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沈黙は―――それを沈黙だと呼べるのならば―――そう長くは続かなかった。
アンジェリークは激しく首を振り、レヴィアスを睨みつけた。
「うそ! かあさまがしんだなんて、うそいわないで!」
「嘘じゃない」
陳腐なセリフだ。
そう思いながら膝を落とし、視線を少女と同じ高さにする。
「おまえの母親はもういないんだ」
「そんなことないものっ! だってかあさま、あたたかかったもんっ! ねむってるだけだもんっ」
瞳に怒りを湛え、それでも大粒の涙を流す少女に、レヴィアスはそっと手を伸ばした。
アンジェリークは怯えたように身体を慄かせたが、逃げる事はなかった。
見つめてくる金と翠の瞳が、言葉と裏腹に優しかったからかもしれない
そして、濡れた頬に触れた長い指先は、驚くほどに温かかった。
「…うっく、ふぅ…っ…」
新しく溢れた涙が、青年の指先を濡らす。
分かっている。
分かってしまった。
最後に触れた母親の温もりは、生あるもののそれではなかった。
今触れている温もりのように、優しくはなかった。
温かいのに、冷たかった。
「…か、さまぁっ……母さまっっ…」
涙混じりのその声に年相応の理性が戻ってくるのを感じて、レヴィアスは触れていた頬から手を離す。
「アンジェリーク」
静かに、その名を口にした。
随分昔から少女の名を知ってはいたが、彼女に呼びかけるために口にするのは、初めてだった。
「おまえはどうしたいんだ?
このままこんな馬鹿げたことに巻きこまれて死にたいのか? それとも―――」
生きたいのか?
続きを口にすることなく、胸中で問いかける。
王妃が命をかけて守ったものを、おまえはどうするんだ?
「…私、は…」
涙に濡れた海色の瞳が揺れる。
それを見返し、レヴィアスは少女の言葉を待った。
言ってしまえば、人を殺す事など簡単なことだ。
その気があれば―――その気がなくても―――すぐにできる。
だが、助ける事は容易ではない。
ただ一人を助ける為だけに多くのものを費やし、時には無駄を繰り返し、最悪の場合、他のものの命さえ奪う。
例えば、先刻の王妃の様に。
―――もし。
もしここで彼女が死にたいのだと言えば―――そうまで言わなくても、もういやだと言うのなら、自分は彼女を置いていくだろう。
死にたいと思う人間を守ってやろうと思うほど、自分はできた人間ではない。
たとえそれが、一国の王女であっても、だ。
けれど彼女に少しでも生きる意思があるのなら、生きたいのだと言えば、何をしても守りぬいて見せるつもりだった。
いや―――守りぬく。
自らの真名にかけて。
この『アンジェリーク』という少女を。
―――結局は、彼女自身の問題なのだ。
「…私、は」
細い声で再び繰り返し、アンジェリークは海色の瞳をレヴィアスへと向けた。
つい数分前までとは明らかに違う、強い意思を宿した紺碧の瞳。
「…私は、生きたい。母さまに助けてもらった命を、無駄にしたくない」
それを聞いて、レヴィアスは唇に微かな笑みを刻んだ。
そしてもう一度少女へと手を伸ばし、柔らかな栗色の髪をクシャリと撫でた。
「さて、どうするかな」
飄々と、まるで大したことではないかのように呟き、レヴィアスは窓の外を見遣った。
神経を研ぎ澄ませてみると、相変わらず微かながらも殺気が伝わってくる。
彼らはうまく隠しているつもりなのだろうが、完全には隠せていない。
「…どうするの?」
怖いのか、少し不安そうに小声で尋ねてくるアンジェリークに、レヴィアスは心配するなとでも言うように僅かに唇を笑みの形に歪めた。
「まあ、正面から出ていくのは却下だな」
おどけたように言って、肩を竦める。
意表を突く、と言う点においてはまずまずの成果をあげられるかもしれないが、すぐさま標的にされる事は目に見えている。
それでは意味がない。
彼は異色の双眸を細め、思考を働かせた。
意表を突く。
混乱させる。
