約二時間のライヴは、亜梨子を新しい世界に導き、恍惚とさせた。彼女は、感動と衝撃の余韻の波に覆われ、呆然としていた。
「亜梨子っ!」
美紀の声に、亜梨子の精神は余韻の波から引き離された。
「あっ、何?」
「ほら、もうお帰りの時間よ」
「あっ、うん」
美紀の言葉に亜梨子は現実に還り、周りを見た。オーディエンスたちは次々に出口に向かっており、客席サイドには、亜梨子たちがポツンと取り残されていた。
「あっ、そうだ! 零史くんにお礼を言わなきゃ。どうやったら、つかまるやろう?」
亜梨子は、さりげなく言ったが、心の底では、零史へのお礼よりも、カイに逢えるかもしれないという期待感の方が、大きかった。
「出待ちしていたら逢えるよ。あたしも、リョウさんの出待ちしたいし」
麻衣は、二人の腕を取ると、彼女たちを出口へと誘う。亜梨子たちの返事を聞くのも無駄とばかりに、その暇も与えてはくれない。
「メンバーが楽屋から出てくるのを、機材車の前で待つことをいうの。みんな、お話したりするチャンスを狙ってるもん! あたしも行きたい!!」
美紀は自分自身が楽しみなせいか、亜梨子を誘う口調にも力が入る。
「んじゃ、行こうか!」
三人は、ライヴハウスの裏手にある楽屋の入り口へと向かった。その道なり、三人は、逸る気持ちを抑えきれずにいた。
「カイとお話出来るやろか」
「ホンネが出たね! ----まあ、クールな人だからね…」
「麻衣、そんなこと言っちゃダメよ。チャンスは万に一つでもあるかもよっ!」
「そうやんな!」
美紀の言葉に、亜梨子は少し期待を持ち、その想いはどんどん大きくなってゆく。想像力が膨らみ、零史へのお礼のことはすっかり忘れて、カイと話せるような気分になっていた。
三人が楽屋に着くと、亜梨子は、楽屋口の女の子の凄さに、目を奪われた。
「凄い人!」
亜梨子は、楽屋待ちする女の子の数に圧倒され、思わずその大きな瞳を、更に丸くする。
楽屋口は、車道と駐車場に近い、決して安全とはいえない場所にあった。機材車が停めてあるせいか、人が立てるスペースはほんの少ししかなかった。それでも、メンバーたちの顔を、一目でも見たいファンの女の子たちで、楽屋口は一杯になっていた。
熱気と興奮が渦を巻いて楽屋口を包んでいる。先ほどのライヴよりもまして、狭い場所により、鮨詰め状態もひどいものになっている。呼吸困難地帯だ。
そんな中、亜梨子たちも半分酸欠になりながら、楽屋口を一生懸命注視する。誰の視線も、その一点に続いている。
(うっ、あたし、チビやから辛いわっ)
亜梨子はもみくちゃになりながらも、精一杯の背伸びをし、来る時間へと備える。
やがて、楽屋口にメンバーが姿を現すと、黄色い声援が辺りにこだました。麻衣と美紀も例外ではなく、目当てのメンバーが出てくると絶叫していた。メンバーたちは手を振ったり、微笑んだりしてファンサービスを怠らない。ファンと気軽に話したり、写真に応じたりするメンバーもいる。
「ちょっと、零史くんっ!」
亜梨子が、背伸びをしながら零史を捜し出そうとしていると、カイが楽屋口に現れた。
彼は黒のパンツに革のブルゾンの出で立ちで、着こなしにも一分の隙もない。
彼の登場で黄色い声援は最高潮に達し、にわかファンの亜梨子などは、零史を捜すのも放り出して、カイの名前を何度も絶叫する。
しかし、カイは相変らず超然とした態度を崩してはいない。彼は瞳にかかる長い前髪をかきあげ、その姿がまた絵になる。恍惚の溜め息が、彼方此方から漏れる。
不意に、カイの視線がぴたりと一点に止まり、亜梨子は彼と視線が絡まるのを感じた。
それは僅か一秒ほどのことだったかもしれない。しかし、彼女にとって、それは“永遠”のような長い時間に感じられた。
突然、亜梨子の耳に、あの囁き声が聴こえてきた。
早ク見ツケテ 俺ハココニイルカラ----
(またあの声だ)
亜梨子は一瞬動きを止めた。
