慶雲の采
第一話 異郷の浮き雲

 青雲の志を抱く若者、と自負する浮雲にとって、文明がまだ及んでいないといわれる慶
雲郷に配属となったことは、まったくの不本意であった。
 こんなことなら、いくら都の景気が悪いからといって、大黒党の事務局になんか就職す
るのではなかった。中央議会で過半数の議席を占め、現在の政権を担う政党である大黒党
で働く、ということに憧れたことは事実だが、現実は浮雲にとって厳しいもので、いくら
選挙が近いとはいえ、まさか辺境の支部に飛ばされるとは予想外であった。さらに悪いこ
とに、もし大黒党の候補が落選したら責任をとって辞めなければならない、という条件付
きだ。四面に響き渡る山鳩の合唱を耳にしながら、浮雲は切実に後悔をしていた。
 今日は朝から山道を歩き通して、もう日が暮れようとしている。昨夜泊まった宿の主人
が教えてくれた道は正しかったのであろうかと、浮雲は半ば不安になっていた。自分をこ
んな境遇に追いやった大黒党を恨めしく思ったが、その大黒党がなければ他の就職口は残
されておらず素浪人となっていたであろうことも、浮雲は十分に承知していた。
 そんなことを考えているうちに、いつしか西の空が赤く夕焼けで染まっていた。それを
目にすると、自分がどうしてこんな目にあわねばならぬのかと、浮雲はとても情けなくなっ
てきて、いっそのこと大声で泣いてやろうかと思った。それでなくても自然に涙が溢れ出
そうとしている。
 そのとき、滲んだ視界の先で、茂みが揺れたような気がした…。

 突然森の奥から現れた男は、熊の毛皮に身を包み、まるで山賊のような姿をしていた。
驚いた浮雲は、あやうく腰に差している刀を抜くところであったが、相手が慶雲郷の関所
の番人であると分かると安堵し、涙を拭いながら手形を見せた。番人は手形を確認すると
二三度うんうんと頷いて、浮雲を森の中にある関所に導いた。
 関所は木造の粗末な小屋であり、番人は彼一人のようであった。確かに慶雲郷への入郷
者などはほとんどいないであろうから、これで十分なのかも知れないが、そう考えると浮
雲は、己はこんな辺境へ飛ばされたのか、という無念をますます感じたのだった。
「名はウキグモさん…だね。慶雲郷への入郷の目的は?」
「は、はい。大黒党で事務の仕事をすることになってます。ほら、もうすぐ選挙があるの
で…」
「ああそう。じゃ、これ振ってみて」
 ぶっきらぼうな口調をした番人は、手形を浮雲に返すとともに、小さく白いものを彼の
掌に押しこんだ。浮雲が手を開いて見ると、それは二つのサイコロであった。
「都の人は知らんだろうが、慶雲郷ではこれを采と呼ぶ。さぁ、早く振って」
 無愛想な番人は、木切れを組み合わせただけの粗末な机を指さすと、浮雲を促した。浮
雲は戸惑いながらも采を振ると、それは砂埃のたまった机の上で、二つとも赤い『一』の
目を出して止まった。
「ピン、ピンのピンゾロか…。いくら慶雲郷の外の世界から来たばかりといっても、これ
はひどいな…」
 今まで無表情だった番人が、采の目を見ると心の底から同情するような表情を浮かべた
ので、浮雲は何か不都合なことになったのではないかと心配になった。もしかすると入郷
を拒否されるのではないかと思ったが、その瞬間、そうなってくれれば有り難いのだが、
という期待が心に浮かんだ。
 しかしそう簡単に、浮雲に幸運が訪れはしなかった。何かを言おうとする浮雲を片手を
上げて制止すると、番人は采を拾い上げそれを振った。采は互いにぶつかり合い、カチカ
チと心地良い音をたてた。三と四の目で、合わせて七であった。番人は、まぁまぁだな、
という風にうなずくと、浮雲に語った。
「采は、振った者の心や人生を映す鏡だ。俺はこんなところで番人をやっているとはいえ、
この年になるまでそれなりに真面目に生きてきたつもりだ。だからこの通り、采の目も人
並みには出せるのさ」
 番人は椅子に腰をかけると、しみじみとした表情で机の上に止まった采を見つめた。
「それが、俺の誇りだ」
 浮雲は事態が理解できず、傍らで呆然としていた。番人は哀れむような目を浮雲に向け
て、その手に采を握らせた。
「その采は慶雲郷からの支給品だ。もってけ。気に入らなければ買い替えればいい」
 そして番人は、行ってよいと浮雲にむけて手をふった。そのとき番人が何か呟いたよう
な気がしたので、浮雲は小屋の出口で振り返ったが、彼を追い出した番人は、懐から自分
の采を取り出しじっと眺めていた。追憶に浸っているのか、采を見つめる番人の顔をみる
と、浮雲は声をかけることをためらい、諦めて小屋を退出した。その背後で、コロコロと
いう音が、小さく響いた。

