2
「亜梨子…、亜梨子…」
何度も名前を呼ばれているような気がして、亜梨子は目を開けた。
そこは大学のキャンパスで、いつも居眠りをするお馴染みのベンチ。
「こら! 亜梨子!」
耳に入るは、元気な美紀の声。
その声に、亜梨子は唖然とする。
「こら、なにしてるの。相変わらずボケてんなあ…」
威勢が良く、少しからかったような麻衣の言葉に、亜梨子はきょとんとした。
「良かった〜! 夢やったんやわ〜」
心からの安堵の声で彼女は呟き、瞳には涙が光っている。
「どんな夢を見たのよ?」
興味深かそうに訊いてくる友人たちに、亜梨子は少しうっとりとした風に呟く。
「“夢”やったら凄いええ夢。だって、“エンジェル・ウィング”のメンバー並みのええ男が、わんさと出てきてん」
「だったら、“夢”のなかに居たほうが楽しいじゃない?」
美紀の言葉は全く一理あるが、あのような言葉も判らない状態で、知り合いも誰も居ない状態では、どう立ち振る舞って良いか判らない。まして、戻れる保証すらもないのであれば…。
「だけど…、皆に逢えないって思ったら哀しくなって…」
亜梨子は空を見上げると、眼差しを遥か彼方に滑らせる。
「皆が居るこっちの世界がええな〜って、帰りたいな〜って思った」
友人二人は優しい微笑を浮かべてくれた。
「だけど…、カインさん…、“エンジェル・ウィング”のカイみたいにかっこよかったな…」
3
亜梨子が眠っている間、レイチェルは彼女の脳波からデータを採取していた。
無機質なコンピューターの音が研究室に響き渡る。
「…これは…、凄いわね…。こんなデータ、今まで見たことがないわ…」
画面を見つめる彼女の眼差しには、明らかに驚愕の色が伺える。
(簡易に取ったデータでこれだけの数値が出るなんて…)
検査台で眠る亜梨子を、レイチェルは、じっと見つめた。
まだあどけない寝顔に、彼女は胸を詰まらせる。
(力を発揮すれば…、この少女こそが…)
「…ン…」
寝返りを打つ亜梨子の体から、判らないように検査装置を手早く取った。
亜梨子は、うつらうつらと夢の中を漂っていた。
(良かった…。あれは夢やったんたわ…)
そんなことを思いながら、彼女は安心して眠りを貪っていた。
だが、耳元には、効き慣れない不思議な言葉が聞こえてくる。
(なんやろ、この言葉、ヘンなの…)
そう思って、眠りに戻ろうとしたが、その不思議な言葉の囁きは大きくなるばかりだった。
(何やろ…)
その言葉に導かれて、亜梨子はゆっくりと目を開けた。
「目が覚めたかしら、アリコ」
「……!!!」
目の前に居るのは、夢で見たはずの金髪の知的な美女。
亜梨子は、慌てて飛び起きると、某全を彼女を見つめた。
『夢やなかったんや…』
「何?」
訊き返して来たレイチェルの言葉が判り、亜梨子は益々驚いてしまう。
はっと気がつくと、耳にはヘッドフォンがしてある。
彼女は、それを震える手で触ると、怪訝そうにレイチェルを見た。
「あ…、これね、これはあなたにこのイシュタリアの言葉を理解してもらいたくてつけたものなの」
彼女が言っていることの一言一句が手にとるように判り、亜梨子は益々大きな瞳を丸くして、レイチェルを見つめた。
「判るのね?」
その言葉に、亜梨子はしっかりと確信を持って頷く。
「あなたがこの世界でもしっかりやっていけるように、私があなたの言葉の面倒を見ることになったの。まあ、同じ女だし、その他もろもろもね」
有難うという言葉が口から出なくて、亜梨子は、ただぺこりと頭を下げた。
「いいのよ? さあ、アリコ、あなたにこれから使ってもらう部屋に案内するから、付いて来て」
レイチェルの後を、亜梨子はとぼとぼとついてゆく。
(やっぱり、こっちが現実やったんや…)
亜梨子は今すぐにでも、泣きたい気分だった。
「ここよ…」
レイチェルに連れられて入った部屋は、とても清潔になっており、明るい雰囲気だ。太陽が降り注いで、明るさも快適だ。
