アリオス----
その名を聞くたびに、胸の奥に甘い痛みを齎す。
彼と共に旅をし、心から笑えたあの日々。
彼の気持ちを感じたと頬を緩めた途端、彼は倒さなければならない相手へと豹変し、私は哀しみに暮れた。
それでも、私は、彼への想いを、止めることが出来なかった。
彼と旅をしたあの日々は既に遠くなってしまった。だが、あの旅で共に過ごした想い出は、時の流れとは別の場所に眠っていて、今でも鮮やかに一瞬、一瞬を事細かに思い出すことが出来る。
『故郷の宇宙の危機』
確かにそうだったかもしれない。
だが、私にとっては、確かに、輝ける日々だった。
そして----初めて恋をした日々でもあった。
恋は、最初から始まっていた。
彼に最初に出会ったのは、白亜宮の惑星の宿屋。
火事に遭い、助けてくれたのが彼だった。
目を開け、最初に飛び込んできた、艶やかな銀糸。まるで宝石のように濡れて輝く翡翠の瞳。
一瞬、彼こそが天使だと思った。
まさしく私にとってはそうだった。
「…あなたは…」
「アリオス。ただの旅人だ」
良く響くテノールと共に、彼の名前が、あたりまえのように私の心の中に入り込んできた。
私の心の中にずっと眠っていた名前。
意味が知りたくて、幼い頃、辞書で調べた名前。
あの日、占いで告げられた名前を持つ男性に、私はようやく出逢うことが出来た。
アリオス----
“旋律の美しい“と言う意味を持つその名は、私にとっては特別な意味を持っていた。
運命の男性は彼かもしれない。
それは、私にとって“刷り込み”だった----
この日から、アリオスは私にとって、苦しい旅の心の拠り所になった。
旅の重圧を背負い、私の疲れた心を、彼はさりげなく癒してくれた。
彼になら素直な自分を晒すことが出来た。
ごく自然に、私は、彼のことを目で追うようになっていた。
「アリオス!!」
いつものように彼を探し、私は彼の傍に息を弾ませながら子犬のように駆け寄る。
旅が始まってから、最早癖になりつつある行動だった。
名前を呼ぶと、アリオスは必ず口角を僅かに上げて微笑んでくれる。
それはどこにいても同じ。
そして、私を見る眼差しには、いつも深い憂いがあった。答えが見つからず思案に疲れたような、そんな虚脱の色があった。
その色を、取り除いてあげたかった。
それごと彼を受け入れてあげたかった。
彼を守ってあげたかった。
彼を救ってあげたかった。
その為なら、なんでもしてあげたかった。
「アリオス!!」
もう一度彼の名を呼ぶ。
旅の間、その意味を噛み締めるように、私は何度その名前を呼んだだろうか。
そのたびに、私は彼への想いの深さを感じてしまう。
「ったく…、一回呼べば判るって」
憎らしい口の訊き方も、すっかり心地よくなってしまっている。
「あなたの名前なら、何度も呼んでみたいもの!」
「クッ、しょうがねーな」
このような小さなやり取りですら、彼は私を虜にしてしまう。
「アリオス?」
「ん…? 何だ?」
不安げで、どこか寂しい瞳をアリオスに向けると、彼は必ず、包み込むような視線をくれる。
それが、何よりも私を安心させてくれた。
「明日は、いよいよ”虹の洞窟“に入るのね…」
「ああ。“蒼のエリシア”を修復しないといけねえからな…」
「そうすれば、陛下をお助けするために、皇帝のところに行けるのね?」
一瞬、彼の顔は、今までにないほど凍りつき、その瞳は苦しげに光った。
彼の心の悲鳴が聞こえてきそうだった。
私は、無意識に、彼をそっと抱きしめ、包み込んでいた。
「アンジェリーク…」
その声の響きは、最初惑っていて、どこか憂いがある。
私は、胸が詰まって何も言えなかった。
「どうした? いつもの元気は?」
いつの間にか私たちの形勢は逆転していて、私が彼に抱きしめられる格好になっていた。
彼の鍛えられた胸に声が響き、甘い旋律を呼吸する。
「アリオス…、お守り、貰ってくれる?」
「お守り?」
「うん」
私は、名残惜しかったが、そっと彼から身体を離すと、ずっと持っていたあの石をポケットから取り出した。
ヴェルヴェットの黒い布で出来た小さな袋に、私はそれを入れていた。子供の頃から、何度となく眺め、それを磨いてきた。眺める度、いつもくすぐったいような、幸せな気分になったのを思い出す。
運命の男性を思い浮かべて、選び取ったたった一つの石。
漆黒の菱形の石----
