とぼとぼと歩いて、ようやくアパートにたどり着くと、そこには、見慣れた車があった。
学校の駐車場で見たことがある、アリオスの車。
先生・・・
俯いたまま、気づかぬふりをして通り過ぎようとしたとき、クラクションが鳴らされた。
「アンジェリーク!」
声を掛けられて、彼女はようやく振り返る。
「先生・・・、どうして・・・」
「”アリオス”だ、アンジェリーク」
「きゃっ!!」
そのまま腕をつかまれて、彼女は思わずバランスを崩した。
「・・・メシ食いに行かねえか?」
情熱的に見つめられれば、アンジェリークはひとたまりもない。
彼女はそっと頷くと、彼の車に乗り込んだ。
「----さっきはすまなかったな? 学校だったから、許せ?」
「・・・私も、ごめんなさい・・・。学校ってわかっていながら、あんな態度を取っちゃって・・・」
「かまわねえよ。おまえの気持ちがそれだけ伝わったから・・・」
髪をクシャリと撫でられて、彼女は胸の奥が熱くなるのを感じる。
それだけで先ほど痛かった胸の傷が癒される。
「何を食うかは俺に任せてくれねえか? この辺だったら、他の生徒に見つかるかもしれねえからな?」
「は・・・」
返事をしかけて、彼に唇を奪われてしまう。
余りにも突然のことで、アンジェリークは目を大きく見開いたまま、呆然とアリオスを見ている。
「クッ、可愛いな? おまえ」
彼女は彼の視線がとても恥ずかしくて、そのまま俯いてしまう。
「先生の意地悪・・・」
「先生じゃねえだろう? ”アリオス”だ」
再び、彼に顔を近づけられれば、恥ずかしすぎて頭の中が真っ白になる。
「アリオス・・・」
何とか彼の名前を呟く。
とても、小さな声で。
「上出来」
彼は満足そうに微笑むと、もう一度、彼女の唇に口付けた。
触れるだけの軽い羽のようなキス。
そんなキスでも、彼女はもう耳まで真っ赤にして、瞳を潤ませている。
ホントにこいつはすれてねえんだな。
初々しいというか・・・、俺にとっては新鮮な反応だな・・・
「さあ、行くぜ?」
コクリと彼女は頷く。
いつもは寂しい一人暮らしも、今日に限ってはこれでよかったと、アンジェリークは心の底から思っていた。
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連れて行かれた場所は、車で30分ほど走ったところにある、小さな洋食屋さんだった。
「いらっしゃ・・・、レ・・・アリオス! アリオスじゃないか!」
からんと、ドアの音が鳴るなり、懐かしそうに、男性の声が響いた。
「よお、久しぶりだな、カティス」
その高らかでおおらかな声に、アンジェリークは恥ずかしがって、すっかりアリオスの陰に隠れてしまう。
「あれ・・・? 今日はお連れさんがいるのか?」
栗色の髪がさっと揺れたのを見て、カティスがカウンターから覗き込んできた。
「ああ。俺が今テニスを教えてるやつだ。おい、アンジェリーク、ほら、出て来い?」
優しく後ろにいる少女を諭しているアリオスに、カティスは嬉しそうに目を細める。
ようやく、その気になったのか。
エリスのことがあって、どうなることかと思ったが、安心した・・・。
エリスがなくなって、自らのラケットを置いてしまったおまえが・・・、再びコートに立ったなんて。
ひょこりと、アリオスの背中から現れた栗色の少女に、カティスは目を疑う。
エリス!!!
