俺たちの夢、関ヶ原
第六話 踏み付けられたお市の愛

     (1)
『親愛なる父さん、母さん   
 お元気ですか。
 僕は今、東洋の果て、中国よりもモンゴルよりも遠い島国にいます。日本という国です。
 ここで、『関ヶ原』という紳士と淑女のスポーツを取材しています。記事は新聞社に送っ
 ています。ここからでは、僕の書いたものに対する反応を知ることができない、また、
 父さん、母さんが読んでくれているのかも分からないのが残念です。
 『関ヶ原』という言葉を、もしそちらで見るなり読むなりしたのなら、それは僕の情熱
 が送り届けたものです。
 そちらの皆にも、見せてあげたい。『関ヶ原』は本当に素晴らしい競技です。それは、
 名誉と生命を賭けて闘う、史上最高のドラマです。
 そして、僕は決心しました。この『関ヶ原』に自らも参加することを。イチノタニとい
 うチームの監督から、新しいユニフォームも頂きました。ヨーロッパの鎧のようなもの
 ですが、鋼鉄ではないので軽く、動き易いのが特徴です。
 父さんが、僕が特派員記者となるのを許してくれたことは、いまでも感謝しています。
 今度は『関ヶ原』合戦選手になることもお許し下さい。
 母さんが、航海の安全を神に祈っている、と言ってくれた時は、嬉しかったです。今度
 からは、『関ヶ原』での無事も一緒に願って下さい。
 明日はタナバタと言って、東洋では、ミルキーウェイを渡って、離れた所にいる恋人が
 会える日だそうです。僕も、インド洋と地中海を一気に渡って故郷を一目見たい、とも
 思います。けど、約束した通り、栄光と富を掴むまでは、日本で戦い続けます。
 では、健康をお祈りしています。
 あなたのラッキーより  決意を新たに』

 懐かしい故郷の両親への手紙を書き終えると、合戦記者兼武将の異国青年はペンを置い
た。立ち上がると、菜種油に灯していた火を吹き消して、陣幕を出た。
 『関ヶ原』近畿地区代表を決める最初の一戦は、太閤豊臣秀吉の勝利に終わった。
 熱狂する観衆に取り囲まれて、豊臣氏が大坂への帰路についてから、すでに二刻が経っ
ていた。
 〈姉川合戦場〉は、明日の合戦に備えて、眠りについている。
 満天の星明かりが照らすその平野では、今は合戦を控えた一の谷氏と浅井氏の軍勢が、
野陣を引いている。中央を東西に流れる姉川を挟んで、一の谷氏が南、浅井氏が北に位置
している。
 その、一の谷氏の陣中で、ラッキーは手紙を書いていたのだ。
 四方から、虫の鳴く声が流れてくる。空は、落ちて来るのではないかと錯覚するくらい
の多数の星々で埋め尽くされている。その中でも一際光る、粒子の密度が濃い流れが天空
をよぎっている。天の川だ。
 ラッキーは空を見上げている。航海中にも、船の位置を確かめる意味合いもあって、よ
く甲板から星を見ていたものだが、広々とした固定した大地で、こういう風に無心で眺め
ると、心が洗われるよう気がする。
 星々が自分に、宇宙の大きさ、人間というものののはかなさを叩きつけて来る。しかし、
また同時に、それを受け止めることのできる自分の精神の偉大さも、理屈抜きで、実感と
して込み上げてくる。
「明日は名誉ある初陣だ、ラッキー」
 彼は自分の心に語りかけてみた。
 いまだに、『関ヶ原』に参加しないか、という望羊の誘いの言葉が頭に残っている。ま
た、その時の興奮も胸の中にそのまま、熱く震えている。
 一の谷氏と出会って、何度も苦難に出くわした。若い野心に燃える自分は、ただ弄ばれ
ているだけではないのかとも思った。故郷の両親に手紙で真実を告げる勇気がなかった。
しかし、やっと今日、手紙を書いた。自分の求めていたものを知ったからだ。『関ヶ原』、
この異国のスポーツに参戦することが、自分の魂に安らぎをもたらしてくれるとは…。 
 明日は、合戦だ。決勝戦だ。
 雪待は言っていた。決勝戦では、堂々とした、正面からぶつかる戦をすると。
 いい戦いをしたい。いい記事を書きたい。望みはとめどなく、心の底から沸き上がって
来る。
 だけど今は、この満足感に浸っていたいと思う…。
 故郷を遠く離れた夢多き冒険青年ラッキー、〈姉川合戦場〉に抱かれてスヤスヤと眠り
に落ちた。だが彼は知らなかった。一の谷氏で、正々堂々と合戦に望もうとして、ぐっす
りと寝入っているのは彼だけだということを。
 一の谷氏の武将は、夜更かしといたずらが好きなのだ。

