NEVER GONNA LET YOU GO


 翌日から、アンジェリークはマリウスの秘書として働き始めた。
 彼が用意してくれた住まいは、とても豪華で、アンジェリークは身分不相応だと感じずにはいられなかった。
 普段は接待などで使用するマンションを当分は無料で貸してくれるということだった。
 しかも、秘書としての服もひと揃え用意してくれたのだ。
 ここまでしてくれた彼にはもう、お礼の言葉が数えられないほど浮かぶ。
 そして、思い浮かべるのは、やはり彼がアリオスだからここまでしてくれるのではないかということだった。
 その彼の恩に報いるためにも、アンジェリークは必死になって働くことにした。
 勿論、休みの日はアリオス探しにあたりを彷徨う。

「アンジェリーク、コーヒーを淹れてくれ」
「畏まりました」
 アンジェリークは、アリオスが好きだったブラックコーヒーを、彼の好みに合わせて出す。
 マリウスはそれに対して、いつも何も言わずに飲んでいた。
 だが、彼にも疑念がないわけではなかった。

 どうしてアンジェリークは俺の好きなコーヒーの味が判るんだ…

「マリウス!」
 夕方、彼の婚約者であるメリッサが着飾って仕事場に訪れた。
 今夜は慈善パーティがあるらしいのだ。
 彼女は華やかな容姿をしており、マリウスと並ぶと似つかわしい。
 長身の彼とモデルのようなスタイルの彼女が並ぶ姿は、アンジェリークには苦痛だった。
 そのうえ、彼女はアンジェリークに結婚式に着るドレスの相談などを持ちかけてくるために、さらに心は痛かった。
「ねえ、マリウス、早く支度をしてね」
「判ってる」
 少し苛立ちを覚えながら、彼は手早くタキシードに着替える。
 本当は、このようなパーティーなど行かず、この場所で、アンジェリークと一緒に仕事をしておきたかった。
 今の彼にとっての安らぎは、皮肉なことに"仕事"であり、アンジェリークと取るつかの間の休憩時間であった。
 マリウスは、ヨットの事故に遭った四ヶ月前から、すでに婚約者とは関係していなかった。
 まったくその気になれなかったのである。
 それどころか最近は、どうして彼女を愛して、婚約までした自分が判らないでいた。

 確かに俺は…、四ヶ月前にヨットのセーリングで事故に遭い、一月間記憶を失っていた…。
 だが、その期間でこんなに嗜好が変わってしまうんだろうか…。
 俺は、こいつにはもう魅力を感じやしない・・・

 アンジェリークを彼はじっと見詰める。

 俺が本当にこいつの"アリオス”であればいいのにと、思わずにいられない…。
 皮肉なものだな…。
 俺はこいつの恋人と同じ容姿だというのに、思い人にはなれねえだなんてな・・・。

 アリオスが着替えている間、メリッサはアンジェリークの仕事振りをじっと見ていた。
「あなた、アルカディア公国の出身なんですってね?」
「ええ」
 アンジェリークは、メリッサの顔を見るのが微妙に辛くて、下を向いたまま、答える。
「あの国のね、リゾートに新婚旅行に行こうってマリウスと話してるんだけれど、いいところかしら?」
 屈託なくアンジェリークに訊いてくるメリッサの存在が今は辛い。
 だがアンジェリークは何とか笑顔を作って、答える事にする。
「ええ。素晴らしい所です」
「そう!!」
「支度が出来たぜ」
 マリウスはぱりっとしたタキシード姿で少し不機嫌な表情をしながら現れた。
 長身にタキシード姿が良く似合い、アンジェリークは暫し見惚れてしまう。

 アリオスも似合ってたな…。

 その視線をマリウスは複雑な気持ちで受け取る。

 この眼差しが、俺ではなく彼女の恋人に向けられていることは判っている。
 だが、それが自分であればいいのにと、彼は深く祈ることしか出来なかった。
 その思いを振り切るかのように、マリウスは婚約者に手を差し伸べた。
「メリッサ、行くぜ?」
「ええ」
 メリッサの手がすっと彼の手に滑って、絡められる。
 それを見るのは、アンジェリークにとってはかなり辛かった。
「じゃあ、アンジェリーク後は頼んだ」
「はい、行ってらっしゃいませ…」
 マリウスを見送りながら、アンジェリークは頭を下げた。
 ドアが閉まる音がして、アンジェリークは頭を上げると、大きな溜息をひとつついた。

