神婚


「まだ、色良いお返事はお聞かせ願えませんか?」
 柔らかく、おっとりとした口調に高圧的な色を混ぜる相手を、イルカは冷ややかに眺める。
 この先、何度同じ問答を繰り返さなければならないのか。
 内心で溜息を吐きつつ、既に言い飽きた返答をする為に口を開く。
「色良い返事も何も。契約期間は過ぎましたので、早々にお暇したいのですが」
 契約は。任務は、赴任三日で終わっているのだ。それが既に十日を過ぎようとしている。
 その間、里から継続の指示は出ていない。
 …出ている訳がない。

 任務終了直後から監禁されているのだから。

「またつれない…。巫女姫には私と生涯、共に歩んで戴くのに」
 ねっとりとした視線と共に言葉が上滑りしていく。
 繰り返される拒否など、聞いた端から忘れているのだろう。
 懲りないその口から吐き出されるのは、随分と身勝手な決定事項。
 中途半端に権力のある立場にいる者の、何ともおめでたい勘違い。
 投げられる視線に、一々わざとらしい艶を含ませるのは、もしかしたら、その容姿にも自信がある所為なのかもしれない。…幼い頃から最上に囲まれ育ち、現在も至上と共にあるイルカにとって、目の前の人物は所詮、十人並程度だというのに。
「ご冗談も程々になさいませ」
 感情の伴わない言葉を口にしながら、周囲を探る。
 等間隔に配置された上忍の気配。もしもを考えての事か、一人の時より数は多いが、特に気殺はされていない。
 それは、たかが中忍と侮っている…と言うよりも、忍だと知らされていない確率の方が高い所為か。
 何故なら、里を出た時からこちら、忍装束は身につけていないのだから。
 平行線を辿る対話に辟易しつつ、何とか憮然とする表情を隠した。
「…ではまた参ります。あまり焦らさないで下さいよ。姫」
 にこにこと、上機嫌な笑顔を振りまいて出ていくのは、それが相手を宥める手だと思っている為だろう。
 そして、退室の際、さり気なさを装ってことりと置かれた香炉を、側にあった、無駄に高価そうな布一つ被せて持ち上げる。そして、来訪者の気配が消えた瞬間に、開け放したままの格子の付いた小窓から中身を投げ捨てた。
 僅かに、イルカ用に残った監視役が動くのを感じたが、知った事ではない。
「…バカにし過ぎ」
 小さく呟くと、嫌悪の表情を隠す事のないまま、香炉をゴミ箱へ投じ、手近な物で蓋をしてしまう。
 毎度毎度、暗示効果の高い香を差し入れてくれるのは結構だが、イルカとて伊達に忍な訳ではない。使われている香の種類も効能も熟知している。
 言わせて貰えば、その効果が最大限に活かせる調合すらも。
「口にする物は全部混ぜ物だし」
 頭を抱える。
 何せ、入国当初に出された茶に既に薬物が混入してあった。一口含んだ時点で判明したそれを、吐き出さなかったのは矜持のなせる業だが、以降、食事は斎戒潔斎中として全て拒絶し、最低限の生命維持に必要な水分以外は口にしていない。
 もっとも、その水分にすら混ぜ物がしてあるのが現実ではあるが。
 それすらも、日に日に混入量が増している。
 それは、中々薬の効果が出ないイルカに焦れての行動だろうが、いい加減、我慢の限界にきていた。
 基本的に礼儀正しい上に、当りが柔らかいので気付かない者も多いが、イルカは元々、気の長い方ではない。逃げようとしないのは、偏に自身の実力と別の事情を誰よりも承知しているからである。
 即ち。
 張り巡らされたトラップは抜けられても、その後に上忍を相手取って逃亡するには実力不足。
 そして、新年からこっち、イルカは神事の中に身を置いている立場にあるのである。それも、神の憑坐というかなり重要な。
 そうでなければ、とっとと逃亡している。
 …さもなくば、相手の隙を見て、里に連絡の一つも入れている。どちらも出来ないのは、上忍を出し抜くには能力が一つ及ばず、更にはこの先一年続く神事の為に無駄な体力を消耗しない為。
 それに尽きるのだ。
 とはいえ、流石に、十日あまりも水分だけしか摂取していなければ体力も落ちる。
 ましてや、薬物が混入されているのだ。解毒の為に幾許かの体力が消費されてしまう。
 例え、その身に降りた女神の加護で、水分中の毒物は全て無害な物質に分解されているとしても。
 香の残り香もなくなり、肩の力を抜くと、漸く、詰めていた息を開放した。


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