俺たちの夢、関ヶ原
第三話 弾正サマと謀反の掟

     (1)
『         5/23/1612
 元将軍、敗れる!
 この情報は、日本の都である京から、即座に全国を駆け巡り、『関ヶ原』の予選を戦っ
 ている数多くの大名に、驚きと困惑をもたらした。
 元将軍とは、戦国時代にその統治能力を失い、千六百年には今の江戸幕府に取って代わ
 られた足利将軍家の十三代目である足利義輝のことである。今では将軍といえば徳川家
 康であり、足利家は京のある山城国の一大名に過ぎない。だが、京では彼はまだ、町衆
 から親しみを込めて、『将軍』と呼ばれ続けている。
 この将軍が、『関ヶ原』の近畿地区大会において、早くも二回戦で姿を消したのだ。
 将軍家を倒したのはなんと、このレポートをお届けしている私が従軍している、神戸の
 一の谷氏である。そして私は、かつて日本一の力を誇っていた足利将軍家が倒される瞬
 間に、立ち会うことができたのだ。
 〈洛中合戦場〉で行われたこの戦は、やや通常の合戦とは異なっていた。勝負を決する
 形式に一騎打ちを採用したのである。
 ここで、このスポーツ合戦競技のルールを大まかに説明しておこう。それは極めて簡単
 である。
 最大の目標は相手方の大将の首である。両軍の、本陣にて軍配を振るう大将は、幕府に
 は分かっているので、改めて審判に申告する必要はない。なぜなら大将は必ず、実際に
 領国を治めている大名本人でなければならないからである。大名とは藩主のことで、藩
 政の責任者として幕府に名前が届けられている。そして勝敗の判定であるが、まず、敵
 方の大将の軍(本陣)を壊乱または撃滅すれば無条件に一本勝ちである。
 ところが、日没の合戦終了までに、どちらの本陣もダメージを受けない場合もある。そ
 の時は、幕府の合戦奉行から派遣されている審判が、日中の合戦の戦果を審議し、勝負
 の結果を判定するのだ。
 以上が、合戦の勝利判定の方法である。
 が、である。足利将軍家対一の谷氏の間で行われた今回の合戦では、ルールには特に規
 定がない、武将同士の一騎打ちが行われたのだ。この方式は、中国や昔の日本では、そ
 こそこポピュラーであったが、現代の『関ヶ原』合戦選手権の時代では、めったにお目
 にかかれない。貴重な合戦である。
 一騎打ちは、畏れ多くも将軍の御所で行われた。試合を終始盛り上げたのは、塚原とい
 う剣豪から奥義を伝授された程の、将軍の太刀さばきである。
 足利将軍方の五名の側近武将は、とても弱く、合わせて十五分で全滅してしまった。
 『牛王の太刀』という、炎をその身から発する太刀で、いきなり五人抜きを果たしたの
 は、一の谷氏歩兵隊の武将、天神火牛である。瀬戸内の潮で赤焼けた巨躯が、逞しい。
 だが、その火牛も将軍の剣にかかっては全く勝負にならなかた。将軍は全神経を集中し
 たたったの一撃で、火牛の巨体を薙ぎ倒したのだ。
 ここからは将軍の独り舞台。火牛戦を含めて四人抜きするのに、剣を振った回数も僅か
 四回という凄まじさ。まさに一撃必殺とはこのことだ!
 事件は、一の谷氏遊撃隊の武将、御幸両虎が、無敵の将軍相手に善戦をしていた、その
 最中に起こった。
 将軍の鬼神が憑いたような、気迫の籠った剣撃をよく凌いでいた両虎も、ついには力尽
 きようとしていた。が、その刹那、闘いの空間に一陣の風が襲い来たり、荒れ狂った後、
 通り過ぎていったのだ。
 そして、何が起こったか分からず、ただ呆然としていた観衆が見たものは、槍で突かれ
 て失神した将軍の姿であった。
 この時点で、将軍家の敗北は確定したのだ。だが、観衆は収まらなかった。彼らの目に
 は、この疾風は、一の谷氏の策謀によってもたらされた魔風と映ったのである。将軍家
 主催の美しき一騎打ちが汚された、と考えた観衆は、一気に暴徒と化した!
 私も、この暴動に巻き込まれ、負傷をした。皆様にパワフルなレポートをお届けするた
 めに、最前線で取材していたためなのだ。
 さあ、足利将軍家を討って逆賊の汚名を着ながらも、我らが一の谷氏は三回戦へと進出
 した。次の戦いは一週間後である。
 次回の『関ヶ原』パワフルレポートも、乞うご期待!
  レポート ラッキー・ピシーズ
             サカイにて』

