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言ってしまえば、彼は非常に運が悪かった。
彼がそこにいたのはただの偶然だった。
―――受けたときは、なんて簡単な仕事だと思ったのだ。
何も知らない子供を殺すだけの、ただそれだけの仕事。
若い男が邪魔に入った時も、大した事だとは思わなかった。
だから、いきなり眼前の貧相な小屋の壁が爆音と共に砕け散ったときは、何が起こったのか分からなかった。
視界を覆う煙りと砂埃から顔を庇うように両腕をかざし、そして、開けていく視界にそれを下げたとき――――――
薄れていく煙の向こうで、ゆらりと銀糸が揺れた。
怜悧な輝きを放つ琥珀と翡翠の金銀妖瞳(ヘテロクロミア)が凶悪なまでに美しく、嗤う。
それに気付いた瞬間、乾いた破裂音が彼の鼓膜を震わせた。
にわかに周囲が騒がしくなる。
さすがにあの爆音なら宮殿の奥にも届いただろう。
あとは警備員が出てくるのを待てばいい。
もっとも、そうゆっくりなどできるわけがないが。
「行くぞ」
「う、うん…」
アンジェリークの小さな手を引っ張り、レヴィアスはいまだたち込める煙の中を突っ切った。
途中倒れていた『モノ』から少女を庇い、その視界に入れさせないようにする。
「走れるか、アンジェリーク」
「大丈夫。走れる」
普段は穏やかな瞳に悲壮に感じるほどの緊張を浮べ、強張った声が、それでもしっかりと頷いた。
そんな彼女にレヴィアスは優しげな笑みを向けたが、それも一瞬のことで、すぐさまきつい眼差しが前方を捉える。
「いいか、アンジェリーク。俺から離れるなよ」
鋭く囁いて、煙に霞む人影に引金を引く。
くぐもった声にアンジェリークは一瞬身体を震わせたが、怯もうとはしなかった。
レヴィアスの後に必死について行こうと、目をそらすことなくその背中を見つめる。
彼の広い背中はアンジェリークを安心させた。
こんな時にもかかわらず、自然と笑みが洩れる。
すべてがうまくいくような気がする。
―――この人がいれば。
「何だ、今の音は!」
宮殿の奥、警備を兼ねて宮殿内を見回っていたオスカーは、突然響いた爆音に声を張り上げた。
「…そ、それがどうも、どこかが爆発したらしく…」
慌てて駆け寄ってきた士官の一人がしどろもどろに報告する。
その要領のなさに、オスカーは舌打ちをした。
そんなことを知りたいのではない。
知りたいのは、今、何が起こっているかと言うことだ。
「どこが爆発した!?」
今日は彼が公爵の位を継いで、初めて正式に任された仕事だった。
それが、こんな……
犯人に対する悔しさと、自分に対する不甲斐なさにどうしようもない怒りが湧き上がる。
軋む音が聞こえるほど、歯を噛み締めた。
「分かりません、ただ……」
「ただ、なんだ!?」
「王女がバラ園に行っていらっしゃるようで…爆音もそのあたりからかと…」
「…なんだと…!?」
呟く声が掠れた。
最悪だ。
「くそっ」
忌々しげに吐き捨てる。
「俺は今からバラ園に行く。おまえたちは宮殿内の警備の強化にあたれ!」
「しょ、承知致しましたっ」
怒気を孕んだ声に、報告に来ていた士官たちがびくりと身体を震わせたが、そんなことはもはやどうでもいい。
とにかく、今は現状把握が最優先だった。
これ以上何も起こさない為に、やらなければいけないことなど山ほどある。
それに何より、王女の安否を確認しなければならない。
「陛下に御報告はしたのか?」
「はい、すでに…」
早足で歩きながら、オスカーは背後にいた部下に尋ねる。
「そうか」
彼は小さく息をつき、願った。
どうか、最悪の事態にだけはなっていないようにと。
一歩足を踏み出すごとに沈み込む、毛足の長い豪華な絨毯はやけに歩きづらく、オスカーは眉をしかめる。
心ばかりが急いで、彼を焦らせた。
歩き慣れたその場所が、とてつもなく広く感じた。
「オスカー殿」
外に出たとたん不意に名前を呼ばれて、オスカーはびくっと足を止めた。
聞き覚えのある声だったが、それが誰なのか思い出せない。
「誰だ」
警戒を滲ませ、声のしたほうを振り向くと、くすんだ銀髪を肩の当たりまで伸ばした、背の高い男が立っていた。
「お久しぶりです」
穏やかな微笑がその整った顔に浮かぶ。
その笑顔に、オスカーは彼が誰だったのかを思い出した。
驚きが顔に広がる。
「…カイン、カインか!?」
「ええ」
最後に見たとき―――確か12のときだから、かれこれ5年前か―――と変わらない笑顔。
しかしオスカーは、笑顔を返すことなくさらに顔をしかめた。
カインの主人でもある、次期アルヴィース公爵家当主のことを思い出したからだ。
彼も今日の王女の誕生会には来るはずだった。
それにいつも彼に付き従っているはずのカインがここにいるとはどういうことだろう。先ほどの爆発と何か関係があるのだろうか。
自然、表情が険しくなる。
そんな彼の危惧が伝わったのかもしれない。
カインの表情から笑顔が消え、きつい瞳がオスカーへと向けられた。
「先ほどの爆音は…」
「ああ、それを今から調べに行こうと……」
カインは一瞬視線を虚空にさ迷わせ、瞳に暗く影を落とした。
「カイン?」
眉をしかめ、問い返す。
「オスカー殿、落ちついて聞いてください。つい先刻、バラ園で王女が狙われました」
「……っ」
一瞬、本気で思考が止まった。
驚きと憤りに目の前が真っ赤になる。
掴みかかりそうになる衝動を何とか堪え、オスカーは視線で話の先を促した。
「王女は無事ですが…、一緒にいた王妃が…」
部下が息を呑む音が聞こえた。
それを背に聞きながら、自分を落ちつかせるために息を吐く。
「……そうか」
言葉少なに、答える。
それ以外どう言えと言うのか。
心の奥、噴き出しそうになる激情を必死に押さえ込み、掠れた声を絞り出した。
「それで、王女は?」
「今はレヴィアスさまと一緒に宮殿に向かっているはずですが…」
「レヴィアスと?」
「ええ。ですが、無事に逃げている、と言うわけでもなさそうですね。あの爆発からすると」
言われた意味がすぐには理解できず、オスカーは口を噤む。
開かれた口が次の瞬間閉じられ、また開かれた。
「ちょっと待て! と言うことは王女はまだ…!?」
「おそらくは。でもきっと大丈夫でしょう」
「どうしてそんなコトが言えるんだ!?」
こんな状況に陥ってさえいつもと変わらぬ態度のカインに、オスカーは苛立ちを隠せない。
対して、カインは相変わらず落ち着いた様子で答えた。
「レヴィアスさまがいますから」
脱力。
―――そうだった。
カインのレヴィアスに対する信頼は絶対だった。
それを小さな頃からいやと言うほど見せられている自分としては、溜め息をつくしかない。
とは言え、それが羨ましくもあるのだが。
「とにかく、俺は今からバラ園の方に行って来る。カイン、陛下を頼むっ」
気を取り直し―――今が一刻の猶予もならないときだと不意に思い出し、オスカーは再び足を踏み出した。今度は走る。
背後からカインの声が追いかけてきた。
「相手は10人ほどいるようですから、気をつけてください」
―――だからどうしてそんなに平静でいられるのかと、やはり首を傾げたくなるオスカーだった。
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