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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介
キグルミ

長野美緒
207A 国文学専攻
二松学舎の学生の作品はいずれも作者の了解を得て掲載しています



 信じられない。これは夢だ。この光景から逃れるため、かたく目を閉じ夢よ覚めろと強く念じても耳を打つ不快な哄笑は途切れることがない。
 うっすらと目を開ける。目に入ったのは、狂ったように笑い続ける両親と、その両親に刺された傷から溢れた血の海だった。


『人が変わったように感じたら、ご相談下さい。 片桐カウンセラー』
 賑やかな昼過ぎの商店街の一角。カウンセラーの商売文句にしては随分奇妙なコピーが印刷されたポスターを一人の少女が見上げていた。年の頃は十一・二才で、肩までの髪をつむじ近くで一つにくくっている。その少女はポスターの隅に書かれている電話番号を何度も何度も見ていたが、俯き溜め息をついた。
「片桐カウンセラーにご用ですか?」
 少女は突然かけられた声に飛び上がるほど驚き、慌てて後ろを振り向いた。
「ああ、びっくりさせちゃいましたか?」
 どうもすみません、と恐縮しているのは、二十才前後の青年だった。細い目に下がった眉、うなじにかかるくらいの黒髪。人の良さそうな笑顔を少女に向け、両手にはたくさんの買い物袋を提げている。
「僕は片桐カウンセラーの従業員で時川と申します。ご相談があるのなら、事務所の方にご案内しますよ」
 少女は警戒するように後退り、ポスターの貼られた壁に背中がぶつかった。
「まぁ、いきなりこんなこと言われても困っちゃいますよね。僕が本当の片桐カウンセラーの従業員かもわからないし……名刺もないしなぁ。あ、本当にお困りのようなら、その電話番号にかけてみて下さい。」
 時川は、それじゃ、と軽く会釈して少女に背を向け歩き出した。
 少女は時川の背中を訝しげに見ていたが、ポケットから携帯電話を取り出すと、ポスターの電話番号をダイヤルした。コール音。
 すると、時川が足を止め、少女の方へ振り返った。
 にっこりと、満面の笑みを浮かべたその青年は、携帯電話を取り出すと耳にかざした。
 コール音が止まった。
『はい。片桐カウンセラーの時川です。ご相談でしょうか?』
 時川の声が電話から聞こえ、すぐそこにいる時川の口が今言った言葉と全く同じように動いている。確信犯か、と少女は呆れたが、もう決心はついていた。
「助けてください」
 時川の眉がぴくりと動き、その笑みを消した。
「お兄ちゃんがおかしいんです」
「お茶でもいかがですか? えっと……」
「恵美。高瀬恵美、です」
「恵美さん。紅茶とコーヒーがありますが、どうします?」
「……紅茶で」
 時川は笑みを絶やさず恵美に接したが、その態度は年齢というものを全く考慮していない。
(小学生はコーヒー飲まないと思うんだけどな……たぶん)
 薄暗い部屋の中を、時川はすべるように働いている。片桐カウンセラーの事務所はポスターの貼ってあった商店街から奥まった、人通りの少ない路地裏にあった。三階建てのビルの二階にあるこの事務所のど真ん中にあるパイプ椅子に恵美は座らされていた。
 そこそこ広い部屋で、恵美の背後には扉を挟むように大きな本棚が設置してあり、様々な本が所狭しと並んでいる。恵美の右背後には様々な物が雑多に置かれているテーブル、正面には木でできた大きな書斎机とそれの向こう側に黒い革張りのリラックスチェア。その椅子が背にしている壁に横に広い窓がある。窓にはブラインドがかかり、申し訳程度に陽の光が室内に漏れている。時川が何故か天井の蛍光灯を点けないため部屋には薄闇が充満しているが、とりあえず時川と部屋の中を見える程度には明るかったため特に恐怖は感じない。別に闇が怖い訳でもないが。

「はい、どうぞ」
 恵美の前の書斎机の上に湯気を立てる紅茶とイチゴの載ったケーキが置かれた。
 机を迂回し黒い椅子に座り、その前にも紅茶とケーキを置いた時川に、恵美は疑問を口にした。
「あの……そこは片桐という人の席なんじゃ?」
「別に問題はないですよ」
「それじゃあ、片桐さんはどこにいるの?」
「そろそろ帰ってくると思いますよ」
 カウンセラーの出張サービスかな、と納得した恵美は口を閉じ、手持ち無沙汰で何となく正面に座った時川を眺めた。
 男の人にしては随分線が細い。黒い長袖シャツから覗く手首は細く白い。その手が小さなケーキフォークを使いケーキをすくい取る動作を見ているとまるで女性のようだ。
 しかしケーキを心底美味しそうに且つ嬉しそうに頬張るのはどう見ても男性だ。まじまじとその顔を見ていると、視線に気がついたのか時川が顔を上げた。
「何か?」
「あ、いや……随分嬉しそうにケーキ食べるんだな、と思って」
「甘くて美味しいですよ。恵美さんも遠慮せずにどうぞ。駅前の『クロティア』のケーキですよ」
はぁ、と生返事を返すと、時川は満足げに微笑みまた関心をケーキに戻した。
恵美はフォークを手に取りケーキを頬張った。確かに美味しいが、喜ぶほどでもない気がする。
「時川さんって、ケーキ好きなんですね」
「ケーキはいいですよ。ケーキに限らず、甘いものはいい。味覚という器官で自身がここにいることを確認し、さらに甘さは幸福感を与えてくれる。本当に、自分がこれを食べることが出来るというのは、幸せだと思います」
ケーキを食べながら一息に言った時川を恵美は手を止め呆然と見ていた。時川がその様子に気づくと、またもや微笑みで返した。
「甘党の男の戯れ言です。忘れてください」
 この人は笑ってばっかりいる。そう思いながら、甘いケーキを食べた。
「あの……お兄ちゃんのことなんだけれど」
 二人がケーキを食べ終えた頃、恵美は本題を切り出した。時川は紅茶をすすりながら、ちらりと恵美を見た。
「一週間くらい前から、お兄ちゃんが」
「その話は片桐が帰ってきてからにしましょう」
 にべもなく言い放つ時川に、恵美の口まで出ていた言葉が消えてしまった。カチャリ、と陶器のコップがソーサーに置かれ音を立てた。
「それより恵美さん。きぐるみって、知ってます?」
「……きぐるみって、あの?」
「その、遊園地や野球場にいる、あのきぐるみですよ」
 先程と変わらない時川の笑みのはずなのに、薄ら寒く感じるのは気のせいか。先程と変わらない口調なのに、こんなにも人間味が感じられないのは。膝の上の拳を固く握りしめた恵美に気づかなかったのか、時川はそのまま続ける。
「あれって不思議ですよね。中身の人がどんな人だろうと外見上はわからない。バイトの人なのか、その人は若いのか年老いているのか。外見がどんなに可愛かろうと、中では拳銃を握りしめているかも知れない」
 陽が落ちてきた。ブラインドの向こうから射す光量が増え、逆光で七香月の顔を薄く影を纏う。
「そのきぐるみを、模した生物がいる」
 両肘をつき、手を組み口元を隠した時川の顔は、光の加減でかするどい眼光を放っているように見える。
 その眼は決して、笑っていない。
「あなたは知っているんじゃないんですか。恵美さん」
 ……片桐という人は一体いつになったら帰ってくるんだろう。こんな人と二人きりだなんてあんまりだ。恵美が理不尽な状況に怒りが湧いてきた、その時だった。
「ただいまー!」
 元気な声と共に勢いよく扉が開かれた。恵美は咄嗟に立ち上がりかけた。
「おかえり、美雁」
 先程の無味乾燥な声とは百八十度違う、柔らかな時川の声をかけられたその人物は、真ん中の椅子に座った恵美に気付くと、げ、と声を洩らした。
「やば、お客さん? ごめんね、吃驚させて」
 恵美はその目を丸く見開いた。入ってきたその人物は、女で、近所の高校の制服を着ていた。
「ケーキ食べてたの? 克也、私の分は?」
「ちゃんと取ってありますよ」
 やった、とはしゃぐ様は本当に普通の女子高生だ。時川は立ち上がると恵美の背後のテーブルでお茶の準備をし始める。どうして女子高生がカウンセラーで従業員となごやかに?
「えっと……あなたは一体?」
「私? 私は片桐美雁よ。よろしく」
 手に持っていた鞄を適当に放り投げると、彼女は恵美にニカリと快活な笑みを見せた。
 片桐という名字。ああ、と合点がいく。
「それで、あなたのお父さんはいつ帰ってくるの?」
 恵美の質問に、美雁の笑みが一瞬止まった気がした。
「……父さん? 何の話?」
「え? だって、ここのカウンセラーなんでしょ?」
「ここのオーナーは私よ。片桐カウンセラーにようこそ