踏みするのを忘れはしなかった。
 投票日を三日後に控えた大黒党支部は、動揺と興奮につつまれていた。今朝の戦略会議
で、恐るべき作戦が大黒党の幹部から打ち出されたのだ。
(新党毘沙門の選挙事務所を乗っとる、だって?)
 まったく悪どいことを思いつくものだ、とさすがの弁天も感心するとともに、なにやら
寒気を覚えていた。
(わたしも、油断をしたらいつやられるか分からない、というわけね…)
 大黒党を甘く見すぎていたようだ、と思いつつ、弁天は爪をぎゅっと噛んだ。
 それにしても、新党毘沙門も迂闊だ。選挙事務所の敷地の所有者をよく確かめていなかっ
たなんて…。
「新党毘沙門の選挙事務所は貴族に借りていた館で、その貴族が突然、大黒党に館と敷地
を売り払ったなんて、ウソみたいな話ですよね」
 横合いから、呑気そうな顔をした若者が声をかけてきたので、弁天は我に返った。この
若者、確か名は…。
「犬八ですよっ! ほら、個人的な事情でつい最近、新党毘沙門から大黒党の運動員にの
りかえた…」
 そうだ、思い出した。このごろよくわたしに声をかけてくる男だ、と弁天は記憶をたどっ
た。なんでも勤めていた呉服問屋を首になったために、大黒党にころがりこんできたのだ、
と言っていたけど…。いつもは忙しそうに働いているが、作戦準備のために通常の選挙活
動が一時中断となったので、おそらく今日はヒマなのだろう。
「明日、選挙事務所に乗り込んで、新党毘沙門にいきなり館の明け渡しを要求するなんて、
わくわくしませんか?」
 まったく脳天気な男だ、と弁天はうんざりした。しかしそれにも増して、こんな手にし
てやられるなんて新党毘沙門も馬鹿だ、とはつくづくと思う。
「作戦名は『キツツキ』というそうですよ。多聞景虎をつついて追いだし、その失態で選
挙戦から脱落させる、という意味らしいけど」
 わたしはその役目からは外してもらおう、と弁天は決めていた。他人を困らせて喜ぶ趣
味は、あいにくもちあわせていない。それよりも、明日の朝から聖堂前の広場で予定され
ている、慶雲郷の選挙大演説会に出席することにしよう。始めての選挙で人々は好奇心を
かきたてられているので、そこには慶雲郷のほとんどの人が集まるだろうから。
「ねっ、弁天さんも一緒に『キツツキ』しに行きましょうよ」
 犬八が薄笑いを浮かべながら、じっとこちらの返事を待っている。
 悪いやつじゃなさそうだけど、この男もバカだね、と弁天は小さく溜め息をついた。

 鉾太郎は己の耳を疑った。今まで自分からは絶対に話しかけてくることなどなかった男
が、鉾太郎を呼んだような気がしたからだ。
 だが、多聞景虎ははっきりと鉾太郎の名をを呼んでおり、そして命じたのだ。
『出陣の…準備をいたせ』
 ついに、ついに多聞景虎が動く決心をしたのだ!
 しかし、と鉾太郎は思った。遅すぎる、遅すぎたのだ。投票日まであと、たった三日し
かないではないか。大黒党は勝利を確信して余裕がでたのか、今日は運動員の活動を休ん
でいるらしく、久しぶりに外が静かだ。
 鉾太郎はすでにあきらめかかっていた。しょせん俺は犬ころだ、慶雲郷を支配する貴族
には、いくら相手がクソ野郎でも歯向かったりすべきではなかったのだ、と。
「もう無理です、今さら何をしたって。身の程をわきまえなかった俺が愚かだったんです
よ…、痛っ!」
 突然、鉾太郎は鋭い痛みを感じて顔をおさえた。その足元で、采がカラカラという音を
たてて転んでいった。
 鉾太郎の顔面めがけて采を投げつけた多聞景虎は、その頬に涙を流していた。
『采は…、投げてこそ希望が生まれるのだ』
 そしてくるりと背をむけると、多聞景虎は戦神の像のある広間へと歩き去っていった。
『我を信じよ。我は…、采の神なり』
 あの多聞景虎が、泣いていた。そのことに驚くよりも体中が震えるような衝撃を、鉾太
郎は受けていた。
 俺のために涙を流すのか? 鉾太郎は胸がつまり、息苦しくなった。貴族への恨みを晴
らすために、俺は多聞景虎を利用しようとしていただけだというのに…。鉾太郎の心は激
しく乱れた。やにわに胸をかきむしると、呻きながらのたうち回った…。
 そして数分後、再び立ち上がった鉾太郎は、息づかい荒くあえぎながらも、多聞景虎の
待つ広間をめざして、ゆっくりと一歩を踏みだしたのだ。
 采の神を信じていいのか、それともそれは、はかない望みを抱くだけのことなのだろう
か。鉾太郎にはわからなかった。だが、あの男なら、無慈悲な貴族への恐怖に取りつかれ
病んだ俺の心を、救ってくれそうな気がする…。
「采を、投げてみるか…」
 鉾太郎は己を励ますように、腹の底で呟いた。