 姉川の北岸、浅井氏の陣も、等しく星空に照らされていた。
「オイラたち、うまく潜り込めたようだね」
 星の光を避けるように、身を窪地に縮めてささやきかけたのは脱兎である。野生のウサ
ギのような手触りのよい茶色の髪と、キョロキョロとあたりを伺う大きな瞳だけが、夜の
中にうっすらと浮かんでいる。
「アタイの忍びの腕だって、なかなかのものでしょう? 傭兵はいろいろな事を身に付け
るものなのよ」
 七夕が、隣の暗がりから囁き返す。肩まで伸ばして和紙でくくっている黒髪は、夜の闇
の中に溶けている。彼女の存在を示すものは、その胸にかけられている紅い石の輝きだけ
である。
「うんっ! よくオイラに付いてこれたね。ラッキーさんなら、今頃ヒイヒイ言いながら
倒れ込んでいるハズだよ」
 脱兎は、一瞬自分がどこにいるのかを忘れて、いつもの通りの明るい声を上げてしまい、
慌てて周囲を見渡した。そして、声を低めて話を続ける。
「嬉しいんだよ。だってこれまではこんな特別任務はオイラ一人で寂しくやっていたんだ
から。一緒に隠れている仲間がいると楽しいね」
「心猿なら同じくらいすばしっこいから、アンタと組めるんやないのん?」
「ダメだよ! あいつは仲間がいるとはしゃいじゃって、隠れていられないよ。それで見
付かると、勘が鋭いから、自分だけはさっさと逃げるんだから」
 脱兎の瞳が闇の中で、クルクルしている。
「だ、だから七夕じゃないとオイラと組めないんだ」
「くふふっ…」
 七夕が闇の中で笑いを噛み殺している。
「おかしいね。アンタだって結構はしゃいでるよ」
 それでも浅井の兵は気付かない。脱兎と七夕は、かなり本陣近くにまで侵入しているの
だ。
「だってさ、敵が無警戒なんだから! まるで、合戦の前に敵が侵入するなんて、考えて
もいないみたいだよ」
「そうね。脱兎とアタイの二人だけやとしても、一の谷氏の将兵がこうして忍び込んでい
るのにねぇ」
 と七夕、突然ハッとしたように早口になる。
「そう言えば、アタイ、雑賀で聞いた事があるわ。浅井の殿様は真面目で、合戦は正面決
戦しか興味がないそうよ」
 七夕は少し誇らしげで、解説調になってきた。
「汚い手については、考えるのも嫌な性格らしいワ」
「それなら、楽な敵じゃないか! 雪待に毒キノコをもらってこようか?」
「もう遅いと思うわ。ほら、あそこの将兵が食べているモンを見てみて」
 七夕は、本陣の陣幕が、何かの拍子で人が通れるくらいの隙間が開いているところを、
指差した。浅井氏の武将たちが、向かい合って並んで座っている。その前に膳が置かれて
いた。
「打鮑、勝栗、昆布…」
 脱兎が、目を大きく見開いて観察をする。
「打ち勝ち喜ぶ、だね。合戦に縁起を担ぐなんて、少し古臭いけど、真面目なんだね」
「ところで一の谷氏は、今夜は何を食べているの?」
 七夕は、不真面目なのはアンタたちだけよ、と言いかけたのを、かろうじて押さえて聞
いた。
「うぅん、多分山海の幸や南蛮料理で、豪勢な大宴会をしていると思うよ。望羊がね、堺
で火事の時に拾った食料も、そろそろ食べてしまわないと腐りそうだって言っていたから…」
 脱兎はうまい料理を連想して涎が流れかけたのを、飲み込んだ。
 ゴクンという音が、闇を伝って七夕にも届く。七夕は呆れていた。
「一の谷氏が、堺に放火したどさくさに紛れて略奪をしまくったって噂は、本当やったの
ん?」
 七夕はおかしくなって、また忍び笑った。
「ホンマにおかしいね。雑賀も陽気で豪快やったけど、アンタんところにいると、面白く
て飽きないよ」

