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山崎哲
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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介
<二松学舎>  奇跡  水野俊

207A (二松学舎の学生の作品はいずれも作者の了解を得て掲載しています)


 人間は万能ではないことを五歳の時に気付いた。一人の力では空を飛び回ることすらできない。人間には不可能とされることを僕はやってみたかった。奇跡というものを起こしてみたかったのだ。
 空を飛ぶことは五歳の時に挑戦した。最初は軽く机の上から飛んだ。その時は浮いた気がした。飛べたのだ。人間も鳥みたいに飛べると思った。だから次はもっと高い所から挑戦した。階段の上からだ。さらに浮いた気がした。もっと長く飛べたのだ。その夜、母親にそのことを自慢げに話した。自分は空を飛べるんだと、階段の上から少しだけど空を飛べたんだと。それを聞いた母親は僕を叱った。
「そんなことしちゃ危ないでしょ。もうやめなさい。人は空を飛べないのよ。」
 僕は母親の言っていることが理解できなかった。
 次の日ベランダから飛ぼうと思ってた。階段から飛ぶことが出来たのだからもっと高い所から飛べばきっと大空を自由に移動することが出来ると思った。意気込んで近くの椅子から手摺に上っていると母親が家の中から血相をかえてとんできた。
「やめなさいって言ってるでしょ。」
 と、同時に頬が痛くなった。叩かれたのだ。初めて母親に叩かれた。目の前にある顔を見たとき、人間は空を飛べないことに気付いた。
 空は遠かったんだ。
 次に試したのは水中にずっといることができるかだった。きっかけはテレビで魚が特集されていたから。たしか鮪の生態とかだと思う。魚はそのまま泳いでいるのに回りにいた人は色々なものをつけていた。あんなに重そうなものをつけなければ水の中にいることができないのだろうか。よく覚えていないから本当にそれが原因か
わからないが、たしかこのようなことだったと思う。とにかく他の人にはできないというのが魅力的だった。僕なら水の中にずっといることができるのではないかと思った。
始めは洗面器に水を溜めた。息を止めて顔を水につけた。だけどすぐに苦しくなって顔をあげた。僕と魚はなにが違うのだろうか。目? 鼻? 耳?
僕には足があって魚には足がない。この違いだけで魚はずっと水中にいられるのだろうか。水中……。なるほど、そこか、と思った。早速僕は夜に試した。僕と魚の違いは水中いるかいないかだ。湯船につかると勢いよく潜った。息を吸い込んでみる。空気を吸えなかった。いくら吸っても水しかない。しばらくすると意識が遠く
なってきた。魚はどうやって息をしているんだろう。その夜、僕が最後に思ったことだった。僕が十歳の時のことである。
 水の中では人は生きられなかった。
 僕が十五歳のとき、祖父が死んだ。月に一度会っていた身近な人だった。喋らなくなった祖父を見て人は本当に死んだら生き返らないのだと思った。何度話しかけても返ってこない。僕はこの日思った。人は本当に死んだら生き返ることはできないのだろうか。よく事件が起こると葬式の場面が出てきて、息子を返してください、などと言うのをよく見たことがある。やはり人は生き返ることはできないのか? 生き返れば奇跡になるのではないのだろうか。興味をそそられた。僕は死んでみようと思った。まず、水を溜めて顔をつける。苦しくなってくる。まだ我慢だ。ここで顔を上げてしまうと死ぬことはできない。
 いつの間にか僕は家にはいなかった。気がつくとそこは病院だった。僕は死ねなかった。退院した後で次の挑戦をした。ベランダに立っている。飛び降りをしようと思った。これなら簡単に死ねる。手摺の上に立って下を見た。恐い。純粋にそう思った。これが死ぬ一歩手前だということ。生き返る保障はないが、そうでないという可能性はない。僕が迷っていると急に背中が押された。後ろを見てみると誰もいなかった。風だ。突風に僕は押された。下へ落ちる。これでよかったのだ。やっと試すことができる。僕は下へ激突した。これで生き返ることができる。次、目覚めたら僕は奇跡を起こしたのだ。
 気がついたらそこはベッドの上だった。話に聞くと打ち所がよく奇跡的に助かったのだそうだ。助かった。生き返ったわけではなかった。目覚めたときはうれしかった気持ちが半減した。
 人の生は一度きり。
 僕は一つも奇跡を起こすことができなかった。