 選挙の投票日がついに明後日となったその朝早く、新党毘沙門の選挙事務所の前に、大
勢の男たちが集結していた。大黒党の幹部と運動員たちだ。彼らの顔には、これから始ま
る悲喜劇を想像して、一様ににやけた笑いがこびりついている。
 その中に、期待に胸を膨らませている犬八の姿もあった。新党毘沙門の連中は、館から
の立ち退きを要求されたときに、どのような驚いた顔を見せてくれるのだろうか、と考え
ると犬八の胸はドキドキと踊った。
 なぜ、弁天さんはこなかったのだろう、と犬八は思う。なぜ、楽しいできごとをすなお
に楽しまないのか、と考えると、弁天が誘いを断ったときに見せた冷めた瞳のわけが、犬
八には理解できなかった。
 カリン、と犬八の手の中で采が軋んだ。むろん犬八にとっても、このような権力者同士
の茶番劇など、友と采の腕を競う喜びに比べればどうでもよいことである。しかしたまに
はこのような活劇がないと、人生は退屈でしかたがないではないか。たとえそれが、他人
の不幸を題材としたものであったとしても…。 そのときである。新党毘沙門の選挙事務
所の中に押し入った大黒党の幹部たちから、慌てふためくような叫びがおこった。
『い、いない、誰もいないぞ…。もぬけの空だ! げほっ…』
 館の広間に満ちた護摩の煙りを吸って咳こみながら、大黒党の幹部たちは必死に人が隠
れていないかと探すのだが、しだいにその声は悲愴さを増していった。
『や、やられた…。げほっ。多聞景虎め、いったいどこへいったのだ…?』
 そのようにおろおろしている大黒党の幹部を眺めながら、犬八は心から愉快な気分に浸っ
ていた。
 そうさ、悲喜劇の主人公は別にあんたたちでも構わないのさ、せいぜい楽しませてくれ
よ、と思いながら…。

 大黒党の幹部たちが、新党毘沙門の選挙事務所の中で、驚愕の叫びをあげた数時間前、
まだ夜も明けきらぬ暗い闇のなかを、粛々と進む人々があった。
 不思議な気分である。今まであれほど恐れていた貴族たちに、これから殴りこみをかけ
ようとしているなんて…。鉾太郎はさきほどから武者震いが止まらなかった。
「どうして大黒党が動くと分かったのですか? 大黒党は勝ちほこって選挙活動を縮小し
た、と俺には思えたのですが」
 鉾太郎の問いに、前を進む多聞景虎はぼっそりと口を開いた。
『…静は動の予兆なり。また、それは我らにおいても然り』
 鉾太郎はその意味が理解できず、ひょいと肩をすくめた。やはり、この多聞景虎には采
の神がついているようだ。初めて会ったとたんに、俺に貴族から逃れる決心をつけさせた
だけのことはある、と鉾太郎は崇めるように多聞景虎の背中を見つめた。
「あとは、俺たちに慶雲がたなびくのを祈るだけですね」
『…采は我れにあり、だ』
 −−新党毘沙門が、夜、河を渡る。

 朝もやがかかる、慶雲郷のほぼ中心に位置する大聖堂の前の広場は、すでに群衆で埋まっ
ていた。その熱気のため発生した水蒸気が、さらに弁天の視界をかすませる。慶雲郷の選
挙大演説会が、すでに始まっているのだ。
「慶雲郷は、我が司馬流の采があるかぎり安泰ぞ! そらっ、『六』の舞いじゃ!」
 大黒党の候補者である司馬晴信は絶好調で、もやのなかに采をきらきらと輝かせ、集まっ
た人々を興奮のるつぼに叩き込んでいた。その横、壇上では貴族の男が満足そうに、群衆
を見下ろしている。
 弁天はふと、犬八たちはいまごろ新党毘沙門とやりあっているのだろうな、と思った。
目のまえで行われている大演説会などなくとも、人々の知らぬところで選挙の勝負はすで
についているのだ、と考えると、弁天は熱狂している群衆が哀れになった。
 空しい気分になった弁天が立ち去ろうとした、そのとき、広場の後ろのほうから、われ
んばかりのどよめきがおこり、つぶてのように采が飛んできた。その采は地面に落ちると、
全てが『六』の目を出した!
 もやの中から、さながら神が降臨するように、采を握った拳を天に突き上げ、彼らは現
れたのだ!
『新党毘沙門多聞景虎、采の世のため、ただいま見参!』
 付き従う鉾太郎も驚くような大声で、多聞景虎は、采の世の人々に名乗りをあげた。そ
の近くにいた群衆が、たちまち平伏した。
『いくぞ、鉾太郎! 車懸かりで休みなく采を投げ、そして采の神に祈るのだ!』
 壇上の貴族の男は仰天して、椅子からもんどりうって転げ落ちた。それを尻目に大黒党
の司馬晴信は、不敵な笑みを浮かべた。
「面白い! 大黒党よ、新党毘沙門を囲んで包みこむのじゃ。天よ、司馬流『鶴翼の采』
を御照覧あれ!」
 おおっ、と大黒党も気勢をあげる。司馬晴信も只者ではなかったようだ、と思いながら、
弁天は慶雲郷の伝説となる演説会を見守った。
 −−采の乱舞は群衆をも巻き込んで、三日三晩つづいた。その間に選挙の投票日は、誰
も投票せぬまま過ぎてしまった……。

 …老人は今日も、薄暗い聖堂で祈りを捧げる。が、司采はその日、美しい娘が采の神へ
の祈りに加わっていることに、ふと気づいた。
「わたしの愛する故郷に、慶雲がたなびくのは、いったい、いつなのですか…」
            (第三話 完)