「お市、ついに決勝ぞ。この度こそは、愛するそなたを『関ヶ原』へ連れて行ってやりた
い」
 りりしい戦装束の武者が、傍らによりそう女武者に声をかける。
「はい、ようやく明日は決戦ですね。四年前は準決勝で運悪く秀吉に当たり、破れました
が、こたびの相手ならば…」
 気品を漂わせる美女が、武者にしなだれかかる。それでも、少しも姿が乱れないのは貴
種の血のせいか。浅井の大将長政と、妻で副将を勤めるお市の方が、合戦前夜の会話を楽
しむ、野戦陣の中の寝所である。
「かならずや、『関ヶ原』に出る! そして、四年前に我らの所領を半減させた江戸の将
軍、家康めに一泡吹かさん!」
「大丈夫で御座ります」
 お市がやさしく長政の身体を、なだめるように撫でる。
「我らの愛の力があれば、一の谷氏など一撃ですわ…」
「そうであるな。愛の想いがあれば、あとは『関ヶ原』が我らを導いてくれよう」
 長政は、低い声で呟くと、お市の腹部に両手回し、頭をその体にあずけ、抱いた。
 お市は、密着した長政の体から、震えが伝わるのを感じた。
「長政さま…」
「武者震いじゃ。安堵いたせ」
 長政の腕に力がこもる。
「お市、明日は、勝つぞ」
「はい、共に『関ヶ原』へと参りましょう」
 お市は、家臣の前では勇敢な武将だが、自分には素直に本心をさらす夫を、好いていた。
彼の願いを、叶えてあげたい…。

     (2)
 〈姉川合戦場〉は今日も晴れた。暑い日になりそうである。照り付ける日光に、姉川の
川面が光り、地面を緑で埋める夏の草々が輝く。
 だが、地面を覆っているものは夏草だけではなかった。ラッキーは朝、熟睡の後のすが
すがしい気分でいる時に、それを確認して絶句した。
「し、死体だらけじゃないデスか…。これじゃあ、合戦ができません!」
ラッキーは胸が重くなり、口を押さえて吐き気を堪えた。
「おはようっす! ラッキーさん。どうだい、爽快な朝じゃないか。ああ、戦の前の食事
の旨いことよ」
 両虎が気持ち良さそうに合戦場を眺め渡しながら近付いて来た。右手には塩焼きにした
鮎の串刺し、左手にはきつね色の饅頭を持っている。それに交互にかぶりついて、満足そ
うである。
 ラッキーは、両虎の神経を疑った。いや、以前から薄々と、一の谷氏の武将の行動には
疑問は持っていたが…。
「両虎サン、よくこの戦死者だらけの光景を見ながら、食べ物が腹に入りますデスね…」
 ラッキーは、まだ胃の中が疼くようで、前屈みである。声に力が入らない。
「けはーっはっ! ラッキーさん、前の日に合戦があったんだ。死体だって残るぜ。雨が
降ったら水溜まりができるのと同じことさ」
 両虎が愉快そうに豪笑する。
「それとも、誰かが片付けてくれるとでも思っていたのかい。どうせ幕府のお役所仕事さ。
俺たちの合戦が終わってから、まとめて合戦場の掃除をするつもりなんだろうな」
「でも…」
 ラッキーは勇気を出して戦場にもう一度目をやった。草間には、間違いなく豊臣、朝倉
の戦死者が転がっている。
「なにか、昨日よりも死体が増えたような気がするデスが…」
「んっ?」
 両虎が、食べ物を口に運ぶのを中断した。ラッキーの肩をポンと叩く。
「ともかく、ここまできたんだ。たとえ戦場が死体だらけだろうが、槍が立っていようが
燃えていようが、勝たなきゃな。『関ヶ原』まで、あと一歩だぜ!」
 両虎が、さらに元気付けるように、ラッキーを武具の上からポンポン叩き続ける。
 ラッキーは、両虎の励ましで、ようやく落ち着いた。いや、『関ヶ原』という言葉を聞
いたからかも知れない。
「そうデスね、私たちは『関ヶ原』に征くのでしたね!」

