「アンジェ、アンジェ」 毎晩のように、アリオスはアンジェリークの背中を擦り、彼女が悪い夢を見ないようにと何度も宥めた。 アリオスの思いが通じたのか、暫くして、アンジェリークが魘されることはなくなり、アリオスはほっとしている。 だが、それもつかの間だった。 今月もまた、アリオスの締め切り近くになった。 だがこの月は様子が違ったのである。 今日もインターホンが鳴り、アンジェリークは早速それに出た。 「こんにちは! ”リトル・エンジェル”社のジョージナです」 「どうぞ」 アンジェリークがロックを解除すると、ドアの向こうには見事な赤毛の美しい女性が立っている。 ジョージナは、アンジェリークの姿を見るなり、明らかに驚きの息を呑む。 「あ、なるほど、そういうことなのか、先生…」 独り言のように、ジョージナは呟くと、そのままアンジェリークの横をすり抜けて、アリオスの元に向かう。 「こんにちは! 先生手伝いに来ました!」 「あ、あの…」 何もそんなことは聴いていないアンジェリークは、不安げな眼差しをジョージナに向けながら、その後を着いていく。 馴れているかのように、ジョージナは、アリオスの書斎のドアを開けた。 「先生!」 「ああ。ジョージナか」 アリオスはパソコンの目に向かいながら、そっけなく対応する。 「電話対応のヘルプに来ました」 「サンキュ。そこに電話があるから、対応してくれ。ちょっと今月は忙しいからな、頼んだ」 何も知らなかったアンジェリークは、アリオスを不安げにじっと見つめた。 瞳を僅かにうるませて。 「アンジェ、今日は、来た編集者の待つ間の対応を中心にしてくれ。おまえひとりで手が回らないだろうから、ジョージナにヘルプに来てもらった」 「うん…」 ”来た編集者の対応” それは”お茶を入れていればいい” そうしか彼女にはこ聴こえない。 急にアンジェリークは肩から力を落とすと、唇を僅かに噛み締める。 アリオスには見えないところで。 静かにアンジェリークは、アリオスの書斎から出ると、キッチンへと向かった。 アンジェ…。 後で慰めてやらねえとな…。 こうなったのは、あいつのせいじゃないことをわからせないと… アリオスも、彼女の元気のなさは薄々気がついてはいたが、彼女を傷つけないために精一杯のことをしたつもりでいた。 昨日、上手く話せない彼女に対して、一部の編集者やテレビ局関係者からクレームが出たのである。 上手く言いたいことが伝わらないアシスタントは困るということだった。 いつもは、殺気立たない編集者たちで、アンジェリークの笑顔を安らぎに来ている彼らが、たまたま苛立たしいことがあったのだろう。 そういうクレームがあったのである。 俊敏に仕事をこなさなければならない彼らにとっては、今まで、我慢をしてくれていたのだろう。 アリオスは、それを受けて、アンジェリークが傷つくのが最小限で済むようにと、このような形を取った。 この日は、アンジェリークはキッチンの奥で泣きながらも、待合では笑顔で接し、編集者たちにお茶などを振舞う。 編集者の中でアンジェリークの異変にいち早く気がついたのは、チャーリーであった。 「アンジェちゃん?」 チャーリーに声をかけられて、アンジェリークは空笑いを見せる。 「チャ…、チャー…」 アンジェリークはいつもんは彼の名前を澱みなく言えるのだが、今日はちゃんと言えない。 「あんさん、しんどいんとちがうか? やったら、アリオスに言うたるから、今日は休んどき? 顔色、ごっつう悪いで?」 心配げなチャーリーに、アンジェリークは、”有難う”の意味をこめて頭を下げ、その後に心配はないという意味で、 頭を振った。 「あんさんがそう言うんやったらええけど…」 大丈夫という意味をこめてアンジェリークは笑うと、また、キッチンの奥へと行ってしまった。 「大龍出版のチャーリーさん、午前中最後ですね。先生が呼んでます」 チャーリーも知っているジョージナがやってきて、彼は驚いた。 「なんや、あんた、アリオスの手伝いしとんのか?」 「ええ、頼まれまして」 彼女は本当に嬉しそうに笑い、チャーリーを案内している。 それでアンジェちゃん…。 まあ、アリオスにもなんか理由はあるかもしれへんけど…。 「こんにちは〜、チャーリーやで」 「ああ。このフロッピーの中だ」 アリオスは側にあるディスクをチャーリーに渡し、彼もそれを受け取ると、ドアが閉まるのを待って、口を開いた。 「どういうこっちゃ! アンジェちゃんかなり傷ついとったで!」 チャーリーは、責めるようにアリオスに食いつく。 「一部の担当者からクレームが来た。 上手く話せないアシスタントと、コミュニケーションは取り難いとな」 アリオスは、悔しげに呟くと、彼には珍しく大きな溜息を吐いた。 「あんなええこやのに・・・」 チャーリーも苦しげに呟く。 「そやけど、アンジェちゃん、今日、あんまり調子ようないと違うか? 俺の名前…、ちゃんと言われへんかった…」 「・…!!!」 背中にアリオスは衝撃が走るのを感じるとともに、胸が苦しくなるのを覚える。 アンジェ…!! その瞬間---- 大きな瀬戸物が割れる音がキッチンからこだました。 「アンジェ!!!」 アリオスはそのままキッチンへと向かい、彼女の名を必死に呼んだ。 そこに入るなり、顔色が悪いアンジェリークが、かけらを集めているのが目に入る。 「アンジェ…!」 名前を呼ばれてアンジェリークは振り向くものの、返事をしない。 「あ・・・あ・・・あ・・・」 何かを伝えたいのだが、言葉になっていない彼女の苦しげな様子をアリオスは目の当たりにして、彼もまた苦しい。 「大丈夫か? 今日はベッドで休め…。な?」 「ア…、ア・…、ア…リ」 昨日まで彼の名前もちゃんといえていたのに、今日の彼女は出会った頃と同じように、言葉を紡げないでいる。 「行こう…」 アリオスはアンジェリークを抱き上げると寝室に連れて行く。 その姿は誰も犯せやしない神聖さがある。 「すまねえが、チャーリー、ジョージナ…。 今日の原稿はすべて終っている。それを担当に連絡して、バイク便で届けさせてくれ。打ち合わせは改めてといっておいてくれ」 「判ったわ」 チャーリーとジョージナは、とりあえず、言われたことを始めることにした。 アンジェリークはベッドに入った後も、アリオスに何度か頭を下げて、謝る意思を伝えた。 「謝るな…」 それにも力なくアンジェリークは笑うだけだった。 彼女はスケッチブックを指差し、それを取ってくれとジェスチャーで伝える。 アリオスは、アンジェリークの役に立ちたくて、直ぐにペンとスケッチブックを彼女に渡した。 以前と同じように、彼女は頭を下げて”有難う”を伝えると、そこにすらすらと書いていく。 『迷惑かかるから、私、レイチェルのところに帰るね』 その言葉を見た瞬間、アリオスは心臓が止まりそうになった。 「嫌だ!!! おまえを絶対に離さねえ!」 ぎゅっと息がつけないほどアリオスはアンジェリークを抱きすくめる。 「言うな! 俺はおまえを絶対に離さねえから!!」 アンジェリークの頬に真珠の涙が光った----- その日が、アンジェリークが俺から離れていく第一歩になった…。 |
TO BE CONTINUED…

コメント
『愛の劇場』第四弾は、話すことが出来ないアンジェリークと、言葉を紡ぐことを
生業としているアリオスです。
次回はもっとどろどろしてきます。
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