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山崎哲
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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介
<二松学舎> ただこの手の中に S・N(匿名希望)

205A (二松学舎の学生の作品はいずれも作者の了解を得て掲載しています)



――恩師、大金先生に捧ぐ――


          □6□

 遠回りをして先生の新居に向かったのは、桜が咲いているかもしれないと思ったからではあったけれど、本当はそんな事どうでもいいことだった。三月下旬だというのに一月中旬並みの気温だと出掛けのテレビから流れてくるような日だから、咲きかけの桜も開くはずはないことくらい分かっていた。吐いた息は白く揺らめき、そのまま凍ってしまっているのかと思うほどきらきらと陽の光に映え、空に消えていく。いっそ、あきれる位遠回りをしようと思った。駅から徒歩五分の先生の家まで五十分かけた。厚着のおかげか少し汗ばんだ。
 着いて帳簿を済ませると、居間へと通された。暖房器具がフル稼働していて暖かな部屋だった。耳が急な温度変化のせいでちりちりと痛かった。もう大分人が集まっていて、その中には僕より若い先生の教え子らしい子供が数十人いて、端の方で固まっていた。
 座って十分も経たないうちに葬式は始まった。正座のせいか寒さのせいか、足はしくしくとしびれ、悲しみのせいか寒さのせいか、耳にはしくしくと鼻水をすする音がしていた。
 僕は新しい家特有の木の香りとお香の匂いと重低音の経に気持ちが悪くなった。
 焼香を済ませてすぐ、そそくさと縁側へ出た。そして、寒空の下ぼんやりと空を眺めた。そっと睫毛の上を風に撫でられると、そこだけほかよりほのかに冷たさを覚える。きっとほのかに水気があるのだろう。
 僕は微かに霞む冬空に、先生を描く。
「先生、あんまりだよ」
 どんなに大声を出しても届かない事を知っているから、口だけそう動かした。外の空気を吸っても気分は優れなかった。ただ、さっきかいた汗のせいか寒くて仕方がないだけだった。
 僕は何しにここへきたのだろうと思った。先生と話せるわけでもないのに。
 どうしようもなくなって、初めて先生に会ったときから、この間のことまでを順番に思い出して、心の中で笑った。声に出して笑えないことがこんなに辛いなんて知らなかった。
「そろそろ斎場へ行くよ」と見知らぬおばさんに後ろから声をかけられたので、僕は少し驚いて「わかりました」とだけ答えた。
 目を瞑って、天を仰ぎ、そっと手を握り締める。そして、先生を見届けるために家の中へ入った。
 ふと窓ガラスに映った自分の顔は、いろんな事が重なって真っ赤だった。
 
          □2□

 中学の時、僕はていたらくなヤツだった。一番楽で、かつ太らない程度の運動が出来る運動部は何かと考えて卓球部に入るくらいに。当然そんな根性なしは部活の朝練になんて行けるはずもなく、いつも昼休みに呼び出しを食らっては顧問の足立先生に怒られていた。それに口答えをしては先生と喧嘩もしていた。
 そんなどうしようもない僕を、見捨てることなく見ていてくれたのが副顧問の秋代先生だった。先生は気遣いがばれないように僕に接し、裏では足立先生に頭を下げていた。僕はその事を友人から聞いた時、自分のためではなく、秋代先生のためにしっかり部活をやろうと思った。とは言っても、卓球部も立派な運動部で、思った位で勝てるわけがなかった。だから僕はみんなに追いつこうと、必死で人より早く部活に行き、最後まで残った。心臓がサイダーを飲んだ時の喉のようにさわさわするほど練習して、それでも休まなかった。走りすぎて気持ちが悪くなり、吐いた。そんな僕を最後まで見ていてくれたのが秋代先生だった。先生はふらふらになった僕に水道水で濡らしたタオルを持ってきて
「馬鹿たれ、そんなに集中的にやったって意味ないの。毎日こつこつやらないと」
 と顔に押し当てた。少しだけ残っていた理性でその言葉を覚えていて、僕はその日以来毎日それをやった。それには流石の秋代先生も驚いていたけれど、毎日飽きずに僕の無鉄砲な練習に付き合ってくれて、最後にはいつも濡れたタオルを顔に押し当ててくれた。
「原田君、何でそんな急に頑張り始めたの? 好きな子でも出来た?」
 顔からタオルをとりながら僕は答える。
「先生のためっすよ」
「先生の?」
 先生は、はっとした様な顔になったけど笑って「先生こう見えても人妻」と言った。
「いや、別に先生のこと好きとかそう言うんじゃないっす」
「違うの?」
「確かに先生としては好きっすけど、恋ではないです」
「じゃあ、またどうして?」
「僕の面倒見てくれてるから、なんか、しっかりしなくちゃって思って」
 先生は腹を抱えて思い切り大口開いて笑い出した。
「馬鹿ねぇ、そんな事気にしてるなんて。先生、それがお仕事でもあるの。それにあなたみたいな子はほっとけないタチなのよ」
「……大変な坊主に当たっちゃってごめんなさい」
 僕も笑った。
「いいの、いいの。先生そういう子の方が好き」
「……恋として?」
「馬鹿なこと言ってんじゃないの。今日はもう帰りなさい。あんまり帰らないと学校の戸締りさせるからね?」

