3.何故生まれてきたの?

ゲート ここで一つ疑問が沸きます。もうモデル末期で月に10台単位でしかお呼びが掛からなくなってしまったスポーツ800。法令による変更箇所は見た目以上に多く、それら全てに対応するよりかはモデル自体を無くした方がお金も掛からないし、いいと考えるのが普通の考え方でしょう。素人である私たちにも思い付くことを、トヨタほどの大メーカーが何故やらなかったのか?具体的に言えば30パブリカに生産が変る時に何故スポーツ800の生産を打ち切らなかったか?という疑問です。
 ここからは僕の推測でしかありません。しかし、事実から類推できる事を述べさせていただくこととします。実はこの30パブリカの生産開始をもって、空冷エンジンモデルの生産は、従来のトヨタ自動車工業直系工場から関係会社の工場に全て移行したのです。ここがスポーツ800延命の鍵だったのではないでしょうか?
 この時期のUP系車両の生産工場を調べてみた結果がこれです。スポーツ800は言わずと知れた関東自動車東富士工場。ミニエースは豊田自動織機長草工場。そして30パブリカは日野自動車羽村工場とダイハツ工業池田工場(この頃出ていた30パブリカベースのダイハツ コンソルテも池田工場製)、36パブリカバンまでいれるとミニエースと同じく豊田自動織機長草工場でそれぞれ作られていました。と、言うことはどういう事かと言うと、トヨタ自動車工業は既存の減価償却の終ったかもしれない機械設備を使ってエンジンと駆動系パーツを供給するだけで、違った車が幾つも世に出せる。利幅も大きいし関係会社に仕事を出すのだから多少の無理も利く。ということで、本来ならなくなっても文句の言えないスポーツ800は20パブリカ生産終了後も短期間にせよ作られ続けられたのではないでしょうか。
パブリカコンバーティブル後期 余談となりますが、同じく関係会社であるセントラル自動車で生産された20系パプリカコンバーチブルやパプリカスーパーはスポーツ800とは別の運命を歩んでしまいました。これは、トヨタ自動車工業がセントラル自動車に供給するボディパネルは一部専用品を除いて20パブリカと大多数は同じだったからだと思われます。コンバーチブルは昭和43年10月で、スーパーは昭和43年12月でその生産を終了。こちらは逆に早く生産を終了されてしまいました。スポーツ800の場合、専用ボディパーツの割合が絶対的に多かったことが幸いしたのです。

4.その秘めたポテンシャル

 さて、これだけ様々な変化の中生産された44年式スポーツ800ですが、結果的にいうと、シリーズ中最も洗練された車と呼ぶにふさわしいものとなってしまったのです。主な装備で言うと、オイルラインがフルフロー式となった2Uエンジン、高負荷に耐えられるミニエース用のドライブシャフト、安全性を高めた電気部品など。実用された結果改良を加えられ最も洗練されたコンポーネントで出来上がっています。
しかし、スポーツ800を当時最高に洗練されたパーツで作るんだ、という確固たる信念の下メーカーがその威信をかけて作った…ものではなく、たまたま部品の供給の都合でそうなってしまった、というのが非常に興味深いところです。祝福されないで生まれてきた44年式スポーツ800ですが、潜在的なポテンシャルを持って生まれてきたのです。
参考文献 道路運送車両の保安基準詳解/交文社