 ここまで書き終えると、異国から来た冒険青年は、殴られた全身に痛みを覚えながら、
背伸びをした。腫れ上がった頬を冷やしていた布が温かくなっていたのに気付き、部屋の
隅に置いてある盥の冷水で絞り直す。
 まったく酷い目にあったものだ。僕はただ将軍サマの戦いを見ていただけなのに。いき
なり皆が拳を振り上げて襲って来るなんて、どうやったら予測できただろうか。
 合戦の後は京の都で(あの茶屋の娘でも誘ってさ)楽しもうとしていたのに、結局命か
らがら逃げ出してしまった。あのまま京に止まっていれば、怒った町人の闇討ちに遭って
いただろう。
 さらに僕は、日本人が『関ヶ原』の次に大切にしているものを失ってしまった。それは、
『名誉』なのだ。
「逆賊だとよ。この俺がなにをしたっていうんだ!」
 背後から、乱れた口調の声が響く。両虎が脚を無造作に前に投げだして、壁にもたれ掛
かかって座っている。
「ラッキーさん、あんたと俺は逆賊仲間らしいぜ。町を歩けば石を投げられる。店に入れ
ば塩を撒かれる。これじゃ、生きていけないじゃないか!」
 両虎は、横に置いた包みから大福餅を掴むと、立て続けに三つを口の中にねじ入れた。
噛んだ瞬間に、あんが口からこぼれる出る。
「くそっ、あんこまで俺を汚しやがる」
 両虎は悪態をついた。その目が酔った時のように座っていて、ラッキーの方を睨んでい
る。
「両虎サン、自棄になって餅食うは、良くないデスよ」
 ラッキーは、自分も逆賊呼ばわりされて、心に動揺を覚えながらも、若き戦士を気遣っ
た。
「将軍サマを倒したのは、本当は背後からいきなり槍で突いた六馬サンでしょう? 私た
ち逆賊じゃないデスよ」
「違うね!あの混乱の中で、誰か六馬の姿を認めた者がいると思うかい? あそこにどこ
かの武将がいたなら、合戦慣れした観察眼で、関守六馬の騎馬軍団の旗印なりを確認して
くれただろう。だけどあの時、周囲は実戦経験のない町人と幕府の文官だけだった!」
「目撃者がいないのデスか」
「そうよ!お陰で幕府の合戦奉行の公式記録には、御幸両虎の名前が、足利将軍を討った、
として記録されてしまったぜ」
「では、両虎サンの手柄になるのデスね」
「逆賊じゃぁ、自慢しようがないさ。あぁ、人気者になれると思って、『関ヶ原』を目指
しているのに…」
 両虎は三色団子の串をくわえながら、焦点の定まらない目を天井に漂わせた。
「ラッキーさんも取材がやりにくくなるかもしれないぜ」
「うっ」
 これまでは逆賊の件は半ば人ごとのように考えていたラッキーは、いきなり心臓に冷水
を掛けられた思いがした。
「困る、困ります。私は取材が出来なければ、故国に記事を送れませんデス」
 ラッキーは彷徨うように椅子から腰を浮かすと、両虎の前に膝をついた。すがるように
両虎の目を見詰める。
「おっと。魂の救済なら南蛮坊主にしてもらいなよ。俺の専門外だぜ」
 両虎は、ラッキーの真剣な目差しに戸惑って、壁伝いに腰を逃がした。
 それを聞いて、ラッキーは心の中で、はたと手を打った。そうだ、ここはヨーロッパか
らの宣教師や商人が数多くいる、商港としては日本一の堺だ。あまり教会には行かなかっ
たので宣教師は苦手だから、精神科の医者でも探して薬を貰おう。たしか、日本人にもマ
ナセという名医がいると聞いている。
 ラッキーは壁に視線をじっ、と張り付かせたまま、ぶつぶつと独り言を発している。
「おいおい、ラッキーさん。気を確かに持ってくれよ。これでも食べてさ」
 両虎は怖くなって、手を震わせながら、ラッキーに金つばを差し出した。
「両虎サン…」
 ラッキー、我に返る。
「堺の会合衆、つまり商人組合の幹部からの差し入れさ。合戦観戦が趣味なんだろうな。
富豪だけあって、沢山届けてきたんだ。だから遠慮はいらないぜ」
 ラッキーが金つばを頬張っていると、ぴょんぴょん、と階段を登って来る音が聞こえた。
「ラッキーさん、元気かい!」
 脱兎が部屋に跳び込んできた。そして、ラッキーと両虎を探るように、何かを観察する
ように、目をクリクリとさせて見回わした。
「やぁ、大丈夫そうだね。じゃオイラはこれで…」
 脱兎がひらりと回れ右をする。
「ちょっと、脱兎サン。どうかしたのデスか」
「うぅん、大将がね。堺の商人は次の対戦相手の松永氏と手を結んでいるから、差し入れ
には毒が盛られているかも知れないって…。で、でも何もなさそうだねっ!」
 ラッキーは、シヨックで前の光景がモノクロになるのを感じた。いや、これはひょっと
して毒の作用…?
「オォ、日本は毒ばかりデスか。私、もう踊ったり、脱いだりしませんデスよ…」
 ラッキーの記憶が霞んできた。このまま忌まわしい逆賊事件を忘れられれば、という思
いを最後に、ラッキーは倒れ込んだ。
「ラッキーさん!あぁ、倒れちゃったよ。どうしようか、両虎?」
 脱兎は、ラッキーの顔に鼻を近付けて、診断するようにヒクヒクさせている。
「うぉおっ、何を呑気なことを言ってやがる。俺だって、毒を食ったんだぜ…。」
 両虎は、畳に爪をたてて、必死の形相で毒に抵抗している。
「俺ぁ、『関ヶ原』にいって人気者になることに決めてるのに、こんなとこで死んでたま
るか…」
 両虎の指が、力を失った。
「大丈夫だよ、死にいたる毒薬は禁止されているから、盛られてもせいぜい一ヶ月寝込む
程度のものだって。雪待が言ってた」
 脱兎は、二人に布団を掛けてやった。
「おやすみっ。試合の日までには起きてよ!」 

