男は、その後、五回に渡るセキュリティチェッカーを経て“アリアーヌ”の部屋から出た。さらに、彼女の部屋のある”塔“の外に出るには、十度もセキュリティチェッカーを通過しなければならなかった。
毎度の事ながら、セキュリティチェックが済む頃には、男はすっかり閉口していた。
彼がようやく塔の外に出ると、辺りは幾分か涼しくなっていた。数多の星が瞬き、月光が厳かに塔を照らしている。
男はゆっくりと塔を見上げた。塔は、自分の住む世界とは別世界に思え、その隔たりが、彼を一層切なくさせる。
それを表すかのように、冷たい心地のよい夜風が、男の席褐色の髪をそっと靡かせ始めた。
「……!」
かすかに少女の叫び声が、男の耳に入る。彼は怪訝そうに眉根を上げると、感覚を研ぎ澄ませ、聴力に集中する。
(誰かが、どこかで助けを呼んでいる!?)
彼は静かに目を閉じ、声の聴こえ具合から場所を特定する。
「----中庭か…」
男は自分の直感に従い、風を切るような勢いで、すぐさま中煮を屁と全力疾走し始めた。
亜梨子は、自分が絶体絶命の窮地に立っていることを、膚で感じた。呼吸が荒くなり、大きな瞳を見開くだけで、その表情には余裕がなくなっている。間男に抵抗できるほどの素早さも、技倆もなく、彼女は運命に任せるしか術はなかった。全身に震えが走る。
彼女のその姿に、間男は侮蔑の笑みを僅かに口元に浮かべた。
「気高く、驕慢な“聖なる翼”も、死ぬのが恐いと見える。がっかりだな。戦女神と謳われたおまえも、ただの娘だったとはなっ!」
亜梨子には、間男が何を言っているのか、全く理解出来なかった。ただ、間男の声の響きで、彼が自分に対して悪辣なことを言っていることは、理解できた。しかも、人違いをしているらしいことも。
「運が悪かったと思って諦めろ!」
間男は凄い勢いで、亜梨子に向かって殺気と共に大剣を振り落としてくる。彼女はびくりと身体を動かし、咄嗟に目をきつく閉じ、俯く。
(----神様……!!)
命の崖ぷちにいる彼女には、最早、神に祈ることしか残されていないように思われた。
まさにその時である。
亜梨子の前を風のような速さで、人影と何かを振り下ろす影が、通り抜けたのである。
「……!」
その瞬間には、曲者は大きな音を立てながら、彼女の前に倒れこんでいた。
これには亜梨子も驚いた。息も飲む暇もないうちだったからである。
曲者はピクリともせず、彼女の目の前で横たわっていた。血を流した痕跡すらも覗えない。
(本当に、倒れたんでしょうね…)
亜梨子は不安になった。彼女は、本当に曲者が動かぬかどうかを確かめる為、震える手をゆっくりと、横たわる黒装束に伸ばそうとした。
「おい」
怜悧な声が亜梨子の動作を遮った。
「確かめなくても大丈夫だ。崟打ちでの気絶だ。後、二、三時間は目覚めないだろう」
その言葉も、また彼女には聞き慣れない言葉だった。声のトーンで感情のないものだと判るぐらいだ。
「怪我はないか?」
亜梨子は、頭上から降りてきた低く響く艶やかな声に導かれるように、ゆっくりと視線を上げる。
そこには、豊かな身長と、均整の取れた精悍な体躯を持つ、銀モールの黒い軍服姿の男が立っていた。彼は、広い背中を向け、立派な大剣を鞘に収めるところだった。
その動作を一つ取っても、大変洗練されている。
亜梨子は、とりあえず礼を言おうと、男の背中に向かって言葉を発した。
『あっ、有難うございました……』
その聞いたことのない言葉の響きに怪訝に思いながら、男はゆっくりと振り返る。
その瞬間、亜梨子は息を飲んだ。
----そして、男も。
