桔梗1
−ダイジェスト版−


「眠…」
 欠伸を噛み殺しながら大学の廊下を歩く。
 講義中は学生達の手前、なんとか我慢したが、五日も続く徹夜には流石にバテ気味である。おそらく今夜もしてしまうだろう深夜の追跡に備え、出来得るならば、仮眠を取りたい気分だった。
「…朱雀〜。お茶〜」
 名門私立の所為か、一介の講師にすら与えてくれている個人の研究室に入りしな、中の式神に声をかける。
 彼には、一般人に不可視な存在を使役しているという意識はあまりないらしい。
「…少し、不用心が過ぎるのでは?安倍先生」
 誰もいない筈の室内から、不意に声をかけられ、視線を上げる。
 室内中央、デスク前のパイプ椅子に、悠然と座っている女性を見とめ、眉を顰める。戸を開ける直前に中をうかがった際には人の気配はなかった筈だ。しかも、晴明の式神を抱え、その頭を撫でている。
 術者か、才ある素人か。
 剣呑な視線も涼やかに無視する様子には、素人臭さは感じない。
 おそらく、術者。
 しかし、彼女の顔には見覚えがあり、簡単にそれと断じる事は出来ない。
「…貴女は確か…」
 不審な。さりとて見覚えのある女性。
 講師、助教授の中では見かけず、事務員でもない。とはいえ、一般の学生より僅かに大人びているということは、院生か何かだろうか。  表面上は平静を装いながら問いかける。
「小野紫。修士一年です」
 さらりと告げられた名と身分に頷く。
 少なくとも記憶と印象に間違いはなかったようだ。
 記憶を辿れば、自分の講義の際、常に教壇に近い位置で受講している真面目な院生。腰に近い位置まである長くて艶やかな黒髪に、意志の強そうな瞳の、講師仲間でも評判の美人。
「いつも前の席に居ますね。何か質問でも?」
 内心の動揺を隠し、気付かれないように一呼吸してから問いかける。
「…質問…でしょうか」
「…講義の事では?」
「いえ。…そうですね。────────…安倍晴明(あべのせいめい)。平安中期、最高の陰陽師。その能力は現代でも変わらず。ただし、現在の職業は大学講師。…違いますか?」
「…お前…何者だ?」
 言い当てられる筈のない事実を言われ、瞠目する。
 名前…字面そのものは平安期と変わらず、だが、その読みだけが違う。
 系図を明かす事もない為、現在の自身と過去の自身を関連付けて考える者は、冗談としてならともかく、今まで居なかったのだ。
 それを、当たり前の事実として話す相手に、警戒するなと言う方が無理だ。
 …事実、真実ならば尚更。
「…貴殿と境遇を同じくする者」
 ガラリと。
 言葉が変わる。
 敬語から、高位者の口調に。
 それがまた、彼女になんと合う事か。
「な…」
 絡んだ視線に見据えられる。同じ境遇…それは、過去に名のある存在と言う意味だろうか。
「昨夜。学内の森の奥で貴殿を見た。アレは私も追っている」
「…だから?」
 深夜の追跡劇。それを見られていたとは。用心深く言葉を促す。
「…アレは今宵もあの場所に現れるだろう。…如何するかは貴殿次第」
 かたん、と軽い音を立てて椅子から立ち、晴明に近付くと耳許に囁く。
「何をさせたい?」
 手渡された朱雀を宙に放り投げ、据えた視線を相手に向ける。
「…別に。貴殿次第と言った。好きにすると良い」
 全くと言って良い程、感情の見えない声で言い放つとドアに手をかける。
「…」
「では、失礼致しました」
 晴明の反応を待たずに出ていく。閉じられたドアを見つめ、詰めていた息を吐く。
「…朱雀。お茶」
 疲れた呟きが虚しく宙を落ちた。


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