     (2)
 一の谷氏が合戦日までの間の宿泊に借りた一軒家の茶室で、望羊と、壮年の身なりの整っ
た男が、対面している。
 男は曲直瀬道三と名乗った。その前に座っている望羊は、珍しくきっちりと正座をして
いる。
「あなたが、かの有名な医師にして茶道家の曲直瀬殿でしたか。わざわざ陣中見舞いにい
らして頂き、光栄です」
 文化人に弱い望羊は、緊張しながら、尻がむずがゆくなるような喜びを感じていた。
『関ヶ原』に出場した役得ですね、などと考えながら。
「さて、一の谷殿の次の御試合は、〈堺合戦場〉で松永弾正殿とですな。二合戦連続の市
街戦になりますな」
 曲直瀬がゆったり話す。相手の望羊はかなり若いのだが、それなりに敬語を使ってくれ
ている。
「はっ、しかし前回は市街戦にはなりませんでした…」
「そうでしたな。たしか、足利将軍様を騙し討ちにされたとか…、おっと、これは失礼」
「いや、まったく将軍家が相手では、勝ってもいささか後味が悪いものです」
 望羊が頭をなでながら答える。その顔は、有名人と話せる感動を隠しきれず、にやけて
いる。
「その件で、ここ堺の街でも会合衆を中心に、一の谷氏に協力しない署名運動が起こって
おりますが」
 曲直瀬は望羊の用意した茶碗を、角度をいろいろ変えながら眺めている。
「それは承知しております。この家にも剃刀などが送られてきまして」
 望羊が、目を光らせる。
「大変重宝しています。さすが堺、刃物も質が良い…」
「ところで」
 曲直瀬はやんわりと望羊の話しを遮った。
「せっかく、堺で合戦をなさるお武家様にお会いできたのです。実は、つまらぬ物ですが、
陣中見舞いなぞをお持ちいたしましてな」
 望羊が期待を込めて見ていると、曲直瀬は持参した風呂敷の包みを解いて、透明な壺を
取り出した。
「南蛮の壺ですね。中に入っているのは丸薬ですか」
「その通り。ただし、器は南蛮でも、中身は越後です。『毒消丸』といって、漢方薬の一
種ですな」
 曲直瀬は壺を望羊の前に押しだした。
「解毒剤ですか?」
 望羊は壺を受けとると、代わりに茶を曲直瀬の膝元に差し出した。
「ご明察です。ははっ、名前の通りですが。今度対戦される松永家の大名、弾正殿はよく
毒を使いますからな。予防にもなりますので、皆さんお飲みになっていた方が宜しいかと
存じます」
 曲直瀬は茶を啜った時、微妙に顔をしかめた。
「これはこれは、貴重なもの頂き、感謝いたします。さすがは茶道の達人でいらっしゃい
ますね。素晴らしいお心遣いです。必ず武将たちに分け与えて、服用させます」
「いや、なんの。では私はこれにて」
 曲直瀬は立ち上がった。瞬間、望羊には見えないように、にやりと笑った。
「茶の湯の方は、もう少し励まれた方がよろしいかと…」
「はっ、茶道と医学の達人、曲直瀬殿から両方のご忠告を頂き、恐縮です」
 見送る望羊は、ひたすら感激していた風であった。
 が、曲直瀬が角を曲り見えなくなると、突然、我慢できなくなったかのように哄笑した。
家の中に声を掛ける。
「ねぇ雪待、これでいいんですよね」
 返事はない。
「おや、まだ京で遊郭に行ったことを怒っているのかな…」

