桔梗1
−ダイジェスト版−


「…罠っつー確率も高いんだよな」
 昼間の彼女の言葉を受け、馬鹿正直に森まで訪れると昨夜と同位置に立ち止まる。毎日の追跡が面倒と言うのが第一義だが、罠の可能性も捨て切れないクセによく来たものだと晴明自身、感心する。
 このまま、ただ無為に過ごしても仕方がない。ドレスシャツの胸ポケットから無地の一筆箋と携帯用の筆ペンを取り出し、難解な文字を書き込んでいく。手持ちで対応出来ない時の簡易な呪符作製。一筆箋も筆ペンも、購入した時点でまとめて清めてあるとはいえ、真面目な同業者が見たら目を向きそうな行為。
 もっとも、平安の昔から色々と規格外だった彼からしてみれば、現代では現代での利便性を追求しているだけなのだが。…一筆箋はノリのお陰で用紙がバラけず、筆ペンは墨を磨る手間が省け、しかも、常に携帯出来るのだ。非常に合理的…といった意識しかない。
『嫌ナ気配気配』
『警戒警戒警戒』
『危険危険危険』
 数枚の呪符を書き上げたところで、式神たちが騒ぎ出す。時刻を無視して周囲は不自然に暗くなり、生暖かく生臭い空気が晴明たちを取り囲む。
「いや。本当に来たよ。…っつうか、俺が巣にかかった感じだな」
 感心したように呟き、一瞬下を向く。頭に手をやり、軽く掻く。口元には不敵にも鮮やかな笑み。
『ゴ主人!』
『危険危険危険』
『攻撃攻撃攻撃』
『解封解封解封』
 膨れ上がる気配に式神たちが騒ぎ出す。妖が向ける害意が晴明に向けられ、その気に触発されて晴明を護るように飛び跳ね始める彼らに溜息を吐く。
「…後で戻すの、面倒なんだよな…。ま、仕方ないか。解!」
 式神たちの要請を受け、簡単な呪を口の中で唱えると、式神たちに向けて解放する。
 それは、彼等を元の姿に戻す呪。その名が示す、本来の力を発揮させる呪である。
「捕縛しろ!」
 晴明の命令に式神たちが跳ぶ。その闘いを見つめながら、妖の正体を見極めようと目を凝らす。
「…御霊が憑いた、鬼…?いや、逆か…?」
 一つの存在でありながら、複数の気配を持つ妖に頭を捻る。どうも、核になっているのは鬼のようだが、それに御霊が憑いているなんて、平安期でも現代でも見た事がない。
 退治するにも浄霊するにもまずは捕縛が必至と、先刻書いた呪符を四方の樹に投げつけた。
「結!────────…結界を張った。隠形は効かないから、出て来なさい。…小野さん」
「気付いていたか」
 晴明の背後に忽然と院生の小野紫が長身の男を従えて現れる。
「あの妖が現れた前後に追って来ただろう?」
 驚いた風もなく肩を竦める。元々、現れるのも予測の内だ。
「…あぁ」
『仲麻呂!』
「…核の鬼と知り合いか?」
 紫の連れの男が叫ぶのを聞きとがめる。
「…鬼じゃない。高知麻呂も仲麻呂も…獄卒だ」
「獄っ…!…お…前…」
 驚いて見返す。『獄卒』と言えば、形は鬼でも、種類が全く違う。それは、冥府…地獄に使える異形の名だ。それを従えて居ると言えば…。晴明に思い付く名は一つしかない。
『ゴ主人!』
「…そのまま捕縛していろ。─────────…で?ご要望は?」
 彼女の正体を問い詰めようとした所に式神の声。改めて指示を出し、一呼吸で冷静さを取り戻すと視線だけで笑いかける。全ては、事が済んだ後で良い。
「…離せるか?その後は…──────── 私の役目だ」
「…愚問」
 予想通りの要求に不敵に笑う。見縊らせる気なぞ、なかった。
「アレ…仲麻呂って言ったな?」
「あぁ」
「了解」
 妖の核の名を確認すると、無作為に近付いていく。途中、捕縛に飛び回っていた式神の一体が晴明の傍らに寄り、露払いを始める。紫の方からは見えないが、複雑な手印を呪に組み合わせているようだ。
「…高知麻呂。門を開ける。準備を」
『…承知』
 バチバチと派手な音を立てて、青白い光が晴明の手元に集まっていく。
 それを機に紫が指示を出し、高知麻呂が跪いた場所から空気が渦を巻き出す。季節に合わない冷えた空気が地面の更に下から湧き出してくる。
『…一介の陰陽師にあれだけの気が…?』
 前方の眩しさに顔を上げ、高知麻呂が呟く。その声を受け、紫が渦巻く足元を見つめたまま、笑う。
「…一介の、ではない。アレは安倍晴明。我が国史上、最高の部類に属する者、だろう?」
『…』
「お主が調べたのだ。間違いあるまい」
 くく、と笑う紫に頭を下げる。一目見れば判る程に腕の立つ陰陽師。その正体を探るのに、何ら苦労をせずに済む程、稀有な存在。
「…そろそろ終わるな」
 視線を晴明に向け、呟く。呪文の誦唱が終わり、晴明の手元の光が眩い位に輝き、彼を紫たちの視界から奪っていく。
「…散!返れ、仲麻呂!」
 術の全てを一言の下に解放する。気の集まった手を妖に押し当てた。
 刹那、彼等を中心に光が散り、 辺り一面を白く染め上げていく。
「開門!」
 生者の目が眩む一瞬の隙を縫って、御霊が逃げようとするが、機を外さず紫が冥府の門を開く。その絶妙なタイミングに、次々と御霊たちが冥府の門へと吸い込まれていった。
「…後は仲麻呂の状態だな」
 自動的に吸われていく御霊に安堵の息を吐き、その中核とされていた獄卒へと意識を向ける。
「…ほら」
 いつの間に近づいたのか。
 目の前にどさりと下ろされた中背の獄卒を眺め、運んできた晴明に視線を移す。
「気を失っているだけだと思う。俺は獄卒には詳しくないから、冥府で調べてくれ」
「すまない」
 一応、診察のようなものはしたのだろう。僅かに心配そうに眉を寄せる晴明に頭を下げる。
「…冥官に逆らう気はないよ。…あんた、小野篁だろう?」
「…そうだ」
 訊くのではなく、確認。ほんの一瞬の会話だけで正答を見出した、その慧眼に笑い、肯定する。性すら違えた紫を正しく見る者など、まずいないのだから。
「俺の事も判る訳だよな」
「…気を悪くしたなら謝罪する」
 くつりと笑う晴明に視線を合わせる。調べた事自体に罪悪感はないが、気に触ったのなら謝罪してしかるべきだろう。
「別に。驚いただけだし。───────────…ところで、明日、休講にしても良いと思うか?」
「…いや」
 思い出したように日常へと戻される。否。非日常な現象すら、晴明には日常の続きなのかもしれない。その態度に、微かに気が軽くなる。
「…遅刻、しないでくれよ。冥皇に逢っていたなんて理由、効かないから」
 一瞬目を見開き、次いで肩を竦め、苦笑する。まさか否定されるとは思わなかったのだろう。
「…先生こそ、寝坊なぞなさいませんよう」
 立ち去り際、振り向いて軽くいなされた科白に、澄まして応えた。


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