杞憂


「イルカさん!今日はどちらに参りましょう!」
「…ですから、お気遣いなく…」
 にこにこにこにこ。
 今日も無駄に元気で爽やかな求愛者に頭痛覚えるが、いい加減、全てがどうでもよくなってきている気がする。
 一触即発で、殴ってしまいそうな。
 他の誰が知らなくても、イルカは既婚者である。最愛の旦那様以外の男には、一片の魅力も感じない。三代目も、それとなく諫言してくれたようだが、効果がないとなると、あまり気の長い方ではないイルカの忍耐は限りなく磨り減ってしまう。
 子供達にも会う暇がなく、最近では、食欲すらなくなり、体重まで減っている。ストレス解消のトラップ設置も、このままでは暗部の致死レベルになりそうなのだ。
 この状態は本当に危険、なのである。
「…あの」
「かーちゃあん!」
 嫌悪の表情を隠しきれず、なんとか断りを入れようと口を開いた所に、子供の泣き声。
 反射的に入口を見ると、十歳前後の、黒髪の、それでもよく知る面影の少年が半泣きで立っていた。
「…な、ナルト?」
「かーちゃんっ」
 周囲が反応するより早く、イルカが少年の名前を呼ぶ。その声に走り寄ろうとする子供を、側にいたもう一人の子供が押さえつける。
「…ごめん。母さん。ナルトが煩くて」
「サスケまで…」
 あまり歳は変わらないだろう少年が、先に現れた方の手を引いて、ゆっくりイルカに近付いてくる。その場に居た人間全てが硬直する中、困ったように口を開く。
「最近、母さん、帰り遅いだろ?オヤジも里外だし。だから」
「…あ、うん。ゴメンね」
 申し訳なさそうにイルカを覗き込む視線に、悪戯っ気があるのを感じ、内心甘く笑う。
 子供達が、助けに来てくれた。
 それだけで、心が軽くなる。
「あー。悪いな。お前らの母ちゃん、借りっぱなしで。ちょっと、受付が忙しくてな」
「そろそろ、楽になるからさ。勘弁してくれよ」
 ナルトとサスケの変化なのは解っているだろうに、イルカの同僚が笑いながら二人に謝る。その際、周囲に視線を配るのも忘れない。
 無言の緘口令が引かれる。
「あ…あの、イルカ、さん」
「…?おっちゃん、誰だってばよ?」
「…あ、私は…」
 訝しげに覗き込む子供に、途惑いながらも答えようとした、その刹那。


────────────…何の騒ぎ?」


 静かで、のんびりした声が受付所に響いた。
「…カカシさん!」
「ふぇ?カ…とーちゃん」
「っ…。…オヤジ」
「ん。ただーいま」
 声をかけたと同時に、瞬身でも使ったかのように飛びついてきたイルカを軽く抱き止め、何故か変化をして、茫然と手を繋いだ状態でいる弟子二人に軽く笑いかける。
「何かあった?」
 箍か外れたように泣き出したイルカを優しくあやしながら、空けた手で子供二人を呼び寄せる。一瞬顔を見合わせ、叱られるのを覚悟しつつ、変化続行のまま歩み寄る。
「…ここは、任務の受付所なんだから、勝手に遊びに来ちゃダメって言ったろ?」
「…だって。かーちゃん帰って来ないから」
「オヤジだって全然帰って来ないし」
 口を尖らせる二人に溜息を一つ。それでも、くしゃりとそれぞれの頭をかき回す。その間、変化の術を使っている理由も問わなければ、しがみついたイルカを引き離す事もしない。それどころか、更に大事そうに抱え込んでしまう。その仕草も表情も、どう見ても妻に甘く、子供に甘い父の顔。
「任務に文句言わないの。…火影様に報告したら今日は帰れるから、先に…」
「あー。良い良い。明日で」
「あ。良いんですか?」
 大半の人間には判らない程度に、しかし身内には楽しんでいるのが判る程度に、苦笑を滲ませた声が受付所に割って入る。
 それにのんびり応答しつつ、カカシが改めてイルカを抱え直し、さり気なく子供達を扉側へと回らせる。
「最近、イルカも残業続きでな。今日は、早く帰そうと思っておった所じゃ。子供達も迎えに来たのだし、丁度良い。帰れ」
 いきなり増えた三代目に、周囲が再び固まる。そして、どこか楽しげな表情で言うだけ言うと、再び姿を消す。
「…良い?連れて帰って」
「どうぞ!」
「ありがと。それじゃ。…二人共、帰るよ」
 受付担当の即答に目を細めると、ナルトとサスケを促し、泣いたままのイルカを横抱きに抱え上げ、悠然と受付所を後にする。
「あ。とーちゃん待つってばよ!お帰り言ってないってば」
「じゃ、今言って」
「…お帰り、クソオヤジ」
「ただいま。…今日、どっか食べに行く?」
「お帰り、とーちゃん。今日はうちで食べるってばよ」
「サクラも呼んで?」
「そう!皆呼んで!」
「良いよ。好きにして」
 嬉しそうに纏わりつく子供二人を連れて立ち去る姿に、受付所に居合わせた者は、一人を除いてにんまりと笑った。


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