          □1□

 ――人は生まれた時、全ての幸せをその小さな手の中に握っているの。少し経って、ぎゅっと握られていたその手がほころんだ時、人はその幸せを手放してしまう。そして、それから人は一生をかけて幸せを掴む旅を始めるんです。だから皆さんは絶対に幸せをつかんでくださいね。生まれた時に、あなた達のご両親に「生まれてくれてありがとう」って思わせてくれたほどの幸せを――
 秋代先生は、たまにこういう漠然としていてよく分からない話をした。でも、僕は先生のそんな話が好きだった。
先生は本名を秋代真美と言って二十代半ばの若い女の先生だった。僕の苦手な英語の担当で、良くおこごとを食らった。それでも不思議なことに先生を思い出すと、僕に優しく笑いかけてくれている印象しかない。おたふくみたいに笑う先生の顔を見ると、嫌いにはなれなかった。秋代先生とは中学を卒業してから四年――先生も僕たちの卒業と同時に隣町の中学校へ転任してしまった――一度も会ってはいない。先生は今何をしているのだろう。と、僕は時々ふと思い出すことがある。当時から秋代先生は結婚していたから、きっと赤ん坊の一人や二人はいるに違いない。その赤ちゃんは幸せを掴む旅を始めただろうか。
 会いたいと思う。でも、ここ四年間で先生へ連絡したことと言えば三年半前に出した暑中お見舞いくらいで、なんとなく過ごしてしまっている。だから今更会いたいなんて少しおかしな気がして憚られた。それに、いつしか心のどこかで諦めていたんだと思う。先生にはもう会えないって。
 
           □4□

 大学から帰ると、一通の手紙が届いていた。差出人を見て僕は驚いた。秋代先生からだった。封を切って中を見ると、一枚の写真が入っていて、そこには僕の想像そのままの、まん丸の赤ちゃんを抱いた先生と、先生の夫であろう穏やかな顔をした男の人が写っていた。
 手紙には写真とともに一筆が添えられていた。それには自分たちの近況や赤ん坊の名前などがつらつらと綴られていて、最後に追伸で「今度遊びにおいで」と書かれていた。差出人住所を見ると以前のそれとは違っていて、電車で三十分も揺られれば着く距離だった。僕は少しだけ悩んだけれど、行ってみようと思った。クリスマスから正月にかけては迷惑がかかるので、大学の短い冬休みも終わるころまで我慢してから、先生のうちを訪ねた。歩きながら、先生がまだ僕のことを覚えていてくれたという得も言われぬ嬉しさに胸が高鳴った。少しだけ自分があの頃に戻れている気がする。近隣住所まで来た僕は歩を緩めて、先生の家を見過ごさないように電柱に書いてある番地を確かめながら進むと、淡い桜色のレンガ塀に大きく、手紙に書いてあるアパート名が書かれていた。先生の家は四階建てアパートの三階にあった。連絡もせずに行ったから、もしかしたらいないかもしれない、という不安もあったが、先生はしっかりいてくれて――まあ、僕のためにではないだろうけれど――赤ん坊を片手に抱きながらドアの間から顔を出した。
「あれ、原田君? やぁ、久しぶり」
 先生は女なのにいつも挨拶が男みたいだった。そういえばこんな感じだったな、と思うとそんなに昔のことではないのに、なんだかすごく懐かしく思えた。
「や、やあ」
 しかし、どう返していいのか分からない。
「こら、生意気言わない。先生に向かって、やあ、なんて」
「先生、僕もう大学生っすよ」
「それでも、どうも、くらい言いなさいよ。かわいくない」
先生は赤ちゃんを持ち直すように少し揺すった。「むかしっから、悪がきんちょね」
「それは、どーも」
 本当は「普通、悪餓鬼とがきんちょは合わせて使わないですよ」と言いたかったけれど、もう悪態はこのあたりにしておこう、と思い留まった。
「立ち話もなんだから上がんなさい」
 先生はそういって手招きをする。「どーぞ」と僕の先ほどの口調を真似しながら。