亜梨子は、男の美しさに息を飲んだ。食らい緋色に輝く髪。長い前髪が影を作る、どこか憂いのあるブルーグレイの右瞳と、鋭く光るエメラルドの左瞳。筋の通った鼻、官能的な唇。それらを縁取る形のよい顎。その美貌は、彼女のみならず、若い女性の心を奪うには十分な要素だった。
(こんな人、この世におったんや……)
亜梨子は、嬉しい驚きに、頭の中が麻痺してゆくのがわかる。
しかし、男は亜梨子以上に驚いていた。
彼は自分の目を疑った。そんなはずがないと、何度も彼女を凝視したが、答えは同じだった。
(似ている…! 見れば、見るほど、よく似ているのが判る…)
自分を見つめている少女は、髪の長さこそ違え、その大きな瞳も、小さな鼻も、薔薇の蕾のような唇も、塔の一番新しい住人と、全く違わない。長いうすでのボーダーのシャツと、ジーンズという、アリアーヌなら決してしなかった格好をしてはいたが。
「----アリアーヌ…」
男は声を殺すように呟いた。
その呟きを、亜梨子は聞き逃さなかった。先ほどの間男も、全く同じことを言っていたからである。その響きから、彼女は子の言葉が名前を指す物であり、男にとっても、間男にとっても、重要な人物であることが想像できた。
(アリアーヌって人は、いったいどんな人なんやろうか…)
(----今更、似ている者が現れたところで、俺の感情はどうもならない。アリアーヌの魂を持つ者ではないから…)
男は口元に嘲笑を浮かべ、先ほどよりもさらに憂いを秘めた、翳りのある瞳で宙を見つめた。その鋭さと悲しみが交錯した光は、彼の異色の瞳の奥に影を作っている。彼は自分の世界に閉じこもってしまったように、亜梨子には思えた。
超然的な雰囲気が男にまとわりつく。
彼女は、置いてけぼりを食らったような気分になりながら、彼に話し掛けるための勇気をかき集めた。自分がどこにいるのかを、確かめたかったからである。
(----よぉーしっ!)
『あ、あのっ!』
亜梨子は声を上ずらせながら、思い切って言葉を発した。
その聞き慣れない言葉の響きに、男ははっと我に還った。彼が静かに亜梨子に目をやると、そこには表情の硬い少女が、自分に縋るような眼差しを向けている。
(----そんな瞳で俺を見るな…! アリアーヌと同じ顔の者に、そんな顔をされると、俺は…、俺は…!!)
彼女の視線は、男に苦々しい過去を思い出させた。胃が強張り、苦い味が口に広がるのが判る。縋られているのにもかかわらず、責められている気分にさえなる。彼は、亜梨子の視線から逃れるように、瞳を閉じた。
彼女は、明らかに男の拒絶が判ったが、それでも、彼しか質問する相手がいない以上、ぶつかるしかない。彼女は言葉を続ける。
『あっ、あの…、あたし、ここがどこか、まっ、全く検討が…、つっ、つかないんですけど…、ここはどこですか?』
やっとのことで、彼女はしどろもどろのなりながらも、命の恩人に一番訊きたいことを尋ねた。
男はじっと、亜梨子の発する聞き慣れない言葉を注意深く聞いていた。
(----この娘は、顔こそ同じだが、アリアーヌとは別の魂だ…。ここにいるのは、ただの怯えた少女だ。国家を導く、気高き魂の持ち主ではない…。
----しかし、“今日”という日にここに現れるとは、皮肉なものだな…)
心が平成になってゆくのを、男は感じる。彼は瞳を閉じたまま、軽い深呼吸を一度すると、ゆっくりと口を開いた。
「悪いが…、あんたが何を言っているか、俺には理解出来ない」
その声は艶やかで、低くよく通る声であったが、感情のない無機質な響きがあった。
亜梨子はこの時初めて、男が明らかに日本語とは違う言語を操り、自分とは言葉での意志疎通が困難であることを、初めて知った。
その瞬間、この世界に来てからの緊張感と絶望感が、大きな波となって、彼女の身体に一気に押し寄せてきた。震えが始まり、歯がガチガチと音を立てて鳴る。体には一切力が入らない。
