時空の翼

〜DIMENTIONAL ANGEL〜

CHAPTER1「出逢い」(2)

 男は、その後、五回に渡るセキュリティチェッカーを経て“アリアーヌ”の部屋から出た。さらに、彼女の部屋のある塔“の外に出るには、十度もセキュリティチェッカーを通過しなければならなかった。

 毎度の事ながら、セキュリティチェックが済む頃には、男はすっかり閉口していた。

 彼がようやく塔の外に出ると、辺りは幾分か涼しくなっていた。数多の星が瞬き、月光が厳かに塔を照らしている。

 男はゆっくりと塔を見上げた。塔は、自分の住む世界とは別世界に思え、その隔たりが、彼を一層切なくさせる。

それを表すかのように、冷たい心地のよい夜風が、男の席褐色の髪をそっと靡かせ始めた。

「……!」

 かすかに少女の叫び声が、男の耳に入る。彼は怪訝そうに眉根を上げると、感覚を研ぎ澄ませ、聴力に集中する。

(誰かが、どこかで助けを呼んでいる!?)

 彼は静かに目を閉じ、声の聴こえ具合から場所を特定する。

----中庭か…」

 男は自分の直感に従い、風を切るような勢いで、すぐさま中煮を屁と全力疾走し始めた。

 亜梨子は、自分が絶体絶命の窮地に立っていることを、膚で感じた。呼吸が荒くなり、大きな瞳を見開くだけで、その表情には余裕がなくなっている。間男に抵抗できるほどの素早さも、技倆もなく、彼女は運命に任せるしか術はなかった。全身に震えが走る。

 彼女のその姿に、間男は侮蔑の笑みを僅かに口元に浮かべた。

「気高く、驕慢な“聖なる翼”も、死ぬのが恐いと見える。がっかりだな。戦女神と謳われたおまえも、ただの娘だったとはなっ!」

 亜梨子には、間男が何を言っているのか、全く理解出来なかった。ただ、間男の声の響きで、彼が自分に対して悪辣なことを言っていることは、理解できた。しかも、人違いをしているらしいことも。

「運が悪かったと思って諦めろ!」

 間男は凄い勢いで、亜梨子に向かって殺気と共に大剣を振り落としてくる。彼女はびくりと身体を動かし、咄嗟に目をきつく閉じ、俯く。

----神様……!!)

 命の崖ぷちにいる彼女には、最早、神に祈ることしか残されていないように思われた。

 まさにその時である。

 亜梨子の前を風のような速さで、人影と何かを振り下ろす影が、通り抜けたのである。

「……!」

 その瞬間には、曲者は大きな音を立てながら、彼女の前に倒れこんでいた。

 これには亜梨子も驚いた。息も飲む暇もないうちだったからである。

 曲者はピクリともせず、彼女の目の前で横たわっていた。血を流した痕跡すらも覗えない。

(本当に、倒れたんでしょうね…)

亜梨子は不安になった。彼女は、本当に曲者が動かぬかどうかを確かめる為、震える手をゆっくりと、横たわる黒装束に伸ばそうとした。 

「おい」

 怜悧な声が亜梨子の動作を遮った。

「確かめなくても大丈夫だ。崟打ちでの気絶だ。後、二、三時間は目覚めないだろう」

 その言葉も、また彼女には聞き慣れない言葉だった。声のトーンで感情のないものだと判るぐらいだ。

「怪我はないか?」

 亜梨子は、頭上から降りてきた低く響く艶やかな声に導かれるように、ゆっくりと視線を上げる。

 そこには、豊かな身長と、均整の取れた精悍な体躯を持つ、銀モールの黒い軍服姿の男が立っていた。彼は、広い背中を向け、立派な大剣を鞘に収めるところだった。

 その動作を一つ取っても、大変洗練されている。

 亜梨子は、とりあえず礼を言おうと、男の背中に向かって言葉を発した。

『あっ、有難うございました……』

 その聞いたことのない言葉の響きに怪訝に思いながら、男はゆっくりと振り返る。

 その瞬間、亜梨子は息を飲んだ。

 ----そして、男も。

 亜梨子は、男の美しさに息を飲んだ。食らい緋色に輝く髪。長い前髪が影を作る、どこか憂いのあるブルーグレイの右瞳と、鋭く光るエメラルドの左瞳。筋の通った鼻、官能的な唇。それらを縁取る形のよい顎。その美貌は、彼女のみならず、若い女性の心を奪うには十分な要素だった。