 この瞬間が…、私は一番嫌い…

 アンジェリークは、なぜだか涙が込み上げてくるのが止まらない。
 涙を何とか拭いながら、仕事の後片付けをして、彼女は会社を後にした。
 明日また恋人のアリオスを探しに行くために、今夜もゆっくりと疲れを仮住まいで取るのだ。


 パーティもそこそこに、マリウスは義務的にメリッサを送った。
 彼女が誘うにもかかわらず、彼は家まで送り届けて、それだけで帰ってしまう。
 彼の無機質な態度に、メリッサは呆れ、その足で男友達に電話をして、再びどこかへと出かけることにした。
 祖父の家の隣にある自宅に帰りながら、彼の心は、栗色の髪の恋人に一途な少女のことしかなかった。

 どうしてだ・…?
 俺はあいつのことが気になってしょうがない・…。
 秘書のことだって、あいつを俺の側におきたいと一目で思ったからだ…。

 銀の髪が苦しげに揺れる。
 マリウスはいつのまにか、自宅ではなく、アンジェリークを住まわせている会社のコンドミニアムへと車を走らせていた----


 激しいインターフォンの音がして、アンジェリークは慌てて受話器を取った。
 その画面に映るのは、タキシードを乱したマリウス。
「社長!」
 彼女はびっくりして、慌てて玄関へと向う。

 こんな時間に社長は一体…。

 胸が高まるのが彼女も感じる。
 だが、それはあまりにも不謹慎な思いのような気が、アンジェリークはした。
「社長」
 ドアを開けて、アンジェリークは彼を見つめた。
「いいか?」
「はい、どうぞ」
 取りあえずは彼を部屋の中に招き入れて、アンジェリークはリビングに案内した。
「スミマセン、散らかったままで」
「綺麗にしてるじゃねえか・・・」
「お茶しかありませんけれど、淹れますね」
「サンキュ」
 彼はリビングのソファに腰掛け、キッチンに向ったアンジェリークを待った。
 ふと、机の上に広げられている地図を見つめながら、彼は一目でこれが何を意味をしているかが判った。
 ×が付けられている所を見ると、恐らく恋人を探して見つからなかった証なのだろう。
 それを見ていると、何だか無性に嫉妬が湧きあがってくる。
「お待たせしました」
「ああ」
 温かなお茶を、アンジェリークは持ってきてくれた。
「サンキュ」
 受け取ったのはただのダージリン。

 おれはあまりお茶は好きじゃなかったが、あいつが淹れてくれたダージリンだけは好きだった…

 そこまで考えて、マリウスははっとする。

 俺は…今なんて・・・

 急に頭が混乱してくる。
 マリウスは頭を抱えて急に俯いた。
「社長!? 大丈夫ですか!!」
 アンジェリークはすぐさま彼に掛けより、彼の肩に触れる。
「・・ああ…なんともねえよ…。時々、何だか記憶の渦が俺に迫ってくる…」
「え!?」
「俺は四カ月前にヨットで事故ってから、昔の記憶が曖昧なんだ・…」
 苦しげに話す彼に、アンジェリークは驚いて彼を見る。

 昔の記憶が曖昧…!!!

 アンジェリークには衝撃と光明が一気に吹き上がってゆく。
 だが、苦しげな彼を見ていると、そちらもまた辛い。
「少し・…、休まれたほうが…」
「ああ・…」
 アンジェリークは彼に肩を貸した後、支えるようにして立ち上がる。
「ここにはたくさんベッドがありますからお休みになって、明日お帰りになってください…。落ち着けば何か判るかもしれませんから…」
 アンジェリークの心の中で、彼がアリオスである確信がますます膨らんでいく。
「ああ」
「きゃあっ!」
 ベッドに彼を寝かせる際、アンジェリークは足を滑らせてそのまま、マリウスとともにベッドに倒れこんだ。
「あ、ごめんな・・・んっ!!」
 そのまま深く唇を奪われて、アンジェリークはその唇の感触に、喘ぐ。

 これは…アリオスと同じキス…!!!
   
TO BE CONTINUED・…

コメント

20000番のキリ番を踏まれたnemori様のリクエストで、
「失踪した恋人アリオスを見つけたアンジェだが、アリオスは記憶喪失になっていてアンジェのことが判らなくなっていた」
です。
いよいよ次回は…です(笑)