亜梨子は、急に哀しくて仕方がなくなり、大きな瞳に涙をいっぱい貯めていた。
『どうしたらいいか判らへんよぉ! 家に帰りたいよぉ!』
肩を震わせながら、彼女は泣き叫ぶ。
男は、亜梨子の悲痛な叫びを、涙声と言葉のトーンで理解し、それに反応するように双眸を開けた。彼は無表情で、泣き喚く彼女を見つめると、そのまま彼女の前に静かに腰を降ろした。
(----この娘には何も罪はないのだ…。ただ、アリアーヌに瓜二つだということを除けばだが…)
男は長い足であぐらをかくと、少し困ったように、形のよい眉を顰める。
「……?」
思わぬ男の行動に驚愕して、亜梨子は泣き叫ぶのを思わず止めてしまった。絶望より、驚愕が大きかったからである。
だが彼女には、男の行動は有り難かった。自分をひとりにせず、そのまま傍にいてくれるのだから。命を助けてくれた上に、このように無言の労りを示してくれた。この男の優しさを、彼女は少し理解出来た気がした。
夜風を通して、人の温もりを感じる。亜梨子は、徐々に心が安寧に向かっているのを感じていた。
(----この人は、ぶっきらぼうかもしれないけれど、あたしを助けてくれた…。今、こうして、不安を取り除くために、こうしてあたしの傍にいてくれる…)
彼女の心にゆっくりと温かいものが流れてゆく。それは不思議と彼女を落ち着かせ、母親の胎内にいるような、大いなる安らぎを生んでいる。
(この人は、信頼してもいい人なのかも知れない…)
亜梨子は男の端正な横顔を見つめる。精悍さが輝いている横顔。
(----ここがどこか判らない以上、あたしはこの人の言うことはすべて信じよう、この人の言うことはすべて訊こう。きっと、あたしの取ってはそれが一番良いことだろうから…)
彼女の大きな瞳は、決意を秘めて、太陽のように力強く輝く。心のどこかで、男への信頼感は決して揺らぐことはないだろうと、彼女は感じる。それは、命の恩人だからだけではなく、彼の心根の深さを感じたからだった。
亜梨子の男への信頼。それは、始めてみたものを親だと思う鳥の習性と同じ、“刷り込み”だった。
彼女は、混乱の中でも、この世界で生きることを、本能で覚え始めていた。
「もう、大丈夫のようだな」
亜梨子が落ち着きを取り戻したことを確認すると、男は、胸元につけていた小さな機械を静かに取り出した。
『それ、何ですか?』
彼女は機会を指差して訊いたが、男は無表情でぷいっとそっぽを向いた。彼はその機械を何度顔して、そのまま口元へと持ってゆく。
(アハハ、言葉が通じないんじゃ訊いても無駄か。見るだけ、見てよ)
彼女が、じっと男の持つ機械に注目していると、それに向かって何か言葉を呟き始めた。
「マドリナ騎士団長、カイン・レッドファルトから、騎士各位へ、“祈りの塔”中庭Dブロックにおいて、不審者侵入。現在不審者は気絶している。至急駆けつけ、事後処理を頼む」
「了解」
機械からは、男の言葉に対しての部下の返答が聞えている。
亜梨子は、男と機械から聞えた声が何を言っているかは判らなかったが、機械がどのように使われるかは、理解出来た。
男はさらに機械の操作を続ける。
「はい、レイチェル・キャメロンです」
今度機械から聞えてきたのは、怜悧な響きのある女性の声だった。勿論、亜梨子には理解出来るはずはなく、彼女は何とかヒヤリングだけを心がける。
「カイン・レッドファルトだ」
「何、カイン。何か緊急事態かしら?」
「今からそっちに娘を一人連れて行く。その娘について、少し知恵を借りたい」
「どういうこと!?」
レイチェルの怪訝そうな声が、機械を通して無機質に響く。その響きからの意味なら、亜梨子にも十分理解することが出来た。
(何やろ?)