(こんな人、この世におったんや……)

 亜梨子は、嬉しい驚きに、頭の中が麻痺してゆくのがわかる。

 しかし、男は亜梨子以上に驚いていた。

 彼は自分の目を疑った。そんなはずがないと、何度も彼女を凝視したが、答えは同じだった。

(似ている…! 見れば、見るほど、よく似ているのが判る…)

 自分を見つめている少女は、髪の長さこそ違え、その大きな瞳も、小さな鼻も、薔薇の蕾のような唇も、塔の一番新しい住人と、全く違わない。長いうすでのボーダーのシャツと、ジーンズという、アリアーヌなら決してしなかった格好をしてはいたが。

----アリアーヌ…」

 男は声を殺すように呟いた。

 その呟きを、亜梨子は聞き逃さなかった。先ほどの間男も、全く同じことを言っていたからである。その響きから、彼女は子の言葉が名前を指す物であり、男にとっても、間男にとっても、重要な人物であることが想像できた。

(アリアーヌって人は、いったいどんな人なんやろうか…)

----今更、似ている者が現れたところで、俺の感情はどうもならない。アリアーヌの魂を持つ者ではないから…)

 男は口元に嘲笑を浮かべ、先ほどよりもさらに憂いを秘めた、翳りのある瞳で宙を見つめた。その鋭さと悲しみが交錯した光は、彼の異色の瞳の奥に影を作っている。彼は自分の世界に閉じこもってしまったように、亜梨子には思えた。

 超然的な雰囲気が男にまとわりつく。

 彼女は、置いてけぼりを食らったような気分になりながら、彼に話し掛けるための勇気をかき集めた。自分がどこにいるのかを、確かめたかったからである。

----よぉーしっ!)

『あ、あのっ!』

 亜梨子は声を上ずらせながら、思い切って言葉を発した。

 その聞き慣れない言葉の響きに、男ははっと我に還った。彼が静かに亜梨子に目をやると、そこには表情の硬い少女が、自分に縋るような眼差しを向けている。

----そんな瞳で俺を見るな…! アリアーヌと同じ顔の者に、そんな顔をされると、俺は…、俺は…!!)

 彼女の視線は、男に苦々しい過去を思い出させた。胃が強張り、苦い味が口に広がるのが判る。縋られているのにもかかわらず、責められている気分にさえなる。彼は、亜梨子の視線から逃れるように、瞳を閉じた。

 彼女は、明らかに男の拒絶が判ったが、それでも、彼しか質問する相手がいない以上、ぶつかるしかない。彼女は言葉を続ける。

『あっ、あの…、あたし、ここがどこか、まっ、全く検討が…、つっ、つかないんですけど…、ここはどこですか?』

 やっとのことで、彼女はしどろもどろのなりながらも、命の恩人に一番訊きたいことを尋ねた。

 男はじっと、亜梨子の発する聞き慣れない言葉を注意深く聞いていた。

----この娘は、顔こそ同じだが、アリアーヌとは別の魂だ…。ここにいるのは、ただの怯えた少女だ。国家を導く、気高き魂の持ち主ではない…。

 ----しかし、“今日”という日にここに現れるとは、皮肉なものだな…)

 心が平成になってゆくのを、男は感じる。彼は瞳を閉じたまま、軽い深呼吸を一度すると、ゆっくりと口を開いた。

「悪いが…、あんたが何を言っているか、俺には理解出来ない」

 その声は艶やかで、低くよく通る声であったが、感情のない無機質な響きがあった。

 亜梨子はこの時初めて、男が明らかに日本語とは違う言語を操り、自分とは言葉での意志疎通が困難であることを、初めて知った。

 その瞬間、この世界に来てからの緊張感と絶望感が、大きな波となって、彼女の身体に一気に押し寄せてきた。震えが始まり、歯がガチガチと音を立てて鳴る。体には一切力が入らない。

