慶雲の采
第二話 夢の写真

 海を渡ってやってきた南蛮人だか紅毛人だかがこの慶雲郷に写真機をもたらしたのは、
犬八がようやく寺小屋にあがったころのことだった。写真機はとあるカラクリ職人によっ
て仕組みが解明され、犬八が青年となって慶雲郷の学問館にはいったときには、すでに量
産できるようになっていた。慶雲郷の人々はたいへん珍らしがり、もち歩く者は皆からち
やほやされたものだった。
 学問館での犬八は、それほど真剣に勉強はせず、むしろ采の腕を学友たちと競うのに熱
心であり、楽しい青春のときをすごしていたのだが、そんな犬八の上にも年月は流れていっ
た。
 ある秋の日、いつものように学問館の広間で仲間たちと机を囲み、右手に采を握り締め
ていた犬八は、ふと宮之助が写真機を首からかけていることに気づいた。皆がうらやまし
がると、宮之助は目を細くして照れた。
「もうすぐ俺たち卒業だから、記念に写真をとっておこうと思ってな」
 宮之助の言葉に、犬八ははっとなった。来年の春で卒業となることなど、すっかり忘れ
ていたのだった。
 むしろ忘れたままでいたかった、と宮之助の言葉を聞いたことを犬八は後悔した。それ
は犬八にとって、青春の終りをつげる鐘のようなものだった。実際、犬八は頭の中で除夜
の鐘がなるような錯覚すら覚えた。
 しかし、時の流れは現実だった。窓から吹き込んだ秋風が、犬八の心の内までを冷たく
通り過ぎていった。
 しばし呆然としたのちに、犬八は采を机の上におき、友人たちと肩を組んで並んだ。写
真機は通りがかった男に操作してもらうことにした。
 身なりはよいが神経質そうなその男は、写真機に触るのは初めてなのか、むやみに緊張
していた。撮る瞬間には、『南無三!』と奇声を発した。
 犬八たちは爆笑した。男の珍奇なふるまいに、犬八のゆううつは消え去っていた。
 他にだれもいなかったので、宮之助は男にさらに二三枚撮ってくれるように頼んだ。男
は無言で引き受けた。
『南無阿弥陀仏…』男は今度は念仏を唱えながら写真を撮った。
 犬八たちは絶句した。犬八は采をふる姿勢をとっていたのだが、その手からコロン、と
采が落ちた。赤い一の目が机に止まった。
『神よ、我に力を与えた給え!』男は次は天に祈りながら写真機を操った。
 犬八たちは畏れを感じた。宮之助は撮られる瞬間に自分が笑顔であったかどうか自信が
なかった。何か、声をかけてはいけないものを呼び止めてしまったのではないかと、恐ろ
しくなってきた。
『むん、むん、むうん…!』さらに男は写真機に念をこめだした。カチリ、と写真機の音
がするやいなや、犬八たちは丁重に男に礼を述べ、お引き取り願った。
『……多聞…景虎だ』男は聞きもしないのに名を名乗って、去っていった。
 宮之助は無意識のうちに、お守りを握り締めていた。お守りのご加護を心から願った。
 犬八は頭の中で、再び除夜の鐘が鳴りだしたように感じたが、それはむしろ、前よりも
激しく脳髄に響き渡った。
「ま、まぁこれで俺たちの思い出の写真が残せたってわけだよな」
 宮之助は気をとり直して、皆に同意を求めた。犬八たちもどうにか笑顔をつくりながら、
口々にそうだ、そうだと言い、うなずきあった。たとえ忘れたくとも、記憶の底にこびり
ついて忘れられないような思い出ができてしまった。
「現像したらもってくるからな」
「あぁ、頼んだぜ」
 皆に約束をしながら、宮之助は決心していた。この写真機は神社でお払いをしてもらお
うと。

