ハウスセンゴク
第三章 ドリームドラッグで見る夢は?

 敵の夜襲を告げる見張り兵の声が響きわたると、突如、あたりは漆黒の闇に包まれた。
砦の守将、佐久間議員が驚愕の叫びをあげ、そのそばで僕もすっかり狼狽している。
 そのとき、心を安らげてくれる感触をもつやわらかい手が、僕の腕をぎゅっと掴んだ。
「落ち着いて、高牙君!」
 僕の顔を強く引き寄せて、内侍さんが耳にささやく。
 僕は我ながらみっともないが、停電だ停電だと、うわ言のように叫び続けていた。現代
人は暗闇には弱いのだ、と心の中で弁解をしながら。
「いいえ、停電じゃないわ。意図的に照明がおとされたのよ。史実では、この丸根砦が攻
められたのは真夜中。今の状態のほうが正しいのよ」
 では、これまで砦が薄明るかったのは、状況を参加者に理解させるための、『ノブナガ
劇場』の演出だったのか。
 しかし、これほど真っ暗では何もできやしない。せめて天空の月と星くらい残してくれ
ていてもよさそうなものだが、それらもすっかり消えてしまった。まるで厚い雲に隠され
たかのように。
「完全に視力を奪ったほうが、参加者の恐怖感をかきたてるからじゃないかしら。でも、
これは消防法違反ね」
 僕は、こんな状態でも冷静な内侍さんを、改めて尊敬した。彼女は、僕を抱くようして
守ってくれている。
 心が静まって、夢見心地になってきた。そしてうっとりとして内侍さんを見上げたとき、
僕の瞳に深紅の光球が映った。空を飛ぶその紅は、急速に接近し拡大する。
 危ない!
 内侍さんを力まかせに引き倒した刹那、紅の光りの矢は僕たちの頭上を越え、三メート
ルほど後ろに立っていた兵士の喉を直撃した。
「火矢?」
 地面に転がった内侍さんと僕は、首をそっとあげた。矢に喉を貫かれてもんどりうって
倒れた味方兵の体がすぐそばに横たわっているのが、闇の中でもかすかに認識できる。N
PCだった。即死と判定されたのか、ピクリとも動かない。
 今では、この暗黒の空間に、無数の真紅の火矢が乱舞している。立ち上がれば、たちま
ち矢に当たりそうだ。
 怖い! リアルなのかどうかは、実際の合戦を知らないのでなんとも言えないが、この
恐怖は本物だ。足がすくみ、呼吸が荒くなる。
「アリガトッ、助かったわ。でもこの合戦シーン、想像以上に凄まじい演出ね。佐久間議
員が恐れていたわけが、私にもやっと理解できたわ」
 興奮を宿した内侍さんの眼が、僕の顔からわずか十センチほど先で輝いている。僕は、
このままずっと、内侍さんの瞳を眺めながら、突っ伏していたいと思った。
「いつまでも、こうしてはいられないわね。応戦しなきゃ、史実どうり今川軍にやられて
しまうわ」
 僕の願いは、まったく無視されたようだ。内侍さんはかがんだ姿勢をとると、そのまま
上体を起こしきらずに、慎重に火矢の飛んできた方向へと移動を開始した。
 しかたがないと、内侍さんに遅れないように匍匐前進を始めようとした僕の腰に突然、
劇痛がはしった、ぎやっ!
