ONE


6

 ひょう!
 信じられない程のスピードで、カカシが木々を渡っていく。その腕の中、振り落とされないよう、必死にしがみついていた筈の腕がほんの少しだけ緩んだ。
「…どうしたの?疲れた?真珠」
 腕の緩む微かな感触に速度を落とすと、水辺に近い木陰に降り立つ。
「行きと違って急ぐ道でもないしね。少し休もうか?水取って来るよ」
 この上もなく優しく地面に下ろし、互いに面を外すと頭を撫でて水辺へと向かおうとする。
「…待っ…て」
「真珠?」
 咄嗟に腕を伸ばし、カカシの袖を掴む。
 ゆっくり振り向いて見下ろせば、既に泣きそうな顔をしていた。
「…めんなさ…」
 涙混じりの小さな謝罪。それを耳にした刹那、カカシの気配が豹変する。
「…何?何か謝る事でもあったの?真珠」
 先刻までの穏やかな気が一変して冷たくなる。怜悧な刃物のような声音に、ふるりと怯えの色が走る。
「…カカシさん…怒ってる…でしょう…?」
 俯いたまま呟く。
「何で怒ってるなんて思うの?」
「だ…て、昨日から名前呼んでくれな…」
「呼んでるデショ?『真珠』って」
「ちが…」
「どこが違うの?お前の名前だよ?」
 くすり。
 冷ややかな笑みに晒され、一瞬身が竦む。
「なら、何が違うか言ってごらん?」
 ふるふると首を振る相手に問う。
「わ…私…が、黙…て、里、を、出ようと、した…から」
 だから本当の名前を呼んでくれない。
 そう続けるのに薄く笑う。
「何だ。判ってるじゃない」
 手を白くなるまで握り締め、細かく震える躯に腕を伸ばす。
「…ごめんなさい」
 ぽたりと落とされた涙を指先で掬い、軽い溜息を吐くと膝の上へと抱き寄せる。
「別にね。里から出るなと言ってる訳じゃないんだよ?それで怒ってるんじゃない」
「…ん」
「今回だって、部隊長がアスマだったからだよね?」
「…うん」
「黙って行こうとしたのも任務続きの俺を気遣っての事だし」
「あ…」
 優しく髪を梳きながらの科白に顔を上げる。
 人員選出に困った火影が何気なく洩らしたトラップの修復に志願したのは、アスマがカカシの友人で、子供達の担当上忍で、どうしても見捨てて置けなかったから。
 トラップ担当の『真珠』として里外に出るのをカカシに黙っていようとしたのは、連日連夜の激務に疲労しているだろう身体を気遣ったから。
 そんな事はカカシには判っているのだ。
「判ってるよ。でもね」
「…はい」
「火影様から聞かされた時、心臓が止まるかと思った」
 誰よりも一番に相談されてしかるべきなのに。隠されようとしていた。火影が自分の任務としてくれなかったら、置いていかれるところだったのだ。
 だから。
 里を出てから一度も本当の名を呼ばなかった。それが何より辛い罰になるのを知っているから。態度がいつも通りであればあるだけ、切なくなるのを知っていたから。
「ねぇ。俺はお前の何?唯の幼馴染みかな?」
「ち、ちが…」
「ね。言って?じゃなきゃ呼んであげないよ」
「やあ…」
 優しい口調で告げられる冷たい宣告に嫌々をしながら首にしがみつく。
「なら言って」
「…様」
「何?」
──────── だ、旦那様」
「よく出来ました。だからお願い事は一番に言って?」
 ちゃんと叶えてあげるから。
 恥ずかしさに真っ赤に染まったこめかみに唇を落とし、柔らかく告げる。
「でも無理して欲しくな…」
「無理じゃない。黙っていられる方がよっぽど辛い」
 想ってくれるのは嬉しいが、その所為で隠れてされる位なら、目の前でされる無茶の方がずっとマシである。
「ごめんなさい」
「もう良いよ。でも二度としないで」
「しない!しないから嫌わないで!」
 今回のおしおきは、殊の外、身に染みたらしい。即答する声が愛しい。
「嫌う訳なーいよ。愛してるんだからね」
「…私も。私も大好き」
「知ってるよ」
 全身を真っ赤に染めて、表情を隠すように肩に顔を埋める相手を抱きなおすと、漸く心からの笑みが浮かぶ。
「…カカシさん…。…ね…」
 呼んで。
 蚊の鳴くような声で強請る姿に甘い感情が心を占める。
「はいはい。許してあげるよ。本当に可愛いね。…イルカは」


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