 亜梨子は、急に哀しくて仕方がなくなり、大きな瞳に涙をいっぱい貯めていた。

『どうしたらいいか判らへんよぉ! 家に帰りたいよぉ!』

 肩を震わせながら、彼女は泣き叫ぶ。

 男は、亜梨子の悲痛な叫びを、涙声と言葉のトーンで理解し、それに反応するように双眸を開けた。彼は無表情で、泣き喚く彼女を見つめると、そのまま彼女の前に静かに腰を降ろした。

----この娘には何も罪はないのだ…。ただ、アリアーヌに瓜二つだということを除けばだが…)

 男は長い足であぐらをかくと、少し困ったように、形のよい眉を顰める。

「……?」

 思わぬ男の行動に驚愕して、亜梨子は泣き叫ぶのを思わず止めてしまった。絶望より、驚愕が大きかったからである。

 だが彼女には、男の行動は有り難かった。自分をひとりにせず、そのまま傍にいてくれるのだから。命を助けてくれた上に、このように無言の労りを示してくれた。この男の優しさを、彼女は少し理解出来た気がした。

 夜風を通して、人の温もりを感じる。亜梨子は、徐々に心が安寧に向かっているのを感じていた。

----この人は、ぶっきらぼうかもしれないけれど、あたしを助けてくれた…。今、こうして、不安を取り除くために、こうしてあたしの傍にいてくれる…)

 彼女の心にゆっくりと温かいものが流れてゆく。それは不思議と彼女を落ち着かせ、母親の胎内にいるような、大いなる安らぎを生んでいる。

(この人は、信頼してもいい人なのかも知れない…)

 亜梨子は男の端正な横顔を見つめる。精悍さが輝いている横顔。

----ここがどこか判らない以上、あたしはこの人の言うことはすべて信じよう、この人の言うことはすべて訊こう。きっと、あたしの取ってはそれが一番良いことだろうから…)

 彼女の大きな瞳は、決意を秘めて、太陽のように力強く輝く。心のどこかで、男への信頼感は決して揺らぐことはないだろうと、彼女は感じる。それは、命の恩人だからだけではなく、彼の心根の深さを感じたからだった。

 亜梨子の男への信頼。それは、始めてみたものを親だと思う鳥の習性と同じ、“刷り込み”だった。

 彼女は、混乱の中でも、この世界で生きることを、本能で覚え始めていた。

「もう、大丈夫のようだな」

 亜梨子が落ち着きを取り戻したことを確認すると、男は、胸元につけていた小さな機械を静かに取り出した。

『それ、何ですか?』

 彼女は機会を指差して訊いたが、男は無表情でぷいっとそっぽを向いた。彼はその機械を何度顔して、そのまま口元へと持ってゆく。

(アハハ、言葉が通じないんじゃ訊いても無駄か。見るだけ、見てよ)

 彼女が、じっと男の持つ機械に注目していると、それに向かって何か言葉を呟き始めた。

「マドリナ騎士団長、カイン・レッドファルトから、騎士各位へ、“祈りの塔”中庭Dブロックにおいて、不審者侵入。現在不審者は気絶している。至急駆けつけ、事後処理を頼む」

「了解」

 機械からは、男の言葉に対しての部下の返答が聞えている。

 亜梨子は、男と機械から聞えた声が何を言っているかは判らなかったが、機械がどのように使われるかは、理解出来た。

 男はさらに機械の操作を続ける。

「はい、レイチェル・キャメロンです」

 今度機械から聞えてきたのは、怜悧な響きのある女性の声だった。勿論、亜梨子には理解出来るはずはなく、彼女は何とかヒヤリングだけを心がける。

「カイン・レッドファルトだ」

「何、カイン。何か緊急事態かしら?」

「今からそっちに娘を一人連れて行く。その娘について、少し知恵を借りたい」

「どういうこと!?」

 レイチェルの怪訝そうな声が、機械を通して無機質に響く。その響きからの意味なら、亜梨子にも十分理解することが出来た。

(何やろ?)

