俺たちの夢、関ヶ原
第十二話 『関ヶ原』夢よ野望よ、永遠に

     (1)
 春の花は咲き散っていた。空からの光が日ごとに強くなっていることにふと気付くこと
により、季節は夏にかわるのだな、という感触が得られた。
 望羊はその時、庭の景色を眺めながら、自分の将来について考えを巡らせていた。もう、
青年といえる年齢の半分は過ぎ去っている。
 楽天家であった。しかし、彼にも若き野望があり、夢があった。いや、ある筈であった。
「俺は、このまま親父の跡を継いで一の谷氏の藩主となり、平凡に朽ち果てるのでしょう
か…」
 大名の藩主の座につける、というのは生まれながらの幸運であり、それを平凡と言い切
るのは、他の者には贅沢すぎるように聞こえるだろう。しかし、望羊の胸は、満足できな
いのだ。
 いや、別に天下が欲しいなどとは、思ってもいない。過去百年以上に渡り、数多の大名
がそれを望み、今なお家康と秀吉が暗闘している。望羊は、くだらないと思うのだ。
 庭に、娘が立っていた。木洩れ日を銀色に流れる髪に受けたその姿は、まるで空気に映っ
た像のように、浮き上がって見えた。
「あいかわらず、退屈そうね。ねぇ、『関ヶ原』にでも行ってみない」
 娘は、あっさりと言ってのけた。
「きっと何か、楽しい事を見付けられるわよ」
「雪待、でも『関ヶ原』には親父たちが参加するから、俺たちが出ていっても、ただの使
いっ走りになるだけですよ」
 望羊が、のっそりと答えるのを、雪待は、いとも簡単に否定した。
「大丈夫よ、私に任せて。一緒に『関ヶ原』に行きましょうよ」
 雪待は、そうして望羊に片目をつぶってみせた。まるで妖精が誘惑を囁くようだ、と望
羊の心臓は熱くなった。無意識に手が、胸に掛けていた黄玉をまさぐっていた。
「ねぇ、望羊。もし、うまく『関ヶ原』の采配権を、あなたのお父上から譲っていただけ
たら、欲しいものがあるの」
 雪待が、陽光に輝きながら、手を後ろに回して組み、肩で微笑みかけた。
「記念に、あなたの胸の、黄色い宝玉を、私にくれない? お守りにしたいの」
 そう、季節はまだ、初夏であった。

 ガシッ、という金属が擦れる音の後に、軍配が空に舞った。望羊の『羊角の軍配』だ。
その持ち主は、敵兵の槍を肩に受けて、傷つき、地に倒れ込んだ。
 痛みが電流のように体を走った瞬間に、望羊はなぜか、あの日の光景を思い浮かべてい
た。雪待が、『関ヶ原』に誘ってくれた日の事を。
(あの後、雪待は親父たちに毒を盛って隠居させてしまい、俺からは、まんまと黄玉を手
に入れたのでしたね。あぁ、あれはまだ、半年前の出来事なのですか…)
 影が、望羊の体にかぶさった。敵の武田氏の大兵が、彼に槍を突き立てようと、見下ろ
して、構えている。望羊は、俊敏ではない。動けなかった。
(あの日の妖精の囁きは、天使のものだったのか、それとも、悪魔のものだったのだろう
か…)
 望羊の身体は、しかし、思い出に浸る思考とは別に、熱くなっていた。悔しさの感情で
沸騰していたのである。自分が殺される事に対するものではなかった。雪待を、助けられ
ない事が、煮え滾るように、悔しかった。
(熱い…)
焼けるようだ。それとも、俺にはすでに槍が刺さっていて、その血を感じているのかもし
れない。死とは、そういうものなのか。
(俺が死んでも、雪待…。君はどんなに辛くても生きていてくださいよ。俺は天で、君の
姿を見守るのを、楽しみにしますから…)
 何を考えているのだ、と望羊は思った。賤ケ岳での雑賀衆戦以来の、変な心持ちだ。だ
が、それにしても…。
「熱いっ! 焼き殺す気ですかっ!」
 望羊はたまらず、跳び上がった。彼の体に乗っかっていた重い物体が、ごろんと脇に転
がる。望羊を狙った槍兵の死体だ。燃え尽きて燻っている。バーベキューになっていた。
「望羊、生きていたか。オレの姉を、助けるまで、死なれては、困る」
 逞しい赤焼けた筋肉質の巨体。火牛が、『牛王の太刀』を振り回している。その妖力を
もつ太刀は、炎を纏っている。切られた敵兵は、たちまちにして炎上するのだ。
「助かりましたよ、火牛」
 望羊は、肩の傷を押さえた。刺すような痛みが全身を貫く。顔をしかめた彼に、躍動感
のある声が励ます。
「雪待は火牛にとって姉なら、望羊にとってはもっと大切な女だろ! こんな所で、負け
るなよっ」
 両刃の剣『虎牙の剣』が、四方から襲い来る武田氏の兵の首を、しゅぱしゅぱと宙に舞
わせている。
「しかし、さすがに戦国最強の武田軍団だぜ。こちらが奇襲をかけたのに、これほどまで
にやられるとはな…」
 事実、一の谷氏五千人の軍団は、すでに消滅していた。兵たちは潰走して、散ってしまっ
た。今、『関ヶ原』を戦っているのは、両虎たち、武将数名だけである。
「六馬、早く来い。俺はまだおまえと、『関ヶ原』を楽しんじゃいねぇぜ!」
 両虎が、魂を切るように絶叫する。その彼を、武田兵が多重に包囲し、槍襖で押し包も
うとする。
(くっ、人気者になりたいなんて、欲を出し過ぎていたか…。今は、六馬と共に最後の戦
をしたい)
 両虎は、がっしと『虎牙の剣』を握り直した。