彼女は判らぬまま、ヒヤリングを続ける。
「ここでは言えないが、娘に逢えばわかるだろう」
「判ったわ」
「それと、ブリストル騎士団長殿、ハルモニア騎士団長殿、ミゼフィールド騎士団長殿、そして我が副官殿も呼んでおいてくれ」
「人使いが荒いわね。いいわ、ジェラール、フィリップ、マクシミリアン、ラインハルトには連絡しておくわ」
「すまない後でな」
「ええ」
男は静かに機械を着ると、疲れたように大きな溜め息を吐く。彼は、赤銅の輝く長い前髪を神経質にかきあげる。
「ったく、今日は何て日だ…」
亜梨子は、ずっとヒヤリングをしていて、気がついたことがあった。先ほどから頻繁に聞えていた“カイン”というのは、ひょっとするとこの男の名前かもしれないと。彼女は恐る恐る訊いてみることにした。
「カイン?」
亜梨子は、“あなたの名前はカイン?”という意味で、男を指差しながら訊いてみる。
彼女の意図したことが理解したのか、男は口角を僅かに上げると、自分自身を指差し、
「そう、俺はカインだ。カイン・レッドファルトだ」
と答えた。
カインが、自分の意図を理解してくれたのが何よりも嬉しくて、亜梨子はちょっとはにかんだ、しかし零れるような微笑を彼に向けた。
その瞬間、彼は虚をつかれた気がした。亜梨子の笑顔は、誰もがうっとりと酔いしれ、抱きしめて護ってあげたくなるような、それだったからだ。笑顔はその人の人柄を表す鏡だというが、彼女もまたそうだった。
カインは、亜梨子の吸い込まれるような輝く笑顔に、釘付けになる。同時に彼は、苦しく切ない思いでいっぱいの、自分を感じる。
(純粋な笑顔。以前のアリアーヌと同じか)
その笑顔は、カインに、アリアーヌと亜梨子の同質さを肯定させるのと同時に、異質さも肯定させていた。
彼は、二度と逢えないと思っていた微笑を亜梨子の中に見出し、苦しさを感じる。
亜梨子の微笑みは、以前のアリアーヌと同じく、向日葵のように眩しく、カインに安らぎすら覚えさせた。瞳が明るく輝き、未来を示してくれるような、そんな笑顔。
(安らぎなんて、とうになくした…。今の俺には縁のないものだと判っている。しかし)
カインは、心の表面では否定をしても、心の底では判っていた。今の自分に最も必要なのは何かを。そして、息苦しさの理由も。
彼は瞳を伏せてかすかに笑みを浮かべる。
(別人なのは、よく判っている)
彼の異色の瞳は、自嘲気味な微笑を僅かに湛えて、亜梨子を捉えた。
彼女はその艶やかさに一瞬どきりとする。
今度は自分の番とばかりに、亜梨子は自分自身を指差した。
『亜梨子! 亜梨子、倉橋亜梨子!!』
調子付くように誇らしく、彼女は何度も自分の名前を伝える。
「アリコか…」
カインは口元に僅かな微笑を湛え、低い声で呟く。亜梨子は満足するかのように何度も頷いた。彼女は、初めて意思疎通が出来たことにとても喜び、何とかなるかもしれないと、思い始めていた。
亜梨子の良さは、このようにどんな状況になっても挫けず、前向きに考えることが出来る明るい性格にあった。
カインは、亜梨子の喜怒哀楽総てを、アリアーヌと重ねずにはいられなかった。
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コメント
「時空の翼」四回目です。
ようやく二人は出会い、お互いに名前を名乗ることが出来ました。
次回は仲間が出てきます。お楽しみに…。
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