「それ、かかれっ! 怯むな、敵は少勢ぞ!」
 砦を守っている味方の兵が、敵を迎撃するために僕を踏んづけて駆けていったのだ。さ
らに、後から後から、守備兵が走ってくる地響きが聞こえてくる。踏み潰されてはかなわ
ないので、僕はあわてて立ち上がり、逃げた。実際、さきほどのNPC兵は、ひどく重量
があったのだ。
 僕は暗闇の中で、内侍さんとはぐれてしまっていた。前方では、すでに敵味方が入り乱
れた白兵戦がおこなわれているようだ。槍や刀が発する光線が直線や円を描いて、空間に
踊っている。よく観察すると、その光の色は敵味方によって違うことが分かった。味方の
光線武器は水色の刃、敵の光線武器は緑色の刃なのである。おそらくこれらはNPC兵が
もつ槍であろう。少数だがその他の色が闇に輝く瞬間があるが、これは人間、つまり『ノ
ブナガ劇場』の参加者がもちこんだ武器らしい。
 そうだ! このとき僕の脳裏に、内侍さんの薙刀の光彩が浮かび上がった。それは、妖
しい紫の輝きではなかったか。ならば、紫の光を探せば、内侍さんと合流することができ
るだろう。
 僕は、戦場に一人残されて、迷子になった子供のように、不安でならなかった。しかも、
いつ矢が飛んでくるか、いつ槍が襲ってくるかわからない。
 砦をめぐる激闘は延々と続いており、一進一退の戦況だ。味方は寡勢にもかかわらず、
ときには反撃に成功して敵を押し返したりもしている。おそらく冒険好きの内侍さんは、
最前線で薙刀を振り回していることだろう。どうしよう、僕も征くしかないのか…。
〈こんなことで、びびってるの?〉
 そのとき、焦燥に陥っていた僕の心に、またもや内侍さんの声が響いた。その声は、瞬
時に僕の眠っていた闘争心を発火させ、両腕に力をみなぎらせる。
 そうだ、僕はハウスセンゴクを制覇にきたんだ、内侍さんと一緒に戦うんだ! こんな
ところで、怯えているなんて、アパ研メンバーの名折れじゃないか!
 征くよ、内侍さん!
 僕は、走った。狂ったように槍を突きだしながら、しゃにむに走った。目指すは砦を襲
う敵兵の渦の中、内侍さんの薙刀が放つ紫の光輝! いけ、進め、高牙よと、僕はとりつ
かれたように念じながら、槍をしごき、ひたすらに走った…。

 無数の槍がさまざまな色の光で暗闇を照らし、明滅し、そこはまるでディスコのようだっ
た。ただし、踊っているのはおしゃれな現代の若者ではなく、荒っぽい戦国の武者たちだ。
 そして、その踊りの輪の中に、内侍さんも加わっていた。凄まじい闘いぶりで、ひとき
わ目立つダンスを演じている。豪快に薙刀を打ちおろしたり、突きだしたりするたびに、
敵の今川兵が絶叫とともに、どうと崩れる。確実に致命傷を与えているようだ。他の兵た
ちは相手を倒すのに、三太刀七太刀と懸命に振るっているのに、内侍さんの一撃を受けた
敵兵NPCは、それっきり動かなくなる。
「やっ、高牙君もきたのね。気持ちいいわよ、早く一緒に闘いましょうよ!」
 内侍さんも僕に気付いた。そして、二人がかりで襲ってきた敵兵の首の部分を、すばや
く紫の光線で薙ぎ払いながら、大声で呼びかけてくれる。内侍さんに打ち首にされたNP
Cのうち一体は、くるくると回転しながら、僕のほうによたよたと漂ってきた。その不自
然な動きに原始的な嫌悪感を覚えた僕は、夢中で光線槍を突きだしていた。槍の天色の穂
に貫かれ、NPCは僕の足元に肩から落ちていった。
「その調子よ、高牙君! でもその兵は、私がすでに殺してたから、ポイントは無しね。
今のは、死体に鞭を打ったようなものだわ」
 内侍さんが、ここを見てみろというように、自分の武器の握りの部分を、指し示した。