 大きな目が、遠く砂塵を巻き起こして接近する三騎の姿をとらえた。さらに、よく凝視
する。先頭を走るのは、空色の馬。
「来たよっ、六馬たちがこちらに駆けて来るよっ!」
 額に垂らしている薄い茶色の髪の下で、瞳が希望を宿して、くりくりと輝く。脱兎は、
ぴょーんと跳び上がって手を振り、六馬に合図をした。その頬には、血がこびりついてい
る。
 二番目を走る白馬に乗った、小柄な武将が、脱兎に気が付いて、元気に手を振り返した。
少女だ。銀色の髪が、上下に揺れている。
「雪待、ですかっ?」
 力尽きて、膝を付いていた望羊が、全身を震わせながら、立ち上がり、伸び上がった。
「なに言ってんのさ、雪見だよっ! 六馬と雪見が、やっと辿りついたんだよっ!」
 脱兎が、似合わない涙声で、振り絞るように叫ぶ。よく見ると、全身が槍傷だらけであ
る。
 三騎の姿は、見る見るうちに大きくなる。進路上に敵が群がる。
 これを六馬の『馬鳴の槍』が、電光の速さで、嘶きをあげながら貫く。三番目を走る、
頭に白絹を巻いた武将の太刀が、神のごとき怒りを伴って、両断する。
 彼らを遮る事ができるものは、この世にはないかのようだ。
 バン、ババンッ!
 この時、戦場に突如、乾いた音が轟いた。鉄砲だ。六馬たちの騎馬の脚元の、地面が弾
ける。
 東から、鉄砲隊の大軍が、前線に進出してこようとしている。葵の紋の幟を押し立てて
いる。今のは、その一番乗りした小隊の射撃である。
「徳川将軍家の鉄砲隊ですよ。毛利氏の一隊が動いたのに刺激されたのでしょう。ついに、
参戦しましたか…」
 望羊の瞳を絶望が襲う。
「六馬たちが狙われているよっ! 六馬ぁっ!」
 徳川鉄砲隊が構え、平地で隠れる場所もなく高速で通りすぎようとする三騎に、照準を
付けた。
 ババンッ、ババンッ!
 空間を、人を貫く物体が、よぎった。それを体に浴びて、瞬時に絶命する兵。
「脱兎、ぼやぼやしてたら、あかんヨ!」
「七夕っ!」
 雑賀出身の鉄砲少女、七夕が徳川の兵を、撃ち倒したのだ。火縄銃を数本用意しての一
人連射、神業に近い曲撃ちである。
「今ので、アタイはかなり、首印の数を稼いだわよ。もう、勝ちは決まったわね」
「まだまだだよっ! 僕だって、負けるもんかっ!」
 脱兎が、慌てて背にしょっていた弓を取った。
「ようし、じゃぁ、行くわよ。目標は、武田氏本陣っ!」
 七夕の胸の紅玉が、燦然と光った。小さい頃から持っていた宝物だ。あとは、鉄砲と…。
「脱兎、アンタが勝ったら、アタイの宝物の仲間入りをさせてあげるネ!」