「あっ!」
彼女はその僅かの隙に、“エンジェル・ウィング”に近付こうと、前に行こうとするファンたちに、小さな身体を押し出され、そのまま車道へと投げ出された。
「いたたっ!」
亜梨子は不恰好にも車道の中央で転び、大きく尻餅をついた。
「しょーがねーなー」
その音で、零史も亜梨子に気付き、ファンの群れをかき分け、車道へと出ようとする。
「あーあ、ぼーっとしてるから」
美紀と麻衣はうんざりと亜梨子を見、彼女はそれに応えるかのように、舌を出して苦笑いした。
その時だった。
「倉橋!!」
「亜梨子ぉぉぉ!」
「ありんこぉぉぉ!!」
零史、麻衣、そして美紀の壮絶な悲鳴に、亜梨子は我に還り思わず振り返る。そして、その声に導かれるように、“エンジェル・ウィング”のヴォーカル・カイも、呆然と車道を見た。
車道の信号が青になり、一台の白いワゴン車が、孟スピードで亜梨子に向かって突っ込んできていた。運転手は何度もブレーキを踏んだが、効かず、蒼白になってハンドルを握っている。
息を飲む間もなく、亜梨子の瞳にヘッドライトの光が入り、彼女は思わず目を眇める。
「倉橋!!!」
「亜梨子!!!」
「ありんこ!!!」
零史、麻衣、美紀が大声で悲壮な叫びを上げた、瞬間----
亜梨子は大きな衝撃と共に、体が宙に舞い上がるのを感じた。それと同時に、全身が閃光に包まれるのが判る。
(あたし……、死んだんかな)
ゆっくりと体が墜ちて行くのも判る。まるで、スローモーションだ。身体が地面に着地しても、全く痛みが伴わなかった。それが、亜梨子には不思議だった。それどころか、ふわふわと暖かくさえ思う。
現実では、白いライトバンに亜梨子は轢かれ、宙に舞った後に、地面に叩きつけられていた。
麻衣と美紀がすぐ様、亜梨子に駆け寄り、彼女を必死になって抱き起こす。零史は、亜梨子の横に座り込み、楽屋口の前にいた者たちは、くるりと彼女を囲む。
しかし、亜梨子自身はまるで事態の深刻さが解らなかった。
亜梨子は、自分の頭上で繰り広げられている人々のざわめきを遠くに感じながら、ぼんやりとしていた。
「おい、倉橋、しっかりしろ!!」
「亜梨子っ、亜梨子っ、しっかりして!!」
「ありんこっ、目を開けな!!」
亜梨子は遠くで、零史、麻衣、美紀の声が聴こえるのが解る。
彼女は、暫しぼんやりしていると、不意に、自分の身体が、ふわりと逞しい腕に抱かれ、脈を取られているのを感じた。
「おいっ、救急車の手配を」
聞き覚えのない艶やかな低い男声が、激しく乱れているのが、かすかに解る。
(何で、みんなそんなに慌ててるん? あたしは元気やで)
男の指示の声と共に、いくつかの足音が遠ざかるのが解る。同時に誰かの温かな逞しい手が、亜梨子の指を優しく包むのを感じた。
亜梨子は悟る。その手は、自分に呼びかけていた者の声ではないかと。
(懐かしい…。暖かい手…。あなたがあたしに呼びかけてたん? あなたは誰なん? あたしは一体あなたの何やねんやろ? 何で私を捜してたん?)
亜梨子の身体が、突然ふわふわと浮き始める。
「あっ、何!?」
突然、亜梨子の目の前を、激しい風と、眩しい光が翼になって通り過ぎ、彼女は目を眇め、身体のバランスを失う。
「ああっ、と!」
彼女は宙でもがきながら、必死に身体のバランスをとった。
ふと、若い女の透き通った声が、亜梨子の耳に入ってくる。とても魅力的な声だ。
『時は満ちた。イシュタリアの大地の為に、目覚めよ! “聖なる翼”よ!』
その声が消えると共に、亜梨子は不思議な感覚を感じる。
(何、大層なことを言ってるん? イシュタリアって何なん? “聖なる翼”って?)
「ま……たっ……!」
再び彼女の右脳に激しい痛みが伴い、気が遠くなってゆく。
(何なんこれ!? 助けて! お父ちゃん、お母ちゃん、ママちゃん、麻梨子!)
亜梨子の周りが暗闇に包まれ始める。
(暗い…!! 恐い…!!)