明らかにカティスの眼差しは、動揺し、アリオスもそれを感じた。
仕方ねえか・・・。
似てるんだからな。外見は・・・。
「ほらおまえも挨拶をしろ? カティスは俺のテニスの先輩だ」
「あ、アンジェリーク・コレットです! よろしくお願いします」
まだ初々しい挨拶をする少女。
その名を聞いて彼はしっかりと頷く。
スモルニィに”アンジェリーク・コレット”という新星が現れたという噂を耳にしたが、まさかアリオスが育てていたとは。
この少女とアリオスとの縁に、カティスは感慨深げになる。
「よろしく、お嬢さん。君はこの間、地区大会で金星を上げた選手だろ?」
「え・・・あ・・・、勝ちましたけど・・・、先生のお蔭で勝てたんです・・・」
嬉しそうに微笑んでいるものの、彼女は少し恥ずかしがっているようだ。
「いや? 君が着いてきたから勝てたんだ。実力だよ?」
軽くウィンクをされて、益々顔を赤らめる彼女に、カティスは好印象を受ける。
「ほら、突っ立ってないで、こっちに座れ?」
アリオスはそのまま手を引っ張って、奥の席へと彼女を連れてゆく。
「先生」
「先生じゃないだろ? ”アリオス”だ」
「あ・・・、アリオス」
二人のやり取りを聞きながら、カティすは暖かい気持ちになるのを感じる。
アリオスがすっかり立ち直っているのは、きっとこの少女のおかげだと思う。
そういうことか・・・。
この子は、あいつの心の氷をすっかり溶かしてしまったんだな・・・
カティスはカウンターから出て、二人の席に、ニヤニヤとなにやら笑いながら、注文を取りに行く。
「お二人さん、注文は?」
「あ、練習後だから、あんた特製のタンシチューセットを頼む。俺がビールで、こいつはあんた特製のジュースな? 昔作ってくれたやつだ?」
「はい、かしこまりました♪」
言った後、カティスはそっとアンジェリークを見る。
「----こいつ、強引だろ? 気をつけてな?」
それが嬉しくて、自分を”アリオスの恋人”として扱ってくれるカティスが嬉しくて、彼女から笑顔が零れ落ちる。
「こら、こいつに変なこと吹き込むなよ?」
「はい、はい」
不機嫌そうなアリオスに、カティスは笑いながら返事をし、厨房兼カウンターへと向かう。
「変なやつだろ?」
「楽しい方ですね」
未だ敬語が抜けきれない彼女に苦笑しながら、彼が甘い眼差しで彼女を見つめたときだった。
「マスター、来ました」
女性の声と共に、カップルが店の中へと入ってきた。
「らっしゃい」
少しだけ、カティスは不機嫌な声になる。
カップルはそのまま奥の席へと歩いていこうとしたとき、不意に、女がアリオスとアンジェリークの前で足を止めた。
「----あら、レヴィアス・・・」
その途端、アリオスの顔が氷よりも冷たくなり、厳しくなった。
そこにいたのは、かつて、エリスが死んで荒れたときに、付き合った女。
エリスの友人お不利をして、彼に近づいてきた女だった。
「----女の子と一緒・・・まあ!!」
女は、アンジェリークを見るなり、感嘆の声を上げる。
二人は知り合いのようだったが、険悪の空気が漂い、アンジェリークはおろおろした。
「----早く行きやがれ!」
押し殺した声に、女はせせら笑う。
「----あなた、エリスが死んで、ラケットを折って、そんな色の髪にしてたの?
しかも、彼女、エリスにそっくりじゃない、身代わり?」
その言葉が放たれたとき、アンジェリークは全身を震わせ、アリオスは鋭く冷たい怒りの眼差しを女に送る。
身代わり・・・。
私は身代わり・・・。
彼女は心の中で反芻する。
先生・・・、キスはしてくれるけど、肝心の言葉はくれない・・・。
やっぱり・・・
アンジェリークは思いつめたようにそのまま立ち上がると、衝動的に出て行こうとする。
「待て!! アンジェリーク!!」
アリオスがその細い腕を掴むも、彼女は振り切って、そのまま店から走っていく。
「アンジェリーク!!!」
彼は彼女を呼び止めるものの、振り返らない。
アリオスは、すぐに立ち上がり、眼差しで女を威嚇すると、そのままアンジェリークを追いかけていった。
先生、やっぱり、私のことなんて・・・
涙で前が見えない。
後ろで必死に彼女を呼ぶ声が聞こえるのが判る。
「アンジェリーク!!」
逃げようとして、彼の腕の中に一瞬にして、包まれてしまった。
「・・・はなして、先生・・・」
「離さねえ!」
彼の力はさらに込められ、彼女は苦しそうに喘いだ。
「・・・私、身代わり?」
「違う!! あんな女のことを信用するな・・・」
「だったら、だったら、どうして、私に、”愛してる”って言ってくれないの?」
「アンジェ・・・」
彼女の必死の懇願に、彼は思わず腕の力を緩め、苦しそうにその名を呼ぶ。
「----やっぱり、身代わりだからいえないんでしょ? やっぱり・・・、あっ!!」
再び腕の力が込められる。
彼に、そのまま、身体を正面に向かされる。
「----言ってしまったら、もう・・・、おまえを離せなくなるから・・・。欲しくてたまらなくなるから・・・。
だが、おまえが望むなら・・・。覚悟は出来るか?」
潤んだ瞳を彼に向けながら、彼女は迷いもなく頷いた。
「----愛してる・・・。アンジェリークおまえだけだ・・・。おまえだけを愛してる・・・、誰よりもだ・・・」
「アリオス・・・」
唇が重ねられた。
いつものように軽いものではなく、深く愛を伝え合うもの。
舌で彼は彼女の歯列を割り、唇や口腔内に愛を伝えてゆく。
何度も角度を変えて唇をついばまれて、彼女は頭が白くなって、たっていられなくなった。
彼はそれを敏感に感じて、彼女の華奢な身体を支える。
唇が離されたときには、もう、彼女の身体からはすっかり力が抜けていた。
「アンジェリーク・・・、おまえが欲しい・・・」
苦しげに囁かれる情熱的な言葉に、彼女は彼を抱きしめることで答える。
それは無言の了解。
そのまま彼女の手を取ると、彼は車へと向かう。
車で、彼女を自分のマンションに連れて行くために。
もう誰も、私たちを止めることなんて出来ないから・・・。