神婚


 前触れもなくかけられた声に、ゆったりと振り返る。
 決して開かない戸の前に、一人のくの一が立っていた。
 一見した感じでは、恐らく上忍か特別上忍だろう。意識せずとも薄い気配に、隙のない身のこなし。
 そして何より、雇い主から接触を禁じられていると思しきイルカにあっさりと声掛けしてきた事。
 それらから知れる。
「それとも、巫女ってのは、霞でも食ってんの」
 不思議そうに首を傾げる仕草にくすりと笑みを零す。
「…まさか。普通の人間ですから、お腹は空きますよ」
「でもアンタ、この国に来てから何も食べちゃいないだろ?アタシらみたいな人種ならともかく、神社の巫女姫様には辛いんじゃないの?」
「…あぁ。そういう意味では、ちょっと普通じゃないかもしれません」
「どういう事?」
「…これでも、忍なんです。だから、少々の絶食には耐えられます」
 怪訝そうな表情の相手に肩を竦めて種明かしをする。
 普通の…一般の人間なら、三日も絶食すれば辛いかもしれないが、イルカは中忍。必要とあらば、一ヵ月位の絶食ならなんとか耐え切れる。…どこかの上忍なら、それ以上も可能かもしれない。
 もっとも、進んで、そういう状況下に身を置きたいとは思わないが。
「…へ?忍?」
 目を見開くのに苦笑して。
「えぇ。確かに巫女筋ではありますが、忍です。中忍で、アカデミー教師をしております」
「あ、そりゃご丁寧に。アタシは雫」
 気が抜けたように返してくる相手に微笑を浮かべる。演技なのか素なのか、妙に表情が豊かである。
 最初は好奇心で姿を見せたのだろうに。想定外の事実に脱力したのかもしれない。
 口調の気安さは、同業者故か。それとも、あえてそう心掛けているのか。ちょっと、測りかねてしまう。
「…忍ねぇ。じゃ、アタシらの気配なんざ筒抜けか。逃げようとしない訳だ」
 情報に虚偽があるじゃないか、と口の中でごちる相手に今一度肩を竦めてみせる。別に、イルカ自身が隠していた訳ではないのだ。
 おそらく、雇い主側が認めたくない事実は伏せて知らせていたのだろう。
「上忍、特別上忍の方には敵いませんから。それに、いずれ迎えも参りますし」
 天井を仰ぐ相手に笑いかける。
 何時、と明確な事は言えないものの、迎えが来る事だけは確信していた。それまで、なるべく体力は温存しておきたい。
 特別隠す必要も感じず、あっさり告げる。
「迎え?そんな訳ないだろ。確かアンタの里に…」
「来ますよ。賭けても良い」
 眉を寄せ、この国から里に対する申し出を口にした彼女に、鮮やかな笑顔を向けて断言する。
 迎えは来る。絶対に。
 これだけは、感情だけでなく、理性の方も納得している、事実。
「…里の利益よりアンタの身柄って事?」
「いえ。媛…女神の為です。木の葉は二度と媛を失う訳にはいかないので」
「訳解らないね」
「もっとも、あの方の申し出が受け入れられないのは別に理由もあるんですけれど」
 くすり。
 個人的には一番の理由を思い出す。きっと今頃、急いでこちらに向かっているだろう、人。そろそろ、前の任務は終わっている筈。子供達に、駄々を捏ねられていなければ良いけれど、と内心で笑う。表面はともかく、内面はかなり子供に甘い人だから、そうなったら説得するのに時間が掛かるに違いない。
「何?」
「…既婚者なので」
「はあ?」
 さらりと告げる内容に、忍らしからぬ声を上げるのを視線だけで頷き、再度口を開く。
「結婚してるんです。だから、無理なんですよ」
「…あー、なら、アンタの言う迎えって」
「主人です」
「…何だかねぇ。あ、ねぇ。それよりさ。先刻言ってた二度失うって何?」
 呆れた口調の雫が座り込むのを見て、イルカも正面に座る。着慣れない袿の裾が邪魔で動きにくいのだが、そうも言ってはいられない。
 『姫』らしからぬ派手な衣擦れの音をさせて、どうにか姿勢を正した。









「…説明がてら、昔話でもしましょうか」


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