「この部屋を自由に使っていいわ。お風呂やトイレといったサニタリー施設もあるし、小さなキッチンもあるから、使ってね」
白い部屋には、ベットやクロゼット、それにコンピューターや勉強用に机と、とても快適に過ごせる総てのものが揃っていた。
「そうそう。その格好じゃ、ここでは目立つから、ベッドの上にここの学生が着ている制服を置いておいたから、着てね」
指を指されたところに視線を落とせば、確かに昨日見た覚えのある白い制服が乗っていた。
カインと一緒に。
「カイン…?」
不安げに見つめる亜梨子の表情だけで、レイチェルは、彼女が言いたいことを総て理解する。
「カインはまた来るから、ね。今日でも」
その枯淡に、亜梨子の表情が明るくなり、レイチェルは胸の奥を疲れる思いがした。
「さあ、着替えたら、今日はあなたにミュゼールの街を案内するように騎士が来るわ」
「カイン!!!」
「ごめんなさい、カインじゃなくて、フィリップだけど…」
その途端に少ししゅんとした亜梨子の姿が可愛くて、レイチェルは優しく見つめた。
「さあ、準備して? ミュゼールの街はとても綺麗だから、気分転換になるわ…」
コクリと頷いて、亜梨子は制服を手に取った。
「じゃあ、待ってるから…」
そう言うと、レイチェルは静かに部屋を出た。
彼女が部屋を出るなり、亜梨子は、カーテンを少しだけ引いて、外を眺める。
そこには、降り注ぐ太陽の下、亜梨子と同じ年ほどの生徒たちが、青春を謳歌するかのように、同じ制服を着て、楽しそうに歩いていた。
(こんなに、同じやのに…。どうしてここはちゃうの!? なんで私はここにおんの? 太陽も何もかも同じやのに!!!)
心が崩れ落ちそうになる。
誰も居ないことに安心してか、亜梨子は肩を震わせてむせび泣いた。
「レイチェル」
コンと軽いノックとともに艶やかな声が降りてきて、部屋を出るなりレイチェルが振り返ると、そこには黒い皮のジャンパーとパンツ姿のカインがいた。
「カイン…。今、帰り?」
「ああ。昨日のアリコを襲ったやつの尋問が今までかかった」
艶やかな長めの前髪をかきあげながら、カインは表情を感じられない異色の眼差しをレイチェルに向ける。
「ルーンのだったの?」
「ああ」
カインは何事もないかのように、淡々と呟いた。
「ところで…、亜梨子のデータはどうだ?」
切れるような鋭い異色の瞳で、カインはレイチェルを見つめる。
昔から知っているレイチェルでさえも、その眼差しは冷たく、恐ろしい。
「来て」
「ああ」
二人はレイチェルの研究室にある、コンピュータの目に立ち、そこに意識を集中させた。
「これが亜梨子の脳波のファイル」
それが画面に映し出された瞬間、流石のカインも余りの数値に眉根を寄せた。
「これは…」
「やはり驚いたみたいね…。私も最初は信じられなかった。コンピューターが壊れているかとも思ったわ。だけど…、違った…」
レイチェルは、コンピュータを指し示しながら、更に説明を続ける。
「亜梨子の脳波は私たちのものとは逆のパターンを描いているわ。つまり、ここの人間ではないということ」
「だろうな…」
程度は予測がついていたせいか、カインは余り驚かない。
「で、ここから分析した結果は…。
亜梨子の潜在能力は、通常能力の“聖なる翼の”の四倍、最強といわれた、アリアーヌ・オーディアールの二倍だわ…」
「何!?」
流石のカインもこの数値には驚く。
彼の、エメラルドとブルーグレーの異色の眼差しが、深い色に輝く。
「…アリコは…、俺たちの前に現れた、救世主かもしれない…。彼女が真の“聖なる翼”かもしれない…」
低いカインの声は、強い響きを持っている。
そして、レイチェルは、それを同意するかのように、深く頷いた。
彼らの中に、“アリコ”という名の星が輝き始めた-------------------