とにかく彼らを慌てさせることをした方がいい。
一瞬、『爆破』という案も浮かんだが、即刻却下した。
薬莢を解体さえすれば火薬もあるにはあるが、一体どれほどの数をしなければならないのか。
第一、 今は1個の無駄も出したくない。
時間もない。
彼はぐるりと周囲を見まわした。
あるのは肥料と農具と、少量の水。
使えそうなものはまったくない。
不意に服の裾を引っ張られ、彼は視線を落とした。
「…何か、探してるの?」
「ああ」
アンジェリークはこくんと小首を傾げ、それから少し困ったように服のポケットを探り始める。
彼女は暫くポケットの中を掻きまわしていたが、やがてその表情がほんの少しだけ動いた。
何かがあったのだろう。
もっとも、期待などはするだけ無駄だろうが。
「あの…これ…」
案の定、今にも消え入りそうな声とともに差し出されたのは、トランプがワンセット。
「ふぅん」
大して役に立つ…どころかまったく思わないが、少女の行為を無下にするのも何となく気がひけて、レヴィアスはそれを受取った。
何のことはない、どこにでもあるただの普通のトランプだ。
「役に立たない、よね?」
申し訳なさそうに見上げてくる少女の顔を見つめ、再び手の中のトランプへと視線を戻す。
「………」
無言で眉を寄せる。
脳裏に閃くものがあった。
暫く食い入るように見つめ、やがてニヤリと唇を歪める。
おもしろ半分で詰め込んだ雑学のようなものだったが、意外なところで役に立ちそうだ。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな海色の瞳に笑う。
「使えるぜ、アンジェリーク。いいもの持ってたじゃねぇか」
「ホント!?」
「ああ」
目を輝かせる少女に、彼は笑いながら頷いた。
面白くなりそうだと思った。
―――そのトランプはセルローズ製だった。
どこにでもあるようなものだが、このセルローズと言う物質は爆薬の原料であるトリ・ニトロ・セルローズの親戚にあたる。
実際、この所為で起こった事故を彼は知っていた。
「…お兄ちゃん?」
不思議そうに、不安そうに尋ねてくる少女にちょっとだけ笑って、レヴィアスはケースからトランプを取り出した。
それを持っていたナイフで切り刻み、小屋の片隅にあった水で湿らせたあと、やはり小屋にあったビニールでくるむ。
さらにそれをハンカチで包んで、導火線のように引き裂いた布に、ライターで火をつけた。
ちりちりと、やがて赤い炎に侵されていくそれを見つめながら、レヴィアスは少しだけ息をついた。
即席のものの上に、いくら爆薬の親戚とはいえ、もともとその為に作られた代物ではないのだから、あまり破壊力は期待できない。
それでもよかった。
たいそうな破壊力は望まない。
この壁を壊し、相手を慌てさせることができれば、それでいい。
「…お兄ちゃん」
危ないからと壁から離れてレヴィアスの横に立っていたアンジェリークが、小さく彼を呼んだ。
「あん?」
「うまくいくかな?」
「さぁな。そこは運次第だろ」
彼女はほんの少しだけ不安そうに瞳を揺らしたが、何も言わなかった。
その代わり、倍近くも大きさの違う青年の手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん」
もう一度呼ばれる。
先刻とは違う、柔らかく落ちついた声音だった。
「………」
不覚にも、一瞬吸い込まれそうになった。
あまりに綺麗な、その海色の瞳に。
「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう。それから―――」
手を握る力が少しだけ増す。
「絶対に生きようね」
「―――ああ、約束だ」
それを聞いて、アンジェリークは心の底から嬉しそうに笑った。
その直後、想像していたよりも大きな爆音が響き渡った。
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