 関所のあった森を抜けると、視界が開けた。そこは小高い丘のうえであり、見下ろすと
慶雲郷ののどかな風景を一望することができた。「采か…」
 浮雲は掌をひらいて、二つのサイコロを眺めた。異文化だと思った。宗教だろうか、そ
れともまじないだろうか。今まで育ってきた文明圏では考えられない風習である。しかし
それでも、采の目で『一』を出したことくらいで、関所の番人ごときがなぜ自分を哀れん
だのかが浮雲には理解できず、そのため漠然とした憤りが彼の心に広がっていた。
 浮雲は、眼前にひろがる慶雲郷に足を踏み入れることに、ためらいを感じた。だが、い
まさら都に戻ることはできない。背後を振り返ったが、そこには暗い森が立ち塞がるのみ
であった。
 どれだけの道のりを歩いてきたのであろうか、もはや故郷は遥か遠くになってしまい、
浮雲を待つのはただ異郷の地である。
 慶雲郷に配属となったことは、浮雲にとってまったくの不本意であったが、いまやそれ
を痛感せずにはいられなかった…。

 大黒党の支部はすぐに見つけることができた。付近で最も大きな屋敷に、派手な金文字
で『大黒党 慶雲郷支部』と書かれた看板が掲げられていたのだ。着いた頃には夜もかな
り遅くなっており門が閉まっていたので、その日は浮雲は宿を求めてそこに泊まった。
 旅の疲れが残っていたので、翌日に浮雲の目が覚めたころには、もう昼前になっていた。
浮雲は食事をすませると宿をでて、大黒党支部にむかった。道すがら屋敷や人々の服装な
どを観察してみたが、それらは都とたいして違いがないようであり、浮雲はここの生活程
度は都とさしてかわらないと判断した。文明が及んでいない、というのは単なる噂に過ぎ
ないようである。浮雲はすっかり安堵し、それならば働きがいもあるものだと、初仕事に
むけて気合いを入れた。青雲の志を抱く浮雲である。夢は都で成功者となることなのだが、
そのためにはどうしても選挙で大黒党の候補に勝ってもらわなければならない。
 大黒党の屋敷の前には『中央議会選挙 慶雲郷区出陣式』という立て看板が、朝のうち
に設置されていた。浮雲は大事な行事にどうにか間にあったことを知り、幸先が良いと思っ
た。そこでは庭に天幕がいくつも用意されており、大勢の人々が忙しく立ち働いていた。
浮雲も初老で小太りの支部長に到着を告げると、すぐに手伝いにまわった。
 そして正午過ぎから、大黒党の幹部や慶雲郷の有力者たちが訪れだし、百人くらい集まっ
たところで選挙出陣式が始まった。これならば大黒党の候補の当選は間違いないだろうう
と、浮雲は内心ほっとした。
 まず壇上に上がったのは、慶雲郷を支配している貴族の当主であった。
「今回からこの慶雲郷も、都の中央議会に参加いたすことと相成り、誠に結構至極なこと
よのう。これもわが一族が認めたからこそ実現したのであるぞよ。ほほほ…」
 扇子で口元を隠しながら話す貴族の男は、結局、最後まで大黒党の応援らしいことは何
も言わなかった。浮雲は驚いたが、慶雲郷の人が選挙という文明的な制度を経験するのは
これが初めてなので仕方がないか、と考えた。しかし、最後になって貴族の男がとった行
動は、浮雲を愕然とさせた。
「雅流采道の継承者の手前を御覧あれ。あ、そうれ!」
 彼は従者から金色のサイコロを受けとると、天高く投げ上げたのだ。
 また、采か…。嫌なものをまた見てしまったと浮雲は思った。采は地面に敷かれた赤い
布の上で、一回大きく弾んでから止まった。四と六の目で、足して十であった。聴衆から
喝采を浴びながら、貴族の男は満足そうに高笑いをして段を降りた。
 だが、浮雲を驚かせたのは、この男だけではなかった。演壇にあがる者すべてが、自分
の好き勝手なことをしゃべっては、最後に采を振って、降りていくだけなのだ。本当に大
黒党は大丈夫なのだろうか、下手をすれば俺は大黒党を首になって素浪人だぞと、浮雲は
焦りを覚えて支部長を探した。まったく冗談ではない!
「心配はいらんよ。皆んないい目をだしているじゃないかね」
 太平楽な顔をして演説を聞いていた支部長は、半ば怒っている浮雲を不思議そうに眺め
た。浮雲は力が抜けるのを感じた。慶雲郷の人々は、選挙結果をサイコロの振り合いで決
めようとしているのではないか、という疑念が浮雲の脳裏に浮かんだ。
「まさか、いくら都から離れているとはいえ、そこまでバカにしてもらっては困るよ」
 支部長は心外だという口調で否定し、くだらないことを聞くなと、壇上を指さした。
 そのとき、まさに今日の主人公である候補者本人が演壇にあがろうとしていた。浮雲は
支部長との会話を止めて、自分の運命を決する人物を少しでも近くで見ようと、演壇の下
まで駆け寄った。もはや候補者が選挙で勝てそうな立派な人物であることだけが、浮雲の 
望みの綱であった。
「わしが司馬じゃ。司馬晴信じゃ。天よ、我が采を御照覧あれ! 喝、喝、喝ーっ!」
 候補者がいきなり雄たけびとともに采を三連発でほうり投げたときには、浮雲は自分の
運命に絶望を感じ、眩暈を覚えた。
 だが、ここで思いがけない反応が聴衆におこった。采は地面の赤い布の上で、まるで独
楽のように勢いよく回転を続け、やがて最後に一回大きく跳ねるとようやく止まったのだ
が、この目が発表されると彼らはあわてて平伏した。中には候補者を一心に拝んでいる者
もおり、支部長さえも、有り難や有り難やと呟きながら感激して涙を流している。
 采の目は、全て『六』であった。
「我が司馬流の采を信じよ! さすれば慶雲たなびく世となるであろう」
 候補者、司馬晴信は堂々と演壇を去った。結局、彼は采を投げただけなのだが、強烈な
威信によって民を服従せしめてしまった。浮雲はこの大黒党候補に頼ってよいのかどうか
判断がつかず、ただ異郷にさすらう不安を心中に渦巻かせながら、唖然とするのみであっ
た…。