 『そらあお』が、武田氏の密集している槍兵を、蹄にかける。六馬の『馬鳴の槍』が、
雷光のような勢いで繰り出され、包囲網に外から穴を開ける。
 その、兵が逃げ散った重囲の中では、黄色い髪を朱に染めて、剣を振るう両虎がいた。
六馬は、さらに残兵を蹴散らすと、肩で激しく息をしている両虎の傍らで『そらあお』を
止めた。
「両虎、遅くなって、ごめん。今日もいい切れ味だね、『虎牙の剣』は」
「なに言ってやがる。待ったぜ、六馬」
 両虎は、ありったけの力で胸を張ると、六馬の胸を軽く叩いた。
「まぁ、幼い時の約束には間にあったようだな。まだ、『関ヶ原』は終わっちゃいない」
「じゃぁ、征こうか」
 六馬が『馬鳴の槍』を掲げる。
「よしっ、俺は信玄の首でも取って、人気者になるぜっ。『関ヶ原』の新星ってさ!」
両虎も『虎牙の剣』を差し上げ、六馬の槍に合わせる。
 二人は、見詰め合い、頷きあった。
「見事なる義の心である!」
 そこに、三番目の騎馬武将、謙信の声が響いた。
「ただし、信玄の首は、これから我が一騎駆けにて、討ち取ってみせる! 両者とも、今
の汚れ無き合戦の心を、忘れぬようにな」
 謙信は、たっと気合いと共に、月毛の駿馬を駆り、武田本陣目掛けて、突っ込んで行っ
た。

 望羊の目の前に、雪待そっくりの少女が立っている。側には『はつはな』、彼女の愛馬
だ。
「雪見、もう落ち着いたのですか」
 望羊は、姉を思って、半狂乱になっていた少女の姿が、瞼に焼き付いていた。
「うん」
 雪見は、小さく頷く。
「六馬と駆けてたら、すっきりしちゃった」
「早緑さんが、先に来ていますよ。毛利本隊は静観してますけど、独断で一隊を動かした
らしいですね」
「うん、今朝手紙をもらったの。毛利氏は幕府や太閤のために戦う気はないけど、早緑だ
けは私のために来てくれるって。じゃ私たちも早く征こう。姉さんが待ってるわよっ!」

     (2)
 秋風が吹く〈大関ヶ原合戦場〉、今年の舞台も、終りを迎えようとしていた。高い所か
ら、激戦を熱狂しながら観戦している大勢の者の胸にも、なにやら寂しさが、入り込もう
としている。
〈武田氏が兵を引き上げるぞっ〉
〈なんでも、本陣にたった一騎で突入した武将に、信玄公が斬りつけられたそうやで〉
〈上杉氏も陣を払うぞっ〉
〈兵の損耗が激しいしな〉
〈あとは、幕府軍と太閤軍の直接対決を残すのみか…〉
 だが、観衆には分からないであろう。『関ヶ原』に戦う兵一人一人の想いなど…。