彼女は暗闇に飲まれ始め、その思考も飲み込まれてゆく。
今まで亜梨子が生きてきた世界が、うたかたとなってゆく。
(----あたしは…、どこに行くんやろ…)
彼女は暗い空虚の中を、すさまじい勢いで落下してゆく----
それはちっとも恐ろしくもなく、むしろ快適だった。
やがて、落下するスピードが少しずつ遅くなり、亜梨子は近くに地面があるのを予見した。
地面から二メートルほどの高さになると、落下するスピードはスローモーションのような速さになり、亜梨子は体勢を整える余裕が出来た。
「えんやこらっと」
彼女が体勢を整えるために、足の裏を地面らしき場所に向けると、不思議と身体はひとりでにゆっくりと足から着地した。
「おっとと」
亜梨子は辺りを見渡す。
「みんなどこにおるん? 美紀! 麻衣! 零史くん!」
彼女がきょろきょろしながら、友の名を呼ぶが返事はない。
どこを見ても、何もなく、誰もいない、冷たい“無”の空間。光も投げかけてはくれないような場所。
亜梨子は次第に心細くなり、半ば頭が混乱してくる。その茶色の大きな瞳には、涙の粒が光り始めた。
「お父ちゃん! ママちゃん! 麻梨子!」
彼女はまるで迷子になった幼子のように、必死の形相で、家族の名前を泣き叫ぶ。
(おっ、おちつけっ! 亜梨子! これは夢なのよ、夢の中。よくあるやん、恐い夢を見た後に目が覚めて、“あ、夢でよかった“ってことが)
亜梨子は自分いそう言い聞かせながら、思い切りその頬を抓ってみる。
「あいたっ!」
痛みもしっかり感じ、彼女は思わず顔を顰める。その大きな瞳からは大粒の涙が止め処なく流れ、その流れを止めるために、天を仰いだ。
「痛いよ…」
亜梨子は鼻をすすりながら、行く宛てもなく、とぼとぼと歩き始めた。何の道標もなく、何の目的もなく、ただただ歩き続けていた。
そのうち彼女は冷静に物事が考えられるようになり、自分に何が起こっているかを分析し始めた。
彼女の脳裏に先ほどの事故の記憶が蘇る。
(あたしは確か交通事故に遭ったはずなのに、こんなにピンピンしている…)
亜梨子はピタリと立ち止まり、身体のあちこちに触れてみる。特にどこも痛くなく、怪我をした痕跡すら残っていない。
彼女は怪訝そうに眉根を寄せる。
(----それに…、夢にしては現実過ぎるし、死んだにしても、痛みを感じる…)
亜梨子はふと自分頭上に異変を感じ、宙を見上げた。
「何か…、わあっ!」
何もなかった空間に、乱舞する羽根の影が亜梨子の視界を覆い尽くす。それはまるで、天使たちの群れとも、彼女が生きていた世界の断片とも感じられる。
再び、激しい風が吹き始める。先ほどと同じ風だ。余りの激しさに、亜梨子は立っていられなくなり、身体を護るように蹲った。
暗闇から一転し、今度は目が眇むほどの、眩しく力強い光が彼女を包む。
『アリコ、アリコ』
光と共に、あの透明な声が再度、亜梨子に呼びかけてくる。
「あっ、あなたは誰? 姿を見せて!」
彼女は手で光と風を防ぎながら、まるで消え入るような声で呟いた。
『期が熟していないわ。姿はまだあなたに見せられない』
「だったらせめて、どうしてあたしがここにいるかを教えて!」
亜梨子の瞳の中で懇願が揺らめく。その声からは焼け付くような渇望が迸っている。
風に乗って、声が紡ぎだされる。
『それは、あなた自身で見出すもの。あたくしが選んだあなただから、きっとやり遂げられる』
“透明な声”は氷で出来た月のように、冷たく、落ち着いた光を放っている。
「あたしはそんなこと聞いてへん!」
亜梨子はひどく突き放された感じがし、遂に、不安を一気に爆発させるかのように、癇癪を起こした。
『アリコ、あなたにはこれが必要ね』
“透明な声”は冷静に亜梨子を分析し、柔らかな光を彼女に向かって発した。
「あっ!」
亜梨子は、光のスピードに、刹那、目を奪われる。
光は、次第に、亜梨子のどろどろとした感情を全て奪い去ってゆく。
(心地好いものが、心に広がってゆく。何やろ、この暖かい気分は…)
柔らかい光と共に、また透明な女性の美しい調べが聴こえる。
それと共に、亜梨子の意識は朦朧としてくる。それは心地のよい、転寝のような感覚だ。
『この世界でも、あなたに、あなたの世界と同じ肉体を与えましょう。これはあなただけに与えられた特権。だけど、この肉体がる限り、元の世界の肉体に、精神を還せない。
----さぁ、目覚めなさい、“聖なる翼“よ!」
段々声が遠くなるのを、亜梨子は感じていた。
(“聖なる翼”って、何やろう? あたしにはカンケーないやんな…)
彼女は再び、空虚の中を墜ちてゆく。今度は心地よさも伴っている、スピードも、先ほどとは比べ物にならないほど、ゆったりとしている。
(何だか、いい気分…)
亜梨子は再び意識を無くした。
新たな世界に行くために----
闇に包まれた小さな部屋で、一人の預言者が水晶球の前に座っていた。その周りを厳しい表情をした男たちが囲んでいる。
預言者は大きな布で頭をすっぽりと覆い、その表情は窺い知れぬが、澄んだ蒼い二つの瞳だけが、水晶球に向かって光を放っていた。
「……!!」
預言者の瞳は、一瞬大きく開かれ、天を仰いだ。水晶球を包む手は、小刻みに震えている。預言者は紅葉した気分を落ち着かせようと、深呼吸をする。
預言者はやがて、部屋の一番奥にいた銀の髪の男に向かって、その澄んだ蒼い双眸を力強く開いた。
「天空を割り、イシュタリアの地に”聖なる翼“が現れた-----」
その声は、高らかに部屋に響き渡り、運命の幕開けを予兆していた。
TO BE CONTINUED
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コメント
拙いtinkのオリジナルを読んでくださる方がいると知って、更新しました。
ようやくプロローグが終了です。
これ、読んでらっしゃる方、どれぐらいいるんだろう…
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