          □3□

 中学二年になると、秋代先生は卓球部の副顧問から外れた。僕は急にやる気がしぼんで、またいつものていたらくな僕に戻った。練習も筋トレも居残りも全くやらなかった。そうして、体育館前の古いベンチで僕はいつもぽつんと座っていた。たまたま通りかかった秋代先生が僕の隣に来て、「どうした?」と声をかけてくれる時もあったけれど、「一服っす」とはぐらかした。そんな調子だから、ほとんど無関心で無害なことだったけれど、顧問の足立が秋代先生のいなくなったのをいい事に、練習に顔を出さないくせで試合の時に好き勝手に文句を言っては生徒たちの反感を買うようになった。その噂を知ってか知らずか、秋代先生はちょくちょく部活に顔を出すようになった。秋代先生が来るたび、体育館外でタバコをふかしている足立はいつもにもました仏頂面で先生を出迎えていた。
 夏休みに入るか入らないか位のとき、僕がいつものように部活に遅刻して行くと、秋代先生が目頭を押さえて小走りで体育館から出てきた。向こうは前方を見えていなかったのか、僕が避けた方に方向を変え、肩が当たった。
「ごめんなさい」
いつもの男っぽい先生からは想像もつかないほど、か細くつまった声でそう言って、僕の方を見た。そして、「あ、原田君」と呟いた。
 よろよろしている先生を僕は自分がいつも座っている体育館前のベンチへ座らせた。僕も隣へ座った。
「足立先生に怒られちゃった」
 化粧なんてあんまりしていない先生は、僕が渡したハンカチで目をごしごしと擦って涙を拭いた。「お前はもう卓球部には関係ないんだからくるな、って」
 僕は、そうやって話す先生を黙って見ていた。いつもは一人で座っているベンチが今日は二人だからなのか、微妙に軋んでいるし狭く感じられた。
「なんか……、なんか違うと思います」
僕は唐突に、そう切り出した。なにが? という顔をした先生に「先生が泣くことっすよ」と付け足した。
「どうして?」
「だって、先生が悪いわけじゃないのに、泣くのは変です」
「そうだけど……。でも、事実だし」
「じゃあ、先生が部活に顔出すのは顧問とか副顧問だから仕方なく、ですか?」
「ちがう。そうじゃないよ。先生、部活が好きだし、勿論君たちのことも好きだし……」
 と先生は慌てたように言った。
「……分かりました。僕、足立んとこ行ってきます。で、先生が来られるようにします」
「え?」
 今までハンカチで覆われていた顔を驚くように上げ、先生は困った顔をした。
「どうするの?」
僕は小脇でこぶしを握った。
「こうするの――」
「やめなさい!」
 空気を切り裂く、音に近い声がした。勿論それは秋代先生が出したのだけれど、そう理解するのにいくばくか時間がかかるほど、呆気にとられた。
「だめ。そんな事をしたら駄目!」
 先生は本気で制止していた。
いくら中学生とは言え、人を殴ったら、どちらもタダでは済まないことくらい秋代先生は知っていた。というかこんな考え自体、幼稚でどうしようもなく低能なことくらい僕にだって分かっていた。殴ったところで何も変わらないことまで含めて分かっていた。分かってはいたけれど、
「もう、いいんすよ……」
「どうして?」
「僕この部活を続ける気もないし、嫌気がさしてたし、もう練習なんてちっともやってないし。殴ったら無理にこんな部活続けなくてすむし」
 どうせ、下手糞だし。最後にそう小さく付け足した。
「なんでそんなに自分から辞めようとするの? 先生のためにってのに関係してる? もしそうなら……」
「違いますよ。先生は関係ないです」
「うそ」
 なんで? 何でそう思うんですか? そう言おうと口をその形にしたら、声を出す前に先生がそう思ったわけが分かった。
 僕の顔はたぶん、シワシワになって潰れていた。搾り出すように
「……しょうがないじゃないですか」と震えた声で言った。「もう疲れたんすよ。先生いないと何の目標もないんすよ」
 先生は僕の言っていることに、真剣な顔をして答えた。
「面白いってこれっぽっちも思わないの?」
「はい」
「私がいないから?」
「……はい」
「じゃ、英語は楽しい? 私が教えても、英語は面白くないでしょ?」
 先生が何を言いたいのか分かったけれど、僕は納得がいかなかった。
「それとこれとは関係ないでしょ」
「同じ。そうやって逃げてるから、英語だって部活だって他人(ひと)のせいにして出来ないんだよ。面倒見るから、しっかりやってみようよ」
 先生は完全に僕からイニシアチブを奪っていた。
「……ズルいっすよ」
 それでも僕は歯を食いしばってそう言い続けた。「それはズルいっす」
 けれど、先生はそこだけ僕の言うことに頷かないで、じっと僕のことを見ていた。僕は辛くて、その眼と目を合わさないように俯いた。もう、この話がやめたかった。
「ホント、悪がきんちょなんだから」
 その言葉と同時に、すっと僕の頭を何か温かなものが包んだ。先生の手だった。先生は僕の頭を撫でてくれていた。それはただ撫でられているだけなのだけれど、まるで体中が包まれているように優しかった。だから僕はその優しさのせいで溢れてくるモノを抑えきれなかった。肩を揺らして、みっともなく泣いた。赤ん坊のように、ダダをこねた挙句、泣いた。それなのに先生は暫くなにも言わずになだめてくれた。泣き疲れるまで泣いてから顔を上げると、先生は微笑って
「すっきりした?」
 とだけ言った。僕は、小さく小さく頷いた。それに合わせるように遠くの方で学校のチャイムがなって、終わりか始まりかのどちらかを告げた。
「先生、さっき渡した僕のハンカチ貸してください」
 
