「まったく、どこに行ったのかしら、あの子は」
それより少し前の庭園の別の場所で。澄んだ空の下、王妃は困った様に首を傾げていた。
王妃としての威厳と、どこか少女めいた無邪気さを宿した蒼い瞳が困惑に彩られている。
今日は愛する我が子の12回目の誕生日であり、婚約者である公爵家跡取の青年との顔合わせの日でもある。
しかし、その時間までもういくらもないというのに、肝心の娘―――アンジェリークの姿が見当たらない。
彼女は本日幾度目かの溜息をついた。けれどその瞳は母親としての優しさに溢れている。
苦笑しつつ、呟く。
「やっぱりまだまだ子供なのねえ」
婚約の意味もちやんと理解しているかどうか。
もっともこの日はアンジェリークにとって随分業しみだったらしく、しきりに婚約者である青年のことを尋ねていた。
子供らしい好奇心に瞳を輝かせていた娘。
本当に―――まだまだ子供だ。
それを思い出し、思わずくすくすと笑う。
ひとしきり笑った後、彼女は少女を探すべく再び歩き出した。
急がないと、時間が押し迫っている。
アンジェリークは庭園の…角にあるバラ園にいた。
ここは彼女のお気に入りの場所で、このバラ園にあるバラのほとんどはアンジェリークが毎日世話をしたものだった。
一生懸命彼女が水道りや草抜きをしていた姿を、王妃も幾度となく見かけていた。
その甲斐あってか、今年も見事な花が咲き乱れている。
アンジェリークはその中で小さな手に白や黄色、それに赤などの色とりどりのバラを抱えていた。
「母様!」
近づいてくる母親に気づき、バラを摘み取っていた手を止めて顔を上げると、アンジェリークは嬉しそうに笑った。
バラの甘い香りと供に、少女の柔らかな声が風に乗る。
「何をしてるの、アンジェリーク。そろそろしたくをしないと昼食会に間にあわなくなるわよ?」
「ごめんなさい、母様。でももう少しだけお顧い。これを」
手の中のバラに視線を落とす。
母親譲りの若い瞳がふうわりと微笑んだ。
「レヴィァス様に差し上げようと思って」
大切そうに、婚約者である青年の名前を口にする。
「レヴィアス様に?」
「うん。だって、わざわざ外国から来てくださるんでしょう?折角だもの。何か差し上げたいから」
そう言ったアンジェリークは、急に心配そうな顔つきになって母親を見上げた。
「…レヴィアス様、喜んでくれるかな…」
不安げに揺れる瞳を見返し、彼女は優しく微笑む。
「大丈夫よ、アンジェリーク。あなたが大切に育てたバラだもの。きっと喜んでもらえるわ」
その笑顔に、アンジェリークは手の中のバラに視線を落とし、それから上目遣いに母親を見上げた後、はにかむような笑顔を浮べた。
母親はもう一度、少女に笑顔を向けた。
アンジェリークがバラを摘み取っていくのを彼女は暫く微笑ましげに見ていたが、時間のこともあり、やがて少女を促す言葉を唇に乗せた。
「さ、そろそろ行きましょう、アンジェリーク。時間に遅れ…」
しかしその言葉は唐突に途切れる。
「母様…?」
怪誘そうに眉を顰めたアンジェリークは、母親に倣って彼女が見つめている方向に視線を向けた。
視線の先にはこのバラ園を見る為に作られた東屋があって、そこに人影が見えた。
随分体格のしっかりした男らしい。
その手に握られている、黒い塊。
それが一体何なのか、アンジェリークが理解するよりも早く。
「っっ!!」
突然、突き飛ばされた。
小柄な身体がはじかれた様に宙を舞う。
手から離れたバラが視界いっぱいに広がる。
直後に聞こえたのは乾いた音。
それが1回、2回、3回……
まるで風船が破裂するような音だった。
「った…!」
どさりと地面に倒れこんだ衝撃に、アンジェリークは息を詰まらせた。
慌てて母親を見やる。
飛び散る花びらが、虚空をひらひらと舞っていた。
それに混じる、赤いモノ。
一体何なのか、アンジェリークには想像も出来ない。
しかしそれは、すぐに思い知らされる事になる。
彼女の目の前で、母親は一瞬痙攣した様に身体を震わせる。
そしてそのまま、バランスを崩した身体が、アンジェリークに向かって倒れ掛かってきた。
その体を反射的に抱きとめ、ようやく、少女はそれが血であることを理解する。
背にまわした手のひらに伝わってくる、ぬるりとした感触。
「……かあ、さ……」
最後まで声に出すことが出来ないまま、言葉は風に消えた。
視界がその血で覆い尽くされたかのように真っ赤に染まる。
「―――――!!」
音のない悲鳴が、アンジェリークの唇から迸った。
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