 季節が冬に移り変わったころに、写真はできあがった。しかし結局、その写真が皆に公
開されることはなかった。
 犬八が反対したのだ。
 あの日を写真で見ることが、急に怖くなったのだ。いや、例の男のことではない。あの
日がもう過去のことだということを、写真を見ることによって再認識してしまうような気
がしたのだ。学問館での青春が残り少なくなった犬八とって、それは寂しく、辛いことに
感じられた。
 しかし、それを理由とするのはいささか意気地がなく思われそうだったので、皆にはあ
の男のことを思い出してもらった。忘れている奴などいるわけがない。
「あの男は念をこめていやがった。写真を見ると悪霊がとびだしてくるかもしれん」
 慶雲郷の迷信ぶかい土地で育った友人たちは、あっさりとこれを認めた。
「じゃあ、この写真はどうしようか」
 宮之助は困った。そのまま捨てると、写真機の所有者である自分がまっさきに祟られる
だろうと思った。
「封印しよう。そしてこの学問館の前庭に埋めよう」
「そうだな。それがいい」
 犬八の提案を聞き、宮之助はとりあえず安堵した。
 そして、四枚の写真は濡れないように油紙につつまれ、雪を掘り起こした地面深くに埋
められたのだった。
 埋めた跡を踏んで堅めながら、これもよい思い出になるのだろうな、と犬八は思った。
 そうして、春となった。
 犬八たちは、名残惜しみながら学問館に別れを告げた。
 ただ、宮之助だけは、たちの悪い風邪で倒れ、卒業試験を受けることができなかったた
め、留年し一年遅れで卒業することとなった。皆はそれを、あの男の祟りだと噂した。

 犬八は呉服問屋に就職した。勉強はろくにせず采を振ってばかりであった犬八だったが、
学問館は慶雲郷では権威がある教育機関なので、そのおかげで丁稚奉公は免除され、店で
は帳簿をつける仕事を与えられた。
 仕事はそれほどきついものではなかったが、さして面白いものでもなかった。采を握る
のは店が休みの日だけであった。ときどき帳場に座っているときにふと、毎日のように仲
間たちと采を振り合っていた頃のことを思い起こすことがあったが、しかしその後には決
まって切なくなるのだった。
 夢のようなときだった、と思う。
 別れた恋人のことを想うようなものだな、とも犬八は考えた。しかし、犬八には切なく
なるほどの熱烈な恋愛経験はなかったので、そこはあくまで想像の中での話だった。
 まぁいい、女の子との恋愛はいつでもできる、できるだろうと思う。でも、決してあの
ころへは戻れない…。
 いつもそこまでで、犬八は考えるのをやめることにしている。過去を想えば切なく、女
の子のことを思うと空しい、という結論に達するからだ。そして現実にたちかえって仕事
を再開するのだ。
 いつもならそうだった。
 しかし、その日は運が悪かった。番頭にぼんやりとしていたところを見られてしまった
のだ。
「犬八っ、こっちゃこい!」
 蛸のような面をした番頭が、赤い顔をして犬八を差し招いている。
 店の年若い丁稚たちは、犬八が店に就職して帳場にきたとき、蛸八に犬八がついた、と
陰口をたたいたものだ。そんな関係のないことを考えながら、犬八は番頭のまえで頭を垂
れた。
「なにをぼんやりしてやがんでぃ」
 この番頭は商人とはおもえないような、むしろ職人の親方のような喋り方をする。犬八
は、今日の自分のツキのなさを呪った。もしかしたらあの写真機の男の祟りかもしれん、
とも思った。
「まぁ、今日のところはそんなこたぁ、どうでもいいやな」
 ところが意外にも、番頭の風向きはすぐに変わり、犬八は救われた。
「ちと、店にとって大切な話がある。実は次の選挙でな…」
 そして犬八は、思いがけないことを聞かされることになったのだ…。