占い通りの人の手に、ようやく手にされる日がやってきた。
「これ。開けてみて」
胸を高まらせながら、私は緊張しつつ、彼に石の入った袋を手渡した。
「何だ…」
彼は怪訝そうに眉根を寄せながら、袋を受け取ってくれると、早速、中身を取り出してくれた。
掌に漆黒の石を乗せ、アリオスは、刹那、切なげな光を、石に投げかける。
「アリオス?」
このときの私は、彼の心の機微をきちんと理解してあげることが出来なかった。
彼が気に入らなかったのだろうと、勝手に不安になって、おずおずと彼を見上げた。
彼は、フッと深く、そして今まで一番穏やかな微笑を浮かべてくれた。
「サンキュ、アンジェリーク」
その笑顔と、一言で、私はもう何もいらないと思った。
涙が自然に出てきてしまう。
「コラ、泣くな。ったく、すぐ泣くのはおまえの悪い癖だぜ?」
「だって〜」
再び彼の胸に顔を埋めると、彼はそっと私を包んでくれた。
「サンキュ、嬉しかった…」
「うん…」
優しく、まるで子供をあやすように私の肩をそっと叩いてくれる。
すべてのことから彼をお守りください----
願わくば、私たちに愛の祝福を。
私は石にそう願いを込めた。
しかし、この抱擁が最初で最後の抱擁となってしまった
翌日、彼は消えてしまった。
彼は、私にとって倒すべき相手だった。
哀しいとか、そんな生易しい言葉では、とてもでないが表現できなかった。
慟哭が身体を貫き、私はこのまま死んでしまいたいと想うほど、心の一部を完全に剥ぎ取られていた。
けれども、私には立ち止まることは許されなかった。
何とか踏みとどまることが出来たのは、私を待ってくれている大好きなレイチェルの存在、一緒に旅をしてくださった守護聖様方、教官の方々、協力者の方々、陛下やロザリア様の優しい心、そして----
アリオス。あなたをどうしても救いたいという、私自身の心だった。
あなたと対峙したあの日。
あなたは私の前で灰燼となって姿を消してしまった。
ごめんなさい、アリオス。
あなたを救ってあげられなかった。
あなたの心を少しも理解してあげることが出来なかった。
本当にごめんなさい。
風になったあなたを、私はただ、ただ、見ていることしか出来ませんでした。
あなたを救いたい----
それは真実の心だった。
けれども、本当は、私があなたに救われていた。
あなたの笑顔が、その性質が、あなたのすべてが、私を救ってくれていた。
私を守ってくれていた。
それを、せめて、あなたに伝えてあげたかった----
アリオスが無に還った後、あの石すらも残ってはいませんでした。
新宇宙に帰り、私は再び命の誕生を見守る日々に戻った。
あの石は、結局アリオスと一緒に逝ってしまった。
そう、あの石は、私の心。
彼は心の一部を持っていってしまったのだ。
「新しい命にカンパーイ!!」
レイチェルは興奮隠せない様子で、物凄い勢いで執務室に入ってきた。
その言葉は、私の心に染み込んで、涙が出そうになる。
ようやくの苦労が報われたのだ。
興奮しているのか、嬉しくて泣いているのかわからない表情を、私はレイチェルに向けた。
これで、アリオスへの想いを少しは癒せるかもしれない----
私は一瞬そう想った。
「ねえ、新しい生命って!?」
「それがね〜、不思議なことに、金と翡翠の瞳を持つ神秘的な男の子なの。金と翡翠の瞳の新しい命にカンパ〜イ!!」
アリオス!!!
私は、心の一部がゆっくりと戻ってくるのを感じる。
もう一度遭える。
あなたもそう望んでくれたの?
だから私の宇宙に生まれてきてくれたの?
嬉しくて、けれども切なくて、胸が苦しくて、私は涙が最早溢れるのを止めることが出来なかった。
「ねえ、なぜ泣いてるの!? アンジェ!」
レイチェルにもいつか言える日が来るかも知れない。
私の初めての恋の話を。
だけど今は、この幸せに酔わせて。
あの石が、私に明るい未来を齎してくれるかもしれない。
そう感じずにはいられなかった----
TO BE CONTINUED
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コメント
「FROM THE HEART」のアリオス編です。
これは天空編ですので、これから「メモワール」「トロワ」と続いてゆきます。
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