僕も自分の手元を探すと、たしかに槍の柄にはデジタルのカウンターで00という数字が
浮かびあがっている。いままで気がつかなかったが、超薄型液晶表示装置が埋め込まれて
いたのだ。
「私のカウンターは、もう12になっているわよ。この光線薙刀は、いくら使っても刃こ
ぼれしないから、助かるわぁ」
 さすがアパ研歴三年目、射撃ゲームの腕ではサークルで一番の内侍さんのことだけはあ
る。敵の動きに対する反応速度が、他の参加者よりも格段に優れている。
〈もう駄目だ。疲れたよ〉
〈信長軍が勝つはずじゃなかったのか?〉
〈うぎゃ! やられた…〉
 しかし、味方で活躍しているのは、内侍さんの他は、NPCのうち強そうなものだけだ。
この、陥落する運命にある丸根砦に不幸にして配置された参加者の士気は、めりめりと下
がり始めている。いくら政財界の大物だといっても、戦には関係ない。しかも高齢者が多
いので、そろそろ体力的には限界なのだろう。それに対して、全員NPCで構成されてい
る敵方は疲れをしらず、多勢でもってひたすらに攻め込んでくる。僕も死ぬ気になって、
槍を振るって防ごうとしたが、武器の扱いに慣れていないので、敵の攻撃をかわすので精
一杯だった…。

 もう、どれほど戦いは続いたのだろう。槍は軽い素材で作られているとはいえ、それを
休みなく突きだし繰りだししている僕の腕は、とっくに痺れてしまっている。
 序々に押され気味になっていた味方は、ついに柵が突破されると同時に、総崩れとなっ
た。四方に敵を受けた内侍さんが、さすがに肩で息をしながらも、懸命に活路を開こうと
しているのが見える。助けにいきたくても、敵兵に遮られて、接近さえできない。
「あかん、もうしまいやぁ…」
 砦の大将の佐久間議員が、背と向けて逃げようとするのが目に映った。味方を見捨てる
とはなんということだ! しかし、撤退を決心するのが遅かったようだ。佐久間議員は、
たちまち敵NPCに取り囲まれ、全身に光線槍を浴びた。
「あかん、痛いがなぁっ! 織田のアホンだらぁっ…!」
 佐久間議員は、大阪弁の断末魔とともに、よろめき、倒れた。これを見た敵方NPC兵
が喚声をあげる。
 ついに、敗れたか。僕は、精神力が抜け落ちるのを感じた。

 こうして、丸根砦は陥落した。攻防はすで掃討戦に移り、残兵狩りがおこなわれている。
守備方で残っているのは、もはや十名にも満たないだろう。内侍さんと僕も、砦の片隅に
追い詰められてしまった。今にも襲いこようと槍を構えている敵兵に、十重二十重に包囲
されている。
「もはやこれまで、ってところね。せっかく、討ち取りカウンターが27までいったのに。
惜しいわ。高牙君は、何ポイント稼いだの?」
 内侍さんにいわれて、槍の柄を見ると、デジタルで08という数字が表示されていた。
戦いに夢中で気にしなかったが、僕もいつのまにか八人もの敵を討っていたのだ。
 じりじりと敵は包囲を縮める。それでも敵兵は、僕たちの活躍を見て恐れているのか、
なかなか襲いかかってはこない。それぞれのNPC兵は、命を惜しんでいるようで、これ
またリアルだと思った。
「なにをやっとるんだ。早く止めをさせい! ロボットのくせに、まったく勇気のない奴
らだな」
 そのとき、包囲の輪を掻き分けて、悠然と敵の大将らしき人物が現れた。驚いたことに、
NPCではなく、本物の人間だ。ただし、甲冑は立派なものを着けて、きちんと戦国合戦
の扮装をしている。
「こっ、虎威先生じゃないですか、どうしてここにいるのですかっ!」
 内侍さんが、珍しくすっとんきょうな声をあげた。虎威先生だって! ハウスセンゴク
の学芸顧問の虎威先生なのか?