 その館の門には、立派な木の看板が掲げられていた。
「新党…毘沙門?」
 犬八は声に出して、看板に墨で大書されている字を読んでみた。奇妙な気分だ。昨日ま
で政党の選挙事務所に派遣されることになろうなどとは、思ってもいなかった。確かに、
都の中央議会におくる議員の選挙があることは知っている。それにしても、聞いたことの
ない政党名だ。本当にウチの店は、次の選挙でこんな政党に肩入れをするというのだろう
か?
 そのとき、館の中からどっとざわめきが響き渡ってきた。犬八は好奇心をかきたてられ、
とりあえず玄関をくぐることにした。
 中は広い板敷きの広間になっていて、正面には巨大な戦神の像がおかれており、戟を執っ
てこちらを睨みつけていた。その両側では護摩がたかれていて、もうもうとした煙りで視
界が曇り、広間に大勢の人々が座っているのは分かるのだが、像のまえで叫んでいる男の
姿がよく見えない。おそらくその男が次の選挙での新党毘沙門の候補者であろう。
 その男の叫びに聞き入っている男女は、あの御方こそ誠の采の神よ、と口々にわめき合
い、まったくの恍惚状態に陥っている。犬八はどうしてよいものやら分からず突立ってい
たのだが、まえの男が一声気合いを入れると同時に、何かが頭上から降ってきた。
 それは、采であった。男が無数の采を広間にばら撒いたのだ。まったく無茶をする、と
采がぶつかって痛む頭をおさえながら、犬八は悪態をついた。が、そのときまた人々から
喚声が沸き起こった。
『六じゃ、六じゃ!』
 犬八はこの人々はまるでアヘンの中毒者ではないか、と気味が悪くなったが、しかしふ
と板張りの床に目を落としたとき、絶句した。床に転がっている采が、全て『六』の目を
上にしているのだ。采の目の黒い点がちらばった床は、まるで胡麻をばらまいたような模
様となった。
『我れは、神なり! 我が采は神の宿りし采なり!』
 人々を神業のような采の腕で陶酔の境に至らせている男は、奇声を発して数珠をもつ拳
を天に突き上げた。
 その声を聞いて、犬八は本能的にあとずさりをしていた。何か思い出してはならぬもの
が、記憶の底から蘇ってきそうな恐怖にかられた。そして、その恐れは現実のものであっ
た。
『我は、多聞…景虎なりぃ!』
 なぜだ、なぜあの写真機の男がこんなところにいるのだ。なぜこの男が候補者になぞな
れたのだろうか。犬八は悪夢の中に入りこんだような心地がした…。

 なんとも妙な気分がするものだ、と犬八は思っていた。自分があの『写真機の男』を応
援して選挙運動をしていることについてである。多聞景虎の超越的な采の腕はしぶしぶ認
めはしたものの、采が心と人格を映す鏡である、という慶雲郷の常識に、犬八は疑問をも
たずにはいられなかった。しかし、新党毘沙門の選挙事務所での犬八は、目が回るほど忙
しく、そのことを深く考えるヒマなどもてなかったし、以前のように、ぼんやりと過去を
振り返ることもまったくなかった。
 そんなある日、犬八が疲れて家に帰ると、宮之助から手紙がきていた。そこには、宮之
助が商売で『お弁丸』という商船に乗り組んで南方の国にいること、その船の持ち主は弁
天という名で、犬八たちより一年前の代に学問館を首席で卒業した美しき才女であること、
が書かれており、最後にこう付け加えられていた。
『遠い異国で寂しくなったときに、故郷を思い出せるよう、こっそりと例の写真を掘り出
しもってきてしまいました。お許し下さい。 采の友より』
 あの日の写真の封印を相談もなしに暴いて持ち去っていた宮之助に、犬八は少し腹が立っ
たが、懐かしい学問館の仲間から久しぶりに手紙を貰ったことの嬉しさのほうが大きかっ
た。犬八は、あの写真に『写真機の男』の念と悪霊がついていないことを祈り、宮之助が
帰ってきたら写真を見せてもらおうと思いながら、その晩は気持ち良く眠ることができた。

 一ケ月が過ぎた。蝉の鳴き声が朝早くから四方より耳に押し寄せてくる、夏の暑い日で
あった。犬八はいつものように、事務所で支持者の名簿の整理などをしていたのだが、蝉
の声よりもなお大きく、群衆が駆けて行くざわめきや足音が通りのほうから聞こえてくる
ことに気づいた。
『お弁丸が港に入ったぞ!』という声を耳にしたとき、犬八ははっとして、宮之助からの
手紙を思い出した。宮之助たちと采を競った日々のことを回想すると、犬八はなにやら胸
が熱くなってきた。宮之助がもつ写真を見せてもらわねばな、と考えるといてもたっても
いられなくなり、予定されている選挙の演説会まで時間が少しあることを確認すると、引
き寄せられるように港へと向かったのだった。