「合戦日和ぞ。我が浅井家の栄光の日に相応しい!」
「仰せの通りです。お市も獅子奮迅の働きをして見せまする」
 浅井長政とお市は横に並び、合戦場に向かって柏手を打った。瞳は一心に、これから一
の谷氏と戦う平野に注がれている。神聖なる戦いの場に。
 幸いなことに、姉川の北岸はそれほど荒れていない。昨日の試合では、北岸に陣取った
朝倉氏は、めいいっぱい南側の豊臣陣に突撃しきった所で、一斉に攻撃を受けて崩れたか
らだ。北側ではほとんど戦闘は行われなかった。
 『関ヶ原』合戦予選では、敵本陣が崩れた後の追撃は意味がない。勝敗はその時点で決
しているからだ。だから兵は、敗走する時のことを考えなくて良いので、力を残さず精一
杯戦う。
「殿、雑賀の傭兵が参りましたが」
 突然、重臣の海北が、少女と少年を連れて来た。
 長政とお市は、祈りを止めて振り向いた。
「雑賀、とな。そうか、今回は雑賀は早くに負けたので、また鉄砲傭兵を始めたか」
 長政が澄んだ瞳で少女を眺めやった。
「名をなんと申す?」
「七夕と申しまする。雑賀の頭領、孫市の親族に御座ります」
 日焼けた肌が輝いている。鉄砲を肩に担ぎ、大胆に長政を直視する姿が、さまになって
いる。
「気に入った。これは勝利をもたらす女神の化身かもしれん。吉兆である!」
 長政は、手を打って喜んだ。
「殿はりりしき若武者がお好きですから。ほんに合戦一筋じゃ」
 お市が微笑む。
「もう陣の配置は決定し終えたゆえ、本陣付きにいたしましょう」
「ははっ」
 七夕はペコンと勢い良くお辞儀をした。茶色い瞳と胸の紅玉が光る。
「アタイ頑張ります!」
「うむうむ、ところでその茶色の髪の少年は何者か?」
「このものは、アタイの従者です。雑賀にも拘らず鉄砲をよくしませんので」
 その少年、脱兎が卑屈に頭を下げる。
「背中にしょっておるのは弓か。まあよい」
「七夕殿も、おなごの身で男を従えるとは、素晴らしいですわね」
 お市が、肘で長政をつつく。
「私はお市を対等に思っておるぞ。だから、副将にもしている」
 あせって長政が生真面目に答える。
「ふふ、分かっておりますわ」
 お市は、信頼を中に宿した目で、長政の瞳をじっと見詰めた。
「愛してくださっているのでしょう?」
「も、もちろん」
 瞬間どぎまぎしながらも、長政はお市を引き寄せた。
「愛により、共に『関ヶ原』へ参らん!」