 堺の町は、戦国時代の後期に、一時衰退はしたものの、平和の世になってからは、京と
大坂という、大消費かつ大商業地帯を支える、港湾都市としてその息を吹き返していた。
今では、最盛期を凌ぐ勢いを示している。
 そして、堺は幾人かの豪商に治められている都市でもあった。日本中の何割かの富がこ
の堺を通過し、その過程でかなりの額がそれらの商人の懐に入る。
「この日本の流通、消費を担っているのは私ども商人で御座います。それを、目の敵にし
て、堺を合戦場に指定するとは、幕府も企むものですな…」
 ここは、その堺の豪商の一人、今井宗久の屋敷である。ここに、会合衆を中心として主
だった商人が集まっていた。その中に大名が一人だけいる。名は松永久秀、普段は官位名
で弾正様と呼ばれている。
 弾正は幕府を非難しようとした宗久を、微笑みながら遮った。
「これは、幕府にとって潜在的な脅威である、豊臣方の大坂城の勢力を、少しでも殺ごう
という考えでしょう。この堺は、豊臣氏にとっても、重要な収入源ですからな」
 ここで、弾正は、閉じた扇子で自分の胸をポン、と一つ叩いた。
「しかしまあ、この弾正にお任せ下され。決して堺の町を傷付けたりせんですよ」
 だが、商人たちは不安そうに互いに顔を見合わせる。
「まあ、いつもお世話になってます弾正様ですが…」
「ほんまに、前回の『関ヶ原』の時に、〈奈良合戦場〉でやったみたいなことはないです
やろなぁ。ほら、町を焼いて大仏様のお首を落としはったでっしゃろ…」
「それに、今回は足利将軍様をお見捨てになって、独立して出場なさって…」
「二回戦では昔の主家の三好様に対し、畏れ多いから降参すると偽って、毒を盛るは、油
断しているところを騙し討ちにするはの暗躍をされたそうですなぁ。謀反の弾正様と呼ば
れておいでで…」
 弾正は、彼らが述べた『謀反』という言葉から、自分が非難されているとは感じられな
かった。むしろ彼には、褒められているように思えるのだ。
「謀反には」
 弾正は批判を続ける商人たちを生気あふれる声で黙らせた。
「それ自体を美学とするための掟がござる」
「掟、でっか?」
 豪商の一人である天王寺屋が問う。
「将軍家も三好氏も、この弾正と同じく『関ヶ原』を目指す武家。武家が武家に対して謀
反を行うは、れっきとした美しき武略で御座る。しかしながら、皆様は商人。武家が商人
を裏切っては、美学にはなりません」
 こほん、と咳払いを一つ。
「よって、この弾正、堺の皆様を騙したりはいたしません」
 弾正は堺の豪商の怖さも知っている。
「そやけど別に謀反せんでも、主家を盛り立てて、共に戦いはった方が、『関ヶ原』でも
戦力として有利やと思いますが…」
「それはですな、」
 弾正は子供のように遠慮なく笑顔すると、急に大坂弁になった。
「ずうっと、誰にも支配されん自由を手に入れるんが、この弾正の夢やったからですわ!」
 叫んだ後、照れ腐そうに頭を掻いている弾正を見やって、意外と単純な男かも知れん、
と今井宗久は考えた。この男に堺の運命を託して良かったのだろうか…。