 結局、僕は部活を辞めなかった。そして、先生も部活へは来なくなった。ただ、僕が夜遅くまで自主練習をしている時、たまに見に来て、そっと濡れタオルを体育館前のベンチに置いておいてくれた。走り終わった後、手に取ったタオルはちょっぴり砂っぽかったけど、構わずそれで顔をおさえた。そして、それから一年して僕は中学最後の総体で、地区大会のトロフィーを――三位だけれど――もらうことが出来た。
 先生はその時、試合会場まで飛んできて、まるで世界を制したかのように喜んでくれた。先生と握手をした時、僕は急に泣きそうになってしまった。「おめでとう」って、ありったけの笑顔で僕を祝福してくれた先生の手は一年前と変わらず、優しくて温かかった。
 それから、高校受験のために、英語もくたくたになるまでやった。きっとどこかで、部活と同じになるって思えた。僕は先生のお蔭で、出来ないものを努力するってことを覚えた。と、格好のいいことは言っても英語の方はさっぱりだったのだけれど。

          □5□

 子供を寝かしつけて、先生は僕に口切いっぱいに注いだ煎茶を持ってきた。サービスしたいのは分かるけれどやりすぎです、と笑った。僕の方がコップに近づいて口をつけ、少しだけ、すする。先生の家は、お世辞にも広いとは言い難かった。少し古めで、なんとなく前にたくさんの人が生活してきた感じを受ける。天井は一箇所抜けているのかベニヤ板で止められていた。壁紙も煤(すす)けていた。
「もうすぐ引っ越すの」
 先生は、ぐるぐると部屋を見回す僕を勘ぐってか、そう言った。僕は申し訳なさそうにお茶をすするしかなかった。
「よく来てくれたね。先生、待ってたよ」
 お決まりのようなその台詞は、なんだか生徒に対するような接し方で歯痒ささえ覚える。
「先生、僕はもう生徒じゃないですよ。それは、なしです。恥ずかしいじゃないですか」
「そう?」
 と訊きながらも、にかっと笑って肩をすくめておどけ、「先生も」と言った。
「先生、って言ってる時点で駄目っすよ」
「それは仕方ないじゃない? 真美は、なんていったら気持ち悪いでしょ?」
「私は、でいいでしょ?」
 僕は口を尖らせて見せた。先生は大きく口を開いて「ごめんごめん」と笑っている。相変らず、豪快だった。その顔が昔と何一つ変わりがない。おたふくみたいに笑っている。
「ところで大学生くん。英語はできるようになった?」
 その顔のまま先生は訊いた。
「ま、まあ」
「ほんとぉ?」
 先生は目を細めて、僕を見た。愛想笑いをしていると先生は僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「大学で英語の授業は極力取ってません」
 と僕がへらへらと言うと、諦めないで自覚症状があるならやれよ、と怒られた。 僕は話題を変えようと思った。
「先生はまだ、卓球やってるんですか?」
「うーん、活動休止中ってやつ。もうすぐ二人目が生まれるの」