 浮景の相棒となった泉千代は、大きな図体をもつ男であった。その泉千代は、浮雲に最
初に会ったとき、空を眺めてこう呟いた。
「おらぁ、慶雲がやってきそうな気がするだよ」
 慶雲とはなにかと聞くと、幸運をもたらす紫色の雲であるという。采の次は迷信か、と
いい加減うんざりし、浮雲はもはや頼れるのは自分だけだと覚悟を決めた。なにがなんで
も、司馬晴信には当選してもらわねばならない。
 都からきた俺が、本当の文明というものを辺境の民に教えてやろう、と浮雲は堅く決心
をした。そして、放っておくといつまでも空を見上げていそうな泉千代の手を引いて、浮
雲は最初の仕事にとりかかった。

「まずは、采を投げられよ」
 暑い日であった。宮廷装束を身にまとった貴族の男は、従者に羽毛扇であおがせながら、
あいさつを済ませた浮雲にいきなりこう命じた。選挙の協力を依頼しようと勢いこんでい
た浮雲は、完全にその出鼻をくじかれてしまった。
 また、采である。仕方なく、浮雲は関所でもらった采を懐からとりだすと、細かい刺繍
が織り込まれている敷物で覆われた机めがけて、無造作にそれを放った。采は敷物の上を
かすれた音をたてて滑った。
 『一』のゾロ目であった。
「しゃれになんねぇだ」
 隣で泉千代がのっそりと呟いた。貴族の男はとたんに、まるで汚物を見てしまったかの
ように顔をしかめて、浮雲から目をそらした。即座に浮雲と泉千代は、有無を言わさず従
者に屋敷から追い出されてしまった。

「慶雲郷の有力者のほとんどに嫌われちまっただ」
 泉千代は浮雲を非難する風でもなく、呑気な顔をしてぼそりと事実を述べた。
 浮雲ははらわたが煮えくり返る思いだった。貴族邸を叩き出されたあと、失敗を取り返
そうといっそう気合いを入れて、慶雲郷の町衆の寄り合いや婦人会、子供会にまで足を運
んで大黒党の票堅めをしようとしたのだが、行く先々で采を振らされたのだ。そして、こ
とごとく『一』の目を出し続けた。
「おらぁ、ここまで采の悪い人を見たことはねぇだよ」
 泉千代は嫌味というよりも、むしろ感心した風な口調である。しかし、当の浮雲はまっ
たく面白くなかった。自分のサイコロの目が確率論を無視していることも不思議だったが、
それくらいのことで子供会のガキにまで『ピンゾロ大王』と馬鹿にされたことが屈辱でな
らなかった。都とかわらないのは外観だけで、やはり慶雲郷は文明がおよんでいない化外
の地だ、と浮雲は憤慨していた。都出身の誇りが大いに傷つけられた思いであった。
 …だが、浮雲にも分かっていた。これが慶雲郷のやりかたであるならば、彼はそれに従っ
て勝たなければならない。もしできなければ浮雲は失業するのであるが、それ以上に彼は
悔しくてたまらなかった。あの青雲の志を抱いていた自分を、見失いそうに感じた。
 浮雲は天を仰ぎ、ふと紫色の雲を探したが、あいにく白雲一つない快晴の夏空が広がる
のみであった…。

