昭和44年式。一言で言ってしまうとそれは一部近代化改装を施したスポーツ800ということにつきます。しかし、それはメーカー自身がそうしたかったのではなく、外的要因によってそうせざるを得なかったのというべきでしょう。この辺りが「祝福されないで生まれた」と感じる所以です。では何故なのか、詳しく見ていきましょう。

1.社会的事情

 昭和40年代前半、交通事故による死亡者は現在のそれと同じくらいの1万人台の数字になっていました。自動車の台数が現在よりもぐっと少ないのに、死亡者は同じということは、相対的に考えるといかに当時の事故による死亡者が多かったかを物語っています。それと特徴的なのは自動車同士の事故が多くなったこと。昭和42年には自動車の保有台数が1千万台を越え、それと時を同じくして自動車同士の事故が増えています。特に追突したりされたりでムチ打ち症になる人が多く、社会問題となりました。当時のボクシング、ジュニアウェルター級世界チャンピオン藤猛が試合を延期したのも、まさにこのムチ打ち症が原因でした。
交通事故防止対策として、道路などのインフラ整備もさることながら、車両側の安全装置の見直しが行われました。その結果出された法令が昭和43年7月4日改正の昭和43年7月運輸省令第28号です。この法令が昭和44年式トヨタスポーツ800の生まれる直接のきっかけとなったのです。この法令の施行は昭和44年4月1日より。これ以降生産される車両はこの法令に則って装備品に改良を加えないといけなくなりました。主な内容は衝突時における運転者の被害を軽減することを目的にシートベルトとヘッドレストの備え付け。それと高速化時代に対応して追突防止のために灯火の性能を向上するため、パーキングランプ、サイドマーカー、エマージェンシーフラッシャーの備え付けなどです。

2.トヨタ社内的事情

20パブリカデラックス 昭和44年。この年はスポーツ800のベースモデルとなるパブリカが大きく変った年でもあります。昭和44年2月、従来のパブリカ用エンジンを搭載した20パブリカがその生産を終了。それに代わって、30パブリカの生産が開始されました。発売は4月。20パブリカ生産終了と同時に生産を開始したか、それ以前から生産を開始していたと思っていいでしょう。この30パブリカはメインとなるモデルは2Kや3Kエンジンを積んだKP30系であります。かたや、UP30系は従来のパブリカ用2Uエンジンを引き継いで、経済性重視の廉価版車として生産されました。そんな30パブリカですが、これをきっかけにミニエースに積んでいたフルフローのエンジンが載ることになりました。よって30パブリカは全てフルフロー、20パブリカは全てパーシャルフローのエンジンということになります。
30ガッツパブリカ スポーツ800はパブリカをベースモデルとしているだけあって、その装備品などは同時期に生産されていたパブリカの影響を色濃く残しています。例えば40年式のスポーツ800は同時期の10パブリカのパーツを用いられて作られているために、クラシカル、とっても700チックな印象を受けます。43年のマイナーチェンジもひとえにパブリカがマイナーチェンジしているからに他なりません。
 しかし、事44式だけで言うと少し事情が異なります。10パブリカから20パブリカへの変化が比較的穏やかだったのに対して、20パブリカから30パブリカへの変化はあまりにもドラステッィクであったために、44年式のスポーツ800は同時期に生産されていたパブリカの影響を残しているという点では同じでもその変更のされかたは大幅なものになっています。加えて、44年式のスポーツ800は後期の20パブリカと30パブリカの出ていた時期に渡って生産されたため、20パブリカの影響を強く受けているものから30パブリカの影響が強いものと、同じ年式でありながら最初と最後ではかなりの違いがあります。
ミニエース低床 そして、事情を更にややこしくしているのがミニエースの存在です。前述の通り、フルフローのエンジンはこのミニエースのために改良されたもので、その他のコンポーネンツもその多くを共用していたり、或いは共用できるようになっていたりします。後に述べますが、これがまた44年式スポーツ800を構成する部品に微妙に影響を与えるのです。
 そして、昭和44年2月、この昭和43年7月運輸省令第28号の保安基準に則ったトヨタスポーツ800がラインオフ。法令自体は同年4月1日からの施行ですが、それに先駆けること2カ月前から生産を開始しています。法令によると4月1日生産の車両から適用となりますが、現代でも法令の施行前に新しい保安基準に合致した車を市場に出すことはそう珍しいことではありません。在庫になってしまう時間を考えると、タイミングとしては妥当な所だったでしょう。