 そう言って、先生はお腹をいとおしそうにさすった。そんなにあからさまにお腹を見つめたとかそういうわけではなかったけれど、確かに口の端が笑んだのが見えた。そして僕にはその仕草がとても美しく見えた。そういえば、先生のお腹はぷっくり膨れている。結構大きい。六、七ヶ月位だろうか。もうすぐ、と言うのは本当にあと二ヶ月位の話のようだ。緊張していて顔しか見ていなかったけれど、そうか、先生も二児の母になるのか、と思うとなんだか急に心が落ち着いた。
「さっき、引っ越すって言ったでしょ? 家族四人で狭くないように、新しく新居建設中なんだ。今度来るときにはそっちにおいで」
「はい」
 僕はこくりと頷いた。「でも……」
 僕は手紙をもらってから気になっていることがあった。それはほんの少しの疑問だけれど、訊いておこうと思った。
「でも、先生は何で僕にわざわざ手紙なんて書いてよこしたんですか?」
 先生はその問いにちょっとだけ考えて、
「会いたかったからかな?」
 と答えた。「それに、新しい家には皆に来てもらいたくってね。そんなに深く考えずに結構たくさんの人に送っちゃった。引越し前の挨拶ってやつ?」
 自分が特別というわけでもないと分かると「ああ、なるほど」しか答えられなかった。考えれば、教え子一人だけそんな特別に扱ってもらうのはおかしいから当然のことだ。
「そういえば、先生、僕たちに赤ちゃんの話してくれましたよね」
「赤ちゃんの話?」
「手に幸せを握っているってやつです」
「私そんな話したっけ?」
「覚えてないんですか?」
 僕は先生の話の覚えている限りを話した。すると、先生は感嘆して、
「よく覚えてたわね、そんな話。いや、しかし、私良いこと言ってる」
 と自分で自分に感心しているようだった。
「でもね、一つだけ覚えておいて欲しいことがあるの。幸せって、ぱっと掴めるようなものじゃない。ちょっとずつ、ちょっとずつしっかり握ってあげないと、すぐにすり抜けていっちゃうの。だからね、先生はせめて教え子達にはそういう失敗をしてほしくはないな」
 まぁ、もちろん、うちの子にも。先生は、お腹に手を当てた。当たり前のことなのだけれど、不思議とその仕草で、先生は人間なんだ、と思った。そして、こんな人にたまにでいいから会いたいと思った。せっかくこうして四年という時をこえて会えたのはきっと何かの縁なのだろうから、と。
けれど、先生と会えたのは、先生の表情が見られたのは、これが最後になってしまった。この時はそうなるなんてこれっぽちも思わなかった。
 それほど、唐突だった。

          □7□

 式場へ戻るとちょうどみんなが斎場へと向かう準備をしているところだった。
 ふいに後ろから肩を叩かれたので振り返ると、そこには優しい顔をした男の人が多少俯き加減に立っていた。
「あ」
 と思わず声が出た。先生が送って来た手紙に入っていた写真に、先生と一緒に写っていた人だ、と分かった。「どうも、この度は……」と挨拶をすると、先生の夫は丁寧に返して、
「あの、ウチの真美から手紙、来ましたか?」
と尋ねてきた。幾ばくか何のことか分かりかねたけれど、僕が先生を訪ねていくきっかけになったあの手紙だ、と気づき、
「はい」と答えた。
すると彼は辺りを少しだけ見て、僕の耳元でこう言った。
「ちょっと、お話、聞かせていただけますか」
 