「ほぅ! なんと、武神教授のとこの元気な学生じゃないか。君らが紛れ込んでおったと
はな」
 虎威教授は、ふふんと笑った。勝者が特権としてもつ、敗者を見下すような笑みだ。
「この砦のシーンで、一般参加者がここまで生き残るのは珍しいと感心していたのだが、
君らならさもありなんだな。だが、私は今、今川軍の武将役を引き受けているのでね。惜
しいが死んでいただこう」
 処刑宣告がくだった! だのに、僕の頭には、なぜ虎威先生が敵の武将を演じているの
だろうという、どうでもいいような疑問が浮かんでいた。すぐには殺される覚悟がつかな
かった僕は、時間稼ぎにそれを口にしてみた。
「私が誰か分からんかな、ふふん。われこそは松平元康、後の徳川家康であるぞ。このと
きは今川義元に臣従していたのだよ。家康ほどの大役を、この『ノブナガ劇場』でNPC
にやらせるわけにはいかんだろう。あっ、何をする!」
 満足気な虎威先生が、自己紹介に熱中して油断したスキをついて、突如、内侍さんが動
いた! 迅撃でもって、敵兵二人を、薙刀で立て続けに斬ったのだ。
「人が話をしているときに、なにをするのかっ!」
「私たちを見逃してはいただけませんか。まだ遊びたりないわ!」
「だまれっ! 虎威教授のとこの学生に、今日ハウスセンゴクをうろうろされては困るの
だよ。斬れっ、斬れっ!」
 怒り狂った虎威先生家康が、采配を振るった瞬間、思わず僕は目を堅く閉じてしまった。
どんな苦痛に見舞われるのだろうか。内侍さんの前で、失禁だけはしたくはない。もしも
そんなみっともないことになれば、『ノブナガ劇場』を出た後も生涯忘れることのできな
い、不覚になるであろう。
 だが、衝撃はなかなか襲ってこなかった。ひょっとしたら、一瞬で僕は失神していて、
すでに夢の中にいるのではないか?
 僕は、そろっと目を開けてみた。まだ、今川軍の兵がいた。槍を構えている。だが、彼
らはそろって僕らに背を見せ、まったく反対方向を向いているではないか。
 なぜだ? 敵兵の視線を追うと、包囲網の最も外側で、しきりと黄色と緑の光線が輝き、
暁の空で交錯しているのが見える。緑は今川兵の標準装備の光線槍だが、では、黄色はど
この軍勢だろうか。
「どりゃ、どりゃぁい! へへっ、さすがに俺の虎徹は良く斬れるぜい!」
 なんと、山吹先輩じゃないか、僕たちを助けにきてくれたんだ。見る間に五、六人の敵
兵を、ばさばさと、斬り倒し、突き殺している。まさに鬼神のごとき狂暴兵だ。
「なにをぼんやりしてるの。高牙君、このスキに逃げるわよ」
 魂が抜けたように山吹先輩の殺戮ぶりを眺めていた僕の腕を掴むと、内侍さんも戦闘を
再開した。背を向けているNPCに、情け容赦なく斬りつける。僕も自分の頬を叩いて気
合いをいれると、敵に向けて槍を繰出した。たちまちのうちに、僕たちは二桁にのぼるN
PCをブチ倒し、血路を開いた。
「さぁ、脱出するわよ! 高牙君、先に進んで前方の敵を掃除してね。私は殿を引き受け
るから」
 よし来た! 僕は山吹先輩を見習って、猛然と、荒れ狂うような突撃を敢行した。NP
Cは、僕のあまりに激しい勢いを受け止めきれず、瞬時に四散する。
「すごいわ! 槍の扱いに慣れてきたじゃないの。これで高牙君も立派な武将ね!」
 僕は爽快な気分になって、疲れも忘れていた。振り返ると、内侍さんも散々に敵を薙ぎ
払っている。さすが内侍さんだな、と感じた僕の目にふと、二十メートルほど離れたとこ
ろにいる虎威先生の姿が映った。この『ノブナガ劇場』の家康殿は、なにか見慣れない兵
器をいじくっている。
 僕は不審に思いながらも、新たに討ちかかってきた敵の槍兵に対処するため、家康から
目をそらした。そして、相手にとどめをさして再び視線を転じた僕の目に映ったのは、家
康が鉄砲を構えている姿だった。
 銃口が狙っているのは、僕ではない。乱戦を楽しんでいる山吹先輩ははるか彼方だ。と、
すると…!
 内侍さん、危ない! 伏せてっ!