 〈姉川合戦場〉の熱気の上を、朗々とホラ貝が鳴り渡る。同時に、観衆席になっている
付近の山がどっと沸き立つ。両軍の兵は一斉に礼をする。猛暑の中で、合戦場にはかげろ
うが立っており、空気が揺らめいている。
 ラッキーには目の錯覚で、草間の戦死者までもが礼をしたように見えた。
 幻だ。まだ僕は気にしているのか、と思う。だが、この一の谷氏の陣容は幻影ではない。
「なんで、こちらの兵はこんなに少ないデスか!」
 ラッキーは馬上で叫んでいた。
 もともと、一の谷氏の兵力はそれほど多くはない。だが、浅井氏の五千人には十分対抗
できるだけはいた筈である。
「どうしたーいっ! ラッキーさん」
 後方の遊撃隊から両虎が叫びかける。
「どうして、私と両虎サンの二隊だけしかいないデスかーっ」
「そりゃーさ、時の運さ! はーっはっ、しかたねーや!」
 豪快な笑いで両虎はごまかした。まったくの楽天家だ。望羊と雪待の本陣は、ぐーっと
後方に逃げて布陣している。
「ラッキーさん、考えるなーっ! 敵さんが来たぞーっ!」
 ラッキーはその時、ドッドッドドド、という地響きを聞いた。浅井氏が全軍で進撃を開
始したのだ。
 浅井氏五千対ラッキーと両虎で二千の兵、しかも浅井氏は戦国一、生真面目な突撃を仕
掛けて来る。冗談半分では受け止められない。姉川を一気に渡った直後で勢いのついた騎
馬兵が、槍をきらめかせてラッキーの陣に突入をした。
 ラッキーの視界に、自分を貫こうとする槍の穂先が広がる。脳裏に、雑賀戦で自分が狙
われた時の銃口と、今朝見た戦死体のイメージが重なった。恐怖が増幅し、ピークに達し
たその時、ラッキーの精神が爆発した。

「いやーぁっ!とう!」
 最前線で薙刀を回転させながら戦うお市は、美しき闘神と化していた。薙刀が一閃する
度に、敵一首が挙がっている。敵は弱い、とお市は感じていた。陣構えからして無茶苦茶
だ。
「長政さま、『関ヶ原』は間違いなく貰いましたわ」
 この時である。
〈ぐあーっ!〉
〈南蛮の怪物だー!ぎぇーぃっ!〉
 前方の、味方と敵の最も激しい衝突点で、混乱が巻き起こった。その混乱が、みるみる
うちに一直線を引き、こちらに近付いてくる。
「お市の方さま、逃げて下されっ!」
 先を進んでいた浅井先鋒の海北綱親が駆けて来た。
「海北殿、どうしました」
 が、海北は答える間も無く、後方から追い付いた荒れ狂う碧眼の武将に槍で突き伏せら
れた。
「ガーッドー! ガーッド! マームッ!」
 奇怪な言語を発し、武将はお市に迫り来る。
「これが一の谷氏の南蛮人なの…。雑賀の軍を一人で叩き潰したという!」
 お市は薙刀を持つ手に力を込めた。
「ならば、この怪物を私が止めれば勝てるわ。長政さま、勝ちますわ!」

「お市ーっ!」
 お市の方の隊の危機を知り、長政の本隊も姉川を渡り、敵陣に斬り込まんとしていた。
 その時である。長政も悪夢を見た。地面に横たわていた無数の戦死体がむっくりと起き
上がったのだ。
 とたんに、未知なるものへの恐怖から、本隊の兵たちはパニックに陥った。
「死人返しの術か…」
 唖然とする長政に、一際巨大な筋肉質の死体が、近付いてきた。手に持つ太刀が地獄の
炎を宿している。
 はっと、驚愕し震える長政は、自分の背を狙う気配を感じた。
 七夕が鉄砲を構えている。
「おぉ、雑賀の娘よ。あの怪物を撃ち取られよ!」
 長政は、この怪奇にも動じていない少女を、頼もしく思った。
 だが、七夕の銃口は、長政に向けられたまま、動かない。
「ごめんね、アタイ、本当は一の谷氏に雇われた武将なの」
 そして従者も弓を絞って叫ぶ。
「オイラは一の谷氏の将、青葉脱兎だ!」
 さらには、近寄る死体までがぼそっと名乗りを上げた…。
「そして俺は、一の谷氏、伏兵隊の将、天神火牛。疲れた。じっと夜から待ってるのは」
 長政は、自分の常識が崩されていくのを感じた。
「お市よ、こんなふざけた奴原に、我らが四年間の忍耐が打ち砕かれるとは…。無念っ!」

 ラッキーが正気に戻った時、胸板を叩きながら、足の下に美しい女を踏み付けていた。
地に這うお市の方からは止めどなく涙がこぼれていた。私の長政さまへの愛が、このよう
な狂暴兵に負けるなんて…。心の中までが踏み躙られたように思えた。
「長政さま、あなたと、征きたかった…」

《対浅井戦、埋伏一本。一の谷氏、優勝!》