 焼場に着いて、先生が天に昇り始めて間もなく、先生の夫と僕は他の参列者とは少し離れて話をした。ロビーのソファーだった。そこは暖房が効きすぎていて頭がぼんやりとした。
「真美から、何か特別な話は聞きましたか?」
 先生の夫はそう切り出した。僕は正直に、いいえ、と答えた。
「どうして、僕なんかにそんな話を訊くんですか? あの手紙は、引越しするからって沢山の人に送られたんでしょ?」
「いえ、貴方が貰った手紙は本当に少しの深い仲にいる人たちにだけ、送られたものです」
「え?」
「真美は自分がこうなってしまう覚悟も出来ていたのだと思います」
 先生の夫はそこまで話すと、少し口調を変えて淡々と先生の最期について教えてくれた。要約すると、先生は一子目も難産で、大変だったのだそうだ。だから、二子目もそう予想されていた。そして実際そうだったらしい。それでも先生は懸命に頑張った。そして何とか無事産み終えた。けれど、先生はなくなってしまった。と、ここまで聞くと、まるで出産のせいで先生がなくなったみたいだけれど、そうではなくて、直接の原因は病院側の手違いだということだった。
「本当にちょっとした手違いだったようなんですよ」
 と先生の夫は言った。それからどんな手違いだったのかを説明してはくれたのだけれど、難しくて僕にはよく理解は出来なかった。でもその説明を聞き進めるにつれて、手違い、なんて人を扱うときの言葉じゃない、という憤りがふつふつと湧いてきた。手は幸せを握るものだと先生に教わったのに、その手のせいで先生はいなくなってしまったのかと。でも、ここで僕が先生の夫の話を遮って怒るのはなんだかすごく無意味なことに思えたから、我慢した。
「それでは、私はもうそろそろ戻ろうと思います」
 一通り話し終えた先生の夫はそう言って、席を立とうとした。
「あ、あの」僕は呼び止めた。
「あの、最後に、教えてください。秋代先生は最期、笑ってましたか?」
「……ええ」
 なにかに堪えながら、彼は笑っているように見えた。
「いつもどおりの笑顔でしたよ。とっても幸せそうでした」

 遠くの方で沢山の人が雑談する声が聞こえてくる。
 僕はそこへは戻らず、ロビーのソファーに前かがみに、両手をお祈りする時のように握って座っていた。相変らず効き過ぎの暖房のせいで頭がおかしくなりそうだった。勿論、今、頭がおかしくなりそうなのはそのせいばかりではない。けれど、僕は考えることをやめようとは思わなかった。いろんな思いが湧いて苦しかった。どうしても駄目な時は自分はまだ先生がなくなる前に会えたから、幸せな方なのかもしれない。と自分自身に言い聞かせた。
 一体、先生はいくつの幸せをつかめたのだろう。僕は自分の手を眺める。

――幸せがもし形あるものだとしたら、この手に入るくらいちっぽけなものなのだろうか。
――僕はどうして先生に出会ったのだろう。そして、どうして別れたのだろう。
――先生自身は全部を掴み終えたから、僕達を置いていってしまったのだろうか。
――僕は手に収まるほどちっぽけな幸せさえ、もう全てをつかめなくなってしまったのだろうか?先生がいなくなってしまったのだから。

 いろんな問いが僕へ押しかけて形を変えていくけれど、全く答えが思いつかなかった。そもそも答えってなんなのだろう。
 あるのかないのか分からないものを掴もうとすることは昔の先生の話を聞いていることとよく似ている、と思った。
でも、昔と違って、今の僕にはひとつだけ分かることがある。
 幸せを掴むとていうのは、なくしたモノを掴もうとすることじゃないということだ。もう、僕のこの手の中には先生との思い出や、先生の優しさ、手の温もり、先生との日々が全部握り締められているのだから、それの何が不満だと言うのだ。得たものだから、絶対に放さないように。全てはやれるところまでやってみた結果だから。
先生、ありがとう。
 今なら僕は幸せの意味が少し分かるよ。壊れそうなそれを優しくいだけってことでしょ?
 
 ただこの手の中に。  

(了)