 雪待の、透けるほどに白い頬に、痣ができていた。口元からも、細く血を流して、地面
に半分俯せになって、倒れている。
 その前に、二十人強の屈強の兵を背後に控えさせて、体中が古傷だらけの男が、太刀を
持って立っている。
「脱走は、不可能ずら。いくら武田本陣が撤退を決めたといえど、我が武田忍者〈三つ者〉
の警戒網からは、逃れられぬ」
 山本勘助が、冷酷に断言した。
「お主は我らと共に甲斐に帰り、お館様の側室になるのだ。軍師にするには、忠誠心に問
題がありそうずら」
 雪待は、歯を食いしばって上体を起こし、きっと、勘助を睨みつけた。脱走を試みた際
に、捕まり、殴られた痛みが、神経に触る。
「私は、側室になど、ならないわ」
「ならば」
 勘助が、太刀を振りかぶった。戦傷で、脚を痛めるまでは、武者修行をして剣もそうと
うに極めている。いい構えだ。
「この場で斬るのみ。お主も首印をもっているから、武田家の手柄にはなるずら」
 雪待が身に付けていた軽甲冑や小刀は、取り上げられている。今は、甲冑の下に着てい
た白い小袖姿である。防御をする術がない。 勘助の、太刀が走った。立ち上がって逃れ
ようとした雪待を、真正面から切り下ろす。 ざっ、という衣を裂く音を引いて、小袖が
上下一直線に、割れた。金白色の帯が、数本に切断されて、すとっと落ちる。
 雪待の白い胸に、黄玉が光っている。彼女は、まだ生きている事に気付くと、両手で左
右に割れた小袖を掴み、引き合わせた。黄玉が、その中に隠れる。
 しかし雪待は、斬られたと感じたのだ。勘助もその間合いで太刀を振るったのだ。
 お互いに奇妙な沈黙が流れる。
「望羊の宝石が、弾いてくれたの?」
 事実、太刀は、黄玉から先の肉体を傷つける事はできなかった。
 しかし、この次は…。雪待は衣装が裂けて切れ端が体に絡み、行動の自由がきかない。
「このおなご、奇怪な技を使う! 早く片付けなければ、撤退中の本隊から置いてきぼり
を食らうずら。〈三つ者〉よ、囲んでこの小娘の首を挙げましょ…」
 勘助は、討ち取り宣告を、最後まで言い終える事ができなかった。
 バンッ!
 ヒューッ!
 破裂音と、空気を裂く音が、共鳴した。
 〈三つ者〉の一人が、胸を撃ち抜かれた。
 〈三つ者〉の隣の一人が、喉にささった矢から血を滴らせて、もがき、崩れた。
「やったね、七夕!」
「フンッ、まだ八つ首差でアタイが勝ってるわよ」
「脱兎っ! 七夕さんっ!」
 雪待が、驚きの声を上げる。
 いや、本当に驚倒したのは、勘助と〈三つ者〉だ。
「敵襲か、散れっ!」
 武田氏は、忍者の質でも一流だ。即座に対応して、方々に散らばる。
 だが、その内、木の影に隠れようとした一人が突如、ぐぉぉぁっという叫喚を残して、
火の粉を撒きつつ燃え上がった。
 樹上に飛び移った一人が、跳ね返るように顔面を押さえて、地面に叩きつけられた。
手の隙間から、眉間に手裏剣が半分埋まっているのが見える。
「雪待姉さん、無事で、良かった」
 木の幹の影から、筋肉質の太い腕に、炎を纏う太刀を握り締め、武者が現れた。無口だ
が、瞳は安堵感を湛えている。
「キキーッ! 武田忍者も大した事ないゼ! これならラッキー兄ぃの方が筋がいいゼ」
 上方の木の枝から、カン高い声の少年が落下し、ストンと着地した。手裏剣をお手玉の
ようにして、両手の間で転がしている。
「火牛ね! そして、心猿まで!」
 雪待は、弟の顔を見て、安心を感じた。切れ長な瞳が、潤みだす。
「一の谷めっ、軍は壊滅しながら、往生際が悪い。まことの武士ならば、恥じて腹を切る
ものずら!」
 勘助は、怒鳴った。武将として常識はずれの行動をする、一の谷氏の諸将がを理解でき
ず、許せなかった。
「あなたの考えが、古いのよっ! 戦国も変化していくのっ」
 その刹那、白い、一陣の吹雪きが勘助を襲った。雪見と『はつはな』だ。
「よくもよくも、姉さんをいじめたわねっ!」
「雪見っ!」
 雪待は、白馬に乗る自分の分身が、怒りで眼をぎらぎらさせて、勘助に迫るのを見た。
「油断したらだめっ!」
 雪見は手綱を握る手をばたばたとさせて、小太刀を鞘から抜き、勘助に切りつけた。
 両者が交差した。次の瞬間、一気に駆け抜けた『はつはな』の背に、雪見の姿はなかっ
た。銀色の髪は、勘助の手の中にあった!
「甘いわ、小娘。遊び気分で合戦にでるからこういう事になるずら」
 勘助が片手で、半身を羽交い締めのようにして、雪見を捕らえている。もう一方の手に
は、雪見の小太刀を握り、元の持ち主の首筋に突き付けている。
 擦れ違った瞬間に、雪見の小太刀を手刀で払い、その襟首を掴んで、馬から引き摺り落
としたのだ。
「ほら、こいつの首はもらったずら。お主らの無鉄砲な行動の結果だ」
 小太刀の切っ先がが、雪見の首に触れた。白い肌に、血が盛り上がる。
「首とは、こう落とすものだ!」
「待ちなさい!私は毛利家の将、村上早緑。雪見を放して!」
 この時、「風林火山」の幟の背後から、トビ色の髪が、颯爽と登場した。
「さ、早緑。わっ、血が出たよう!」
 雪見は、大好きな声を聞いた喜びのあまり、刃が突き付けられている首を動かした。と
たんに、スーッと、赤い液体でそこに筋が引かれる。
「毛利氏で、勝手に参戦した一隊の将か。主家の軍令を無視するとは、嘆かわしい。お主
など、毛利氏の将とは認められん、ただの浪人である。この勘助、浪人に命令されるいわ
れはないずら」
 勘助が、早緑を嘲笑う。だが瞬時、注意がそちらに向いた…。