 まずは気を静めなきゃなんねぇだ、と泉千代は言った。浮雲は謙虚にその言葉に耳を傾
け、大きく深呼吸をした。田舎者である、とこれまで見下していた泉千代に、今は教えら
れる立場になっていたが、もはや浮雲にこだわりはなかった。全ての誇りを捨てて、采の
技術を身につけようという、不退転の決意を心に誓ったのだった。
 浮雲の修行は続いた。くる日もくる日も、寝る間を惜しんで采を振り続けた。座禅をく
み滝にうたれた。山を走り樹に登り肉体を鍛えた。選挙の投票日までにはそれほど日数は
残されていなかったが、今は自己の采を磨くことが先決だった。
「あせっちゃなんねぇだ。おらだって生まれてからいままでかかったことだぁ」と泉千代
は言ったが、浮雲はともすれば焦って、精神の安定を崩しそうになり、それを必死の忍耐
で押さえなければならなかった。

 三日目 『ピンゾロ大王』を脱却した。
 十日目 初めて、平均値である『合計七』をだせるようになった。
 二十日目 ついに二回に一回の割合で、采の目が『合計八』を越えた。

 一ケ月後、浮雲が大黒党支部に現れたとき、厳しい修行と精神鍛練のために彼の肉体は
やつれ果てていたが、その目は猟犬のようにするどく輝いていた。彼は己の采に自信をも
ち、勇気に満ち溢れていた。試しに泉千代と采を競ってみると、采を五回振りあって、五
回とも浮雲の目のほうが、引き分けさえなく、大きかった。これには泉千代のほうが衝撃
を受けたようだが、浮雲は倒した獲物を振り返りはしなかった。
 浮雲は修業の成果を確かめるときがきた、と感じた。そして書き置きを大黒党支部に残
すと、国境の森へとむかった。もっとも、そのころには大黒党では浮雲の存在は忘れられ
かけており、そのことが選挙戦に影響することはなかったし、浮雲のほうでも自分が采を
の技を磨こうとした最初の目的など、すでに覚えてはいなかった。

 関所の番人は相変わらず無愛想であったが、浮雲から立ち昇る闘志を感じると、机の上
に汚くちらかる食器や食べかすを、何も言わずに払い落とした。木の椀がくぐもった音を
たてて床で砕けると同時に、浮雲の手から采が曲線を描いて放たれた。
 その瞬間、浮雲は全身に震えが走るのを感じた。いままでで最高かつ会心の一投だ。
 ひとつめの采は、『五』を出した。ふたつめは転がってきて『一』で止まりそうになっ
たが、机の木目にひっかかり回転がかわり、クルリと『五』の目が天をむいた。
 二人はしばらく無言のまま動かなかった。が、やがて番人がもじもじと身じろぎをした。
「俺も振らなきゃならんかね…」
 自分の今まで生きていた証しである誇りが打ち砕かれることを恐れ、番人は明らかに動
揺していた。そして彼はくんくんと鼻をすすりはじめ、しだいに泣きだしそうな顔になっ
た。
 それを見ているうちに、番人をぶち倒したい、という浮雲の闘志は急速に薄れ、相手に
対する哀れみが感ぜられた。かつて、番人が自分に抱いたのもこのような感情であったの
だろうか、と思った。もはや番人を田舎者だといって軽蔑する気持ちはなくなっていた。
同じ慶雲郷の采の世に生きる人間であるとの共感が胸の奥に広がり、浮雲も目がしらが熱
くなった。
「ひとつだけ、教えてくれないか」
 浮雲は番人に背をむけたところで、静かに口をひらいた。最初に番人と別れたときから
気になっていたことだ。
「あぁ、あのときは『未熟者』と言ったのさ。だが、今のあんたは違う。さっき俺を思い
やってくれたよな。采を振らされていたら、俺はこの先、生きていく自信を失っただろう」
 番人はまじまじと浮雲の背中を、涙ごしにみつめた。
「大きくなったな、あんた。慶雲があんたとともにあるように、俺に祈らせてくれよ…」
 浮雲は黙って手をあげ、別れを告げた。

 …真に采の技を極めると、采と心の波動が共鳴して、幸運をもたらす紫色の慶雲が空に
たなびくと慶雲郷では伝たえられている。あの日俺は紫の雲を見たような気がしたと、番
人は後まで訪れる人に語ったという。
            (第一話 完)