 彼女は判らぬまま、ヒヤリングを続ける。

「ここでは言えないが、娘に逢えばわかるだろう」

「判ったわ」

「それと、ブリストル騎士団長殿、ハルモニア騎士団長殿、ミゼフィールド騎士団長殿、そして我が副官殿も呼んでおいてくれ」

「人使いが荒いわね。いいわ、ジェラール、フィリップ、マクシミリアン、ラインハルトには連絡しておくわ」

「すまない後でな」

「ええ」

 男は静かに機械を着ると、疲れたように大きな溜め息を吐く。彼は、赤銅の輝く長い前髪を神経質にかきあげる。

「ったく、今日は何て日だ…」

 亜梨子は、ずっとヒヤリングをしていて、気がついたことがあった。先ほどから頻繁に聞えていた“カイン”というのは、ひょっとするとこの男の名前かもしれないと。彼女は恐る恐る訊いてみることにした。

「カイン?」

 亜梨子は、“あなたの名前はカイン?”という意味で、男を指差しながら訊いてみる。

 彼女の意図したことが理解したのか、男は口角を僅かに上げると、自分自身を指差し、

「そう、俺はカインだ。カイン・レッドファルトだ」

 と答えた。

 カインが、自分の意図を理解してくれたのが何よりも嬉しくて、亜梨子はちょっとはにかんだ、しかし零れるような微笑を彼に向けた。

 その瞬間、彼は虚をつかれた気がした。亜梨子の笑顔は、誰もがうっとりと酔いしれ、抱きしめて護ってあげたくなるような、それだったからだ。笑顔はその人の人柄を表す鏡だというが、彼女もまたそうだった。

 カインは、亜梨子の吸い込まれるような輝く笑顔に、釘付けになる。同時に彼は、苦しく切ない思いでいっぱいの、自分を感じる。

(純粋な笑顔。以前のアリアーヌと同じか)

 その笑顔は、カインに、アリアーヌと亜梨子の同質さを肯定させるのと同時に、異質さも肯定させていた。

 彼は、二度と逢えないと思っていた微笑を亜梨子の中に見出し、苦しさを感じる。

 亜梨子の微笑みは、以前のアリアーヌと同じく、向日葵のように眩しく、カインに安らぎすら覚えさせた。瞳が明るく輝き、未来を示してくれるような、そんな笑顔。

(安らぎなんて、とうになくした…。今の俺には縁のないものだと判っている。しかし)

 カインは、心の表面では否定をしても、心の底では判っていた。今の自分に最も必要なのは何かを。そして、息苦しさの理由も。

 彼は瞳を伏せてかすかに笑みを浮かべる。

(別人なのは、よく判っている)

 彼の異色の瞳は、自嘲気味な微笑を僅かに湛えて、亜梨子を捉えた。

 彼女はその艶やかさに一瞬どきりとする。

 今度は自分の番とばかりに、亜梨子は自分自身を指差した。

『亜梨子! 亜梨子、倉橋亜梨子!!』

 調子付くように誇らしく、彼女は何度も自分の名前を伝える。

「アリコか…」

 カインは口元に僅かな微笑を湛え、低い声で呟く。亜梨子は満足するかのように何度も頷いた。彼女は、初めて意思疎通が出来たことにとても喜び、何とかなるかもしれないと、思い始めていた。

 亜梨子の良さは、このようにどんな状況になっても挫けず、前向きに考えることが出来る明るい性格にあった。

 カインは、亜梨子の喜怒哀楽総てを、アリアーヌと重ねずにはいられなかった。


コメント

「時空の翼」四回目です。
ようやく二人は出会い、お互いに名前を名乗ることが出来ました。
次回は仲間が出てきます。お楽しみに…。