 幼いころは、ただ走っているだけで、満足できた。だから、肺がきつくなっても、呼吸
ができなくなる一歩手前まで、走るのを止めなかったものだ。
「なぁ、六馬っ。俺たち、昔こうやってよく海岸の砂浜を駆けたよな。時々休んで、沖の
波に向けてを石を投げたりしてさ」
 両虎は、『虎牙の剣』をひらりひらりと舞わせている。『関ヶ原』に遊ぶ今は、無心に
首を討っているだけで、満足できている。体は傷だらけだ。だけど、一つ首印を取る度に、
野心に焦る事もなかった、あの頃の心へと近付けそうな気がするのだ。
「両虎ぉ、あれ誰だと思う?」
 六馬が、手を額の上に翳し、遠くを眺めている。
 その方向に、銀色の点が見える。人の髪だ。後ろに、銀色の髪の人物に、きらりと光る
ものを突き付けている男がいる。
「雪見じゃねぇか! 捕まっているぜ」
 どうする、という目で六馬を見る。いたずらっぽい、不安のかけらもない瞳だ。
「僕が、石投げが得意だったのを、覚えているだろう?」
 六馬は、満面の笑顔で、両虎に応えた。
「よしっ! 俺が命中を判定してやるぜ」
 両虎は、目標地点に走った。本当に気持ちが良い。
 山本勘助が毛利氏の将、早緑から、目を正面に移した時、視野には嘶きながら飛来する
槍があった。それが、刻々と拡大する。
「きゃっ!」
 悲鳴を上げたのは雪見だった。だが、槍が刺さったのは、勘助の胸だった。
「六馬ーっ、当たったぜ!やるなぁ」
 槍を追うようにして駆けてきた両虎が、喝采しながら、勘助の首印を取った。
 その場にいた一同は、呆然として立ちつくすばかりであった…。

「俺は、結局なにもできませんでしたね」
 遅れて武田氏本陣跡に現れた望羊は、雪待を直視できなかった。衣装を切られた彼女は、
武田氏の「風林火山」旗を身体に巻いている。
「ううん、十分に助けてもらったわよ」
 雪待は、望羊の手を取って、胸に掛けていたお守りの黄玉を握らせた。
「ありがとう、望羊。私の大名さま…」
 そこへ、ぬっと現れる影。
「一の谷氏の面々が、勢揃いしてますよぅ。勝鬨を挙げましょう」
 委蛇であった。
「そうですね。では」
 望羊はコホンと咳払いをする。
「皆んな、『関ヶ原』は楽しかったですかーっ!」
『おおーっ!』
 轟くような勝鬨が、一の谷氏の生き残りの武将から挙がった。
「そろそろ、神戸に帰りましょう。まだ、幕府と太閤さんは戦っているみたいだけど、私
たちには関係ないわ」
 雪待が、望羊を促した。
 一同、感慨に耽る。さらば、大関ヶ原よ。次に会う時が来るまで…。
「でもさぁ、オイラ、何か忘れたような気がするんだけど…」
 脱兎が、目をクリクリさせている。
 そこへ、徳川の大軍に追われて、南蛮人が、必死で逃げて来るのが視界に映った。
「ラッキーさん!」
 急いで、望羊が『羊角の軍配』をさっと一振りする。と、つむじ風が巻き起こり、ラッ
キーを収容した一の谷氏の姿は、その中に掻き消えた。

『……でもね、そんな野望よりも、大事なものを僕は知ったんだ。
 『関ヶ原』には、過去と未来の夢が、溢れていたのさ。僕は、この心を一生忘れない。
 幸福な人々、一の谷氏にさらに幸あれ。
 父さん、母さん、もうすぐ帰ります。
 コウベにて  あなたがたのラッキー 』

 ラッキーは、ペンを置くと、首取り優勝者に贈られた、太刀を撫でた。

   《了》