 大型商用帆船であるお弁丸が、港にその勇姿を現していた。だがはしけ舟が付いたとき、
中に乗る人々の姿をみて、お弁丸を迎えに集まった群衆は息をひそめた。そこから降りた
船員や船客たちは、まるで亡者のようにやせこけており、ふらふらと足取りもおぼつかな
い状態で、一人などは舟のへりにつまずいてもんどりうって海に落ちてしまった様は、ま
ことに無残であった。暑い日である。上陸した者もまたたく間に熱気にやられて、倒れこ
んでしまった。それを見た群衆は、口々に伝染病ではないかと言いかわし、船員を助ける
ため手をさしのべようとは誰一人としてしなかった。いや、ただ一人だけ、迎えにきた召
使いに助けられ、人力車に乗せられている女性がいた。おそらく船主の弁天であろう。
 犬八はおそるおそる、宮之助の姿を探し、ついに気を失いかけている友を発見した。我
を忘れて駆け寄った犬八を認めると、宮之助の瞳に光が一瞬だけ蘇った。
「あの写真の、祟りかな…」
 宮之助が力尽きて崩おれたとき、胸元からひらりと一枚の写真が、宙に舞った。その写
真のなかには、犬八と宮之助と仲間がいて、そしてあの日があった。
 大切なあの日の光景の写真を目にして、犬八はしばし回想に浸ったが、やがて決意に燃
えて、力強く拳を固めた。その手の中で、いつの間に握ったのやら、采がカチリと澄んだ
音をたてた。犬八は人力車を走らせようとしていた弁天の召使いに、猛然と襲いかかった。
「六ゾロの十二…!」
 その采の目を見たとたんに、召使いは平伏し、群衆は驚愕の声をあげて道を開けた。犬
八は宮之助を人力車に放りこむと、それを引いて、歯を食いしばって疾駆した。
 犬八は、走るうちに、涙が溢れて止まらなくなった。宮之助が死んだら、あの日がまっ
たく消えて失われてしまうだろう、という恐怖がじわじわと沸きおこり、胸を痛めつけた。
聖人しかだすことができない筈の、最高の采の目を出したことなど、犬八はまったく意識
していなかった。
 疾風のように、港を後にし、街を抜け、呉服問屋の店の中を突っ切った。立ち塞がった
番頭は、奇跡の采で薙ぎ倒した。
「犬八が六ゾロたぁ、どうしちまったんだ…」
 蛸のような顔をした男が目を回して失神するのを尻目に、犬八は喉の奥であえぎながら、
なおも突進をやめなかった。
 頼む、あの日よ消えていかないでくれ! 犬八は心の中で絶叫していた。
 数千人が集まっている新党毘沙門の選挙演説会場に突っ込んでしまったが、それさえ彼
の行く手を遮りはしなかった。
『…多聞…景虎だ…』壇上の男との采の勝負は相打ちになった。だがその男は、なぜか羨
望の目をして、脇によけてあっさり犬八を通してくれた。
『神よ…我にも友を…』犬八はその声を耳にしたとき、写真機の男もあの日、采の仲間に
入りたかったのか、と直感した。そうだろう、それほどあの日は美しかったのだから。
 その刹那、征く先は決まった!
 犬八は医者の診療所の前まで辿りついていたのだが、急に反転をした。薬屋も病院も無
視して、息をきらせながら憑かれたように人力車を引いて走った…。

 学問館に辿りつくと、犬八は懐かしさがこみあげてきて、これまで沸騰していた力が萎
え、地面にへたりこんでしまった。そして眼を閉じている宮之助の顔を見ると、現実に直
面し、腹の底から泣き叫んでいた。
 そのとき、カチリと音がした。
「……悪霊は、落ちたみたいだよ…」
 宮之助が震える手で写真機を構えるのを見て、犬八は呆然とした。だが、まだ少し青白
い顔をしながらも、確かに宮之助は笑っていた。
「ここの風を感じたら、死んでいたって蘇るさ」
 犬八は、泣いて腫らした瞼を上げると、宮之助の手をとり、強く采を握らせた。
「振るかい?」
「…振るさ!」
 学問館の空に、久しぶりに采を競う叫びが響いた。それは犬八にとって、夢にまでみた
至高のときだった。
(…その傍らで、人力車の中に忘れ去られ、まだ失神していた弁天は、采を振るカラカラ
という響きが頭の中に轟き、悪夢にうなされていた…)
 そう、人にはわかるまい…。

 夕焼けのころ、再会を誓って宮之助と別れた犬八は、その晩、微笑んで眠った

 いよいよ選挙戦も終盤にさしかかって、犬八はますます多忙の日々を送っていた。とも
すれば、ただ過ぎてゆく時の流れの中で、いつしか自分が何をしているのかさえ分からな
くなるときもあったが、犬八はそんなとき、机の上に目をやり、本当の自分が何者である
のかを確かめて、安心するのであった。
 犬八の机には、一枚の写真が飾られている。その中では、采が置かれた机を前にして、
仲間たちが肩を組んで、輝いていた。
 この写真に念を込めていたのは、あの写真機の男ではなく、実は俺たちだったのではな
かろうかと、時々犬八はその写真を眺めては苦笑する。そのときの犬八は、まるで夢を見
ているような目をしているのだった。
            (第二話 完)