 菅原神社前に構えた本陣に戻った弾正は、一の谷氏にまんまとしてやられたことを知っ
た。目の前の、茶器を頭に乗せて踊り狂っている男が、その証拠だ。
「けはっ、弾正様、面目御座いません、けははっ!。出された茶が、変な味がしたのです
が、まさか笑い茸の成分が入っていたとは、けははは…」
 一の谷氏に派遣した、医者の曲直瀬であった。
「なんと。武将にあらざる者に対して策略を仕掛けるは、美学のない大名かな」
 実は自分も医者を使って謀略を仕込ませたのだが、それは全く棚上げにして、弾正は叫
んだ。
「それにしても、日本一の名医である曲直瀬にも解毒できない毒の使い手が、一の谷氏に
いるとはな。手は抜けんようだ」
 ふむ、と考えてから、弾正は傍らの近習に命じた。
「将軍様を卑劣な手段で討った、逆賊一の谷氏の名誉を失墜させるための宣伝策を、さら
に念入りにせよ」
 陰謀を多用したとはいえ、前回の戦の対古豪三好戦では、かなりの兵を消耗してしまっ
た。その分の補充は対一の谷戦には間に合わない。まともに戦えば一の谷氏が勝つだろう。
ここは得意の策略で敵の力を殺ぐ事が肝要だ。

 その頃、一の谷氏の宿舎では、望羊と雪待が、名医曲直瀬から贈られた丸薬「毒消丸」
が本物か、手に取って調べていた。
「曲直瀬さんが弾正と組んでいるなら、やめた方がいいわ。幕府の令で死に至る毒は禁止
されているから、恐らくは合戦日あたりに効果が最大となる遅効性の麻痺薬でしょう」
「じゃあ、実験しますか」
 望羊は、毒饅頭を食って、隣の部屋で悶絶している両虎とラッキーに、つつっと近付く
と、その口をこじ開け、「毒消丸」を水で流し込んだ。ラッキーは声を出せないまま、心
の中で絶叫に近い悲鳴を上げた…。

 合戦当日、晴れ渡って風の強い、ここ〈堺合戦場〉は、普段の堺の人口の倍の五万の観
衆で膨れ上がっていた。
「それでは、『毒消丸』は効かなかったと申すか」
 弾正が、落ち着かなく曲直瀬に尋ねた。
「はい。ただ付近の犬猫がバタバタと倒れているのですが…」
 弾正は負けを悟った。悪評のために精神病になった武将もいないらしい。厚顔無恥な奴
らめが! 天下一の謀反人のこの弾正が、逆賊一の谷ごときに不覚をとるとは…。
「でも、この弾正は新しい謀反をやめへんのや! 次の『関ヶ原』で復活したる。待っと
れよ!」
 弾正は、大きく空に吠えた。

 ラッキーはピンピンしていた。両虎も、力が漲っている。「毒消丸」を飲んだら、偶然、
毒どうしが打ち消し合って、急に体調が回復したのである。
「毒をもって毒を制す、ですよ」
 望羊は、結果良ければ全て良しで、したり顔である。
「さあ、火牛は炎の太刀で、脱兎の弓隊は火矢で、じゃんじゃん火攻めですよ!」
「堺の街と港が焼ければ、神戸港の荷の扱いが増えるという訳ね。留守番の先代様も喜び
ますわ。あなたにしては珍しい親孝行ね」
 隣りで雪待が、穏やかな面に微笑を広げた。
 ラッキーは、堺の商人に心底、同情した。

《対松永戦、焼き討ち一本で一の谷氏暴勝》