ゆうべ、彼が死んだ。
昭和43年生まれの彼。33歳だった。
通夜で逢った彼女は、心がぼろぼろ。
突然の彼の死に、何もかも見えなくなってしまったよう…。

みんなから話しかけられても、返す言葉も見つからない彼女。
ただ、残された彼のスナップ写真と運転免許証だけが、
もう、二度と手離さないよとばかり、彼女の手の中に
握りしめられていた。
10歳と5歳になった娘たちは、そんな母親の姿を、ただ黙って
見つめるばかり…。

飲んだくれの 彼だったかもしれない。
暴力を振るう 彼だったかもしれない。
何日も家を空ける 彼だったかもしれない。

でも、異国生まれの彼女にとって、
彼は たったひとりの彼だった。
二人娘にとっても、たった一人の父だった。

「ア・リガト ゴザ・イマシタ…」

妹に支えられて立つのがやっとの彼女。
涙をこらえながら、ふりしぼったカタコトの日本語。
それが、今の彼女にできる、せいいっぱい。

これから先、彼女はどうしていくのだろうか。
二人の娘は、彼女をどう支えていけるのだろうか。

明日は葬送。
彼女には強い心を持って、生きていって欲しい。
生きてさえいれば、いつか必ず、よいことがあるよ。
生きてさえいれば。
生きてさえいれば。



【『臨月』ほかに収録】

(初稿 2000.05.09)



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