 乾いた音が、砦にこだまする。鉄砲の銃口が一瞬、ぱっと赤く光ったのが見えた。鮮や
かな赤い弾光は、直径二センチ弱の彗星の尾を引いて空を切ると、吸い込まれるようにそ
の目標に命中した。
 内侍さんの額が真紅に輝き、それは頭を包み込むように広がったが、すぐに拡散して消
えてしまった。彼女の頬がきゅっと歪んだように見えた。膝の力がすっと抜けて、かくっ
と砕ける。そして、前のめりに倒れると、それっきりになった。
「ふふん、私の実験の邪魔をするからこうなるのだ。精神に与える衝撃を一度ですまして
やったことは、感謝してもらいたいものだな」
 虎威先生、いや、家康がゆったりともったいぶった歩調で、内侍さんに近付く。獲物を
一発で仕留めたことに満足した様子で、顔に喜色を浮かべている。
 僕は、熱い怒気が身体を貫くのを感じた。理性が消失するのを、止めるものはない。こ
こがハウスセンゴクの中の『ノブナガ劇場』、アミューズメント施設だということも忘れ
てしまっていた。
 家康、許さん!
 失神した内侍さんを覗き込んでいた家康に、僕は疾駆した。そして、無防備な家康の胸
を狙って、天色の槍の穂を、渾身の力で突き立てようとした。
 ずんっ! という音が、鳴った。すぐには何の音だか、分からなかった。からん、と小
さく響いて、僕の槍が地面に転がる。右腕が痺れている。
 予期せぬ衝撃によって、心に満ちていた怒りから覚めた僕は、眼前で家康が鉄砲を構え
ているのを知った。その銃口が、かすかにクリアな朱色を帯びて、さきほどまで僕の右腕
があった空間を狙っている。錯覚か、硝煙の匂いがしたような気がした。
「馬鹿めが。私はこの『ノブナガ劇場』の設計もしている、いうなれば神の存在だ。戦国
時代という設定を無視して、連発銃を用意することくらい、わけもないのだよ」
 我に返った僕の足元に、内侍さんの体が転がっている。その右手には、倒れてもなお薙
刀が握られていた。
「気絶しているだけだ。生命に別条はないから心配するな。だから心配せずに、君も後を
追ってくれたまえ、ふふ」
 不敵に笑って、家康は銃口を僕に向けた。火縄銃をかたどってはいるが、火縄も鉄砲玉
もいらず、引き金を引くだけで僕に致命傷を与えることができる。戦国時代の武器で戦っ
ている僕にとっては、逃れる術のない悪魔の兵器である。僕は怯えに襲われ、足がすくん
でしまった。
 だが、家康は無慈悲にも、躊躇なく引き金を引いた。射撃音が耳に届いたとき、ゲーム
オーバーだなと、僕は虚ろに感じていた。頬に、地面の冷たい感触が伝わる。意外と痛み
を覚えなかったのが、救いだった…。

「ふふん、片付いたか。まぁ、悪く思わんでくれよ。これから私は、心血を注いで研究し、
ついに開発に成功をした薬の、実験をせねばならんのだ。武神教授の反対でハウスセンゴ
クには採用されなかったが、これしきで諦められん! なにしろ、我が人生の全てを、こ
れに賭けてきたのだからな」
 はるか上方から、興奮し、うわずった調子の独り言が聞こえてくる。これは夢なのだろ
うか。僕は失神しているはずなのだが。
 この声は家康役の虎威先生ではないか。薬の実験だって? くそっ、頭の中が朦朧とし
ていて、まともな思考ができない。
「この機会を逃してたまるか。ハウスセンゴクがテレビ中継されている今日こそ、絶好の
チャンスだ。この『ドリームドラッグ』の素晴らしさを全国に宣伝し、日の目をみさせて
やるのだ!」
 『ドリームドラッグ』、武神教授の反対で採用が見送られた危険な薬を、虎威先生は使
うというのか。絶対に止めなければ、と意識が警告を発するが、脳の大半が眠っているの
で、僕は縛られたように身動きができないでいる。歯がゆい。歯がゆいが、夢の中では、
誰でもが無力だ。
「おっと、そろそろ『ノブナガ劇場』の前半の山場、桶狭間で信長が今川義元を強襲する
シーンだな。ちょうど良いわ。ほら、皆んな素敵な夢を見てくれよ」
 ガラスビンの蓋を取る、キュッという音がしたかと思うと、しだいに空気の匂いが変わ
るのに気がついた。素敵な夢? 僕はすでに夢の中にいるさ。夢の中で夢を見る、か。そ
れもまた、面白いかもしれないな。
 いや、いけない! 『ドリームドラッグ』を吸ったら、僕は完全に戦国時代にマインド
トリップしてしまう。安眠している場合じゃないよ。飛び起きて虎威先生を叩き斬ってや
ろうかと思うが、指先にさえ力が入らない。 このまま虎威先生の被験者の一人になるの
か…。
「私の『ドリームドラッグ』は、きっとアミューズメント界で絶賛されるに違いない! 
なにしろ、夢ほど本人にとってリアルなものはないからな…」
 内侍さん、助けてよ。あぁ、そうだ、内侍さんは家康にやられて戦死したのだった。
 そのとき、唐突に家康に対する憎しみが、僕の脳の血管を走り、渦巻いた。
 家康め、許さん! 許さん、許さん…。
 僕は、自分から遊離しようとする意識の中で、ひたすらに内侍さんのかたき討ちを誓っ
ていた…。

 僕は、ひんやりとした大地に横たわっている。なんて気持ちがいいんだ。このままずっ
と寝ていたい、起き上がりたくない、戦はもう嫌だ、という本能的な感情が僕の全身を支
配している。
「ほらっ、いつまで死んだふりをしているつもりだ。早く起きろ! ぐずぐずするな、決
戦の時は近いぞ!」
 僕は突然、腹を蹴り飛ばされ、吐き気を覚えた。痛みではっきりと目が覚める。意識も
序々に戻ってきた。
 そうだ、僕は織田氏の砦を守っていたのだが、襲来してきた今川軍との激闘の末、鉄砲
で撃たれたのだった。死ななかったのか?
「何をきょとんと寝ボケてるんだ! 鉄砲で狙われただけでびびって気絶しやがって。まぁ、
そのお陰で、鉄砲玉には当たらずに済んだし、撃った野郎は仕留めたものと勘違いして行っ
てしまったし。命拾いしたな、高牙」
 織田軍の猛将、山吹先輩は、一部始終を見ていたようだ。僕は、自分の身に何が起こっ
たのかを、ようやく理解した。
「もう昼になる。早く征かないと、信長公と今川義元の決戦に間に合わないぞ。もしそん
なことになれば、俺の武士としての面目が丸潰れだぜ!」
 山吹先輩にせっつかれて、愛用の槍を拾い直し、駆け出そうとした僕の頬に、このとき
雨粒が落ちて来た。見上げると、かなりの速さで接近してきた暗く厚い雲が、天空をすっ
ぽりと覆おうとしている。
「高牙! もたもたしているから、雨になっちまったじゃねぇかよ。まったくツイていな
いぜ。雨の日の戦ほど辛いものはないからな。あぁ、しょうがないか。征くぞっ!」
 山吹先輩は、文句を言いながら馬に飛び乗り、駆けて行ってしまった。僕の馬は、とあ
たりを見回すと、果たしてそばの樹の下で赤馬が待っていてくれた。その背に苦労してよ
じのぼると、僕も山吹先輩を追って、疾駆した。
 目指すは、桶狭間、狙うは家康の首、ただ一つ!
 おや、桶狭間だから敵は今川義元だろうに。どうして家康だなどと思ったのだろう。失
神した後遺症で、思考が混乱しているのか。頭がガンガンと痛み、その響きが銃声を連想
させる。
 銃声? そうだ、家康だ! 内侍さんを撃った家康に対する憎しみが沸きあがってきた。
家康、そして虎威先生! もうすこしで『ドリームドラッグ』の効果に脳が支配されると
ころだった。家康を討つ、という強い執念が防壁となり、薬は僕を冒すことができなかっ
たようだ。
 雨は本降りとなった。びしょびしょに濡れながら、愛馬はひた走る。その背に揺られる
僕は、冷静さをとり戻すとともに少し不安になっていた。いったいこの世界で、『ドリー
ムドラッグ』の影響を受けなかった人は、いるのだろうかと…。

 豪雨をもたらした雲は、ようやく去った。
 僕が桶狭間に到着すると、その雨あがりのぬかるみの中では、桶狭間決戦が今まさに頂
点を迎えようとしていた。双方の軍の大将、織田信長と今川義元が睨みあっている。信長
は『ノブナガ劇場』に入った時に会った織田議員だ。そして義元の方だが、テレビのニュー
ス番組で見たことのある顔だ。そうだ、毒舌で有名な政治評論家ではないか。
 しかしこの状況、桶狭間の戦いにしては、何かがおかしいぞ。
「ほほほ、でかしたぞ、馬耳よ。そなたの申した通りのルートで、信長めは奇襲をかけて
きよったわ」
「かたじけなきお言葉でござりまする。では早速、罠にはまった信長をひっ捕らえましょ
うぞ」
 輿の中から、公家風に化粧をした顔を出している評論家は、自分は今川義元だと信じ込
んでいる。その義元と話をしているのは、驚くべきことに馬耳さんではないか。二人は腹
の底から愉快そうに、信長を嘲笑している。
 はて、歴史上ではこのようなシーンはなかった筈だ。どうなっているのだ?
「おのれ、馬耳とやら。お前は織田軍の兵士のはずだろうが。どうしても私の元で戦働き
をしたいと、頼みこんできおったくせに。この裏切り者め!」
 どうやら馬耳さんが、今川義元に信長の奇襲作戦を密告したようだ。有名評論家が指揮
する今川氏の兵隊に包囲された織田議員は、顔を真っ赤にして吠えている。
「これも武略なり! 武士は主君を選ぶものでござる」
 馬耳さんが、舌を出してへらへら笑っている。信長は怒りで狂乱状態だ。
「おーのれ、おのれ! 許さぬ…」
 ここにいる全員が、『ドリームドラッグ』の影響を受けていることは、間違いないだろ
う。ハウスセンゴク用に特訓をつんだ馬耳さんはともかくとしても、織田議員や有名評論
家もが真剣に戦国風の言葉使いになっている。なんだか妙な感じだ。
「ほほほ、裏切りこそ戦国の世のならいよ。覚悟するがよい」
「義元公の申される通り。それがしも、一度でよいから、裏切りを体験したかったのでご
ざるよ」
 織田議員は、激怒してわめきまくっている。ずいぶん覚悟のない、みっともない姿だ。
これでは戦に負けて当然だ、と僕が思った瞬間、驚くべきことが起きた。黄金の光りが迅
雷の勢いでこの光景に割り込んだのだ。
 あれは、山吹先輩だ! しかもすでに狂暴兵と化している。黄金の輝きを放つ太刀で、
油断していた馬耳さんを、瞬時に一刀両断にしてのけた。
「む、無念でござる…」
 沈んだ馬耳さんの体を乗り越えて、山吹先輩が今川義元の輿に迫る。死神への恐怖に引
きつる、今川義元役の毒舌評論家の顔!
 だが、そこまでだった。ババンッ!という乾いた音が桶狭間に響いた。鉄砲隊だ!
 山吹さんは鬼のような形相をして、のけ反って崩れ落ちた。倒れながらも、今川義元の
首根っこをしっかりと掴んでいる。このため、義元は輿から引き摺り出され、地面に不様
に転がった。転げながらも、危機を脱した安堵の表情が浮かんでいる。
 だが、これで終りではなかった。鉄砲の音を聞いたとき、僕の感情の底から、果てしな
い怒りが突きあがってきたのだ。
 僕は、夢中で馬を駆り、山吹先輩を撃った鉄砲隊の兵の首を全て、槍の一振りで薙ぎ払っ
た。そして次の瞬間には、またもや恐怖に支配されじたばたと逃げようとする今川義元に、
僕の天色の槍が襲いかかったのだ!
「あ、悪夢じゃ。ぐやぁっ!」

 なんと、僕が今川義元を討って、織田信長を死地から救ったのだ。
 織田議員は、大喜びで僕をたいそう褒めてくれ、侍大将に取り立ててやると言い、僕に
配下の兵を付けてくれた。
 こうしてNPCの槍兵がいくらか、僕の指揮下に入った。ゲームとはいえ嬉しいものだ
が、しかし喜んでいる場合ではない。虎威先生家康から『ドリームドラッグ』の解毒方法
を聞き出さなければ…。
 ならば、その家康を討たねばなるまい。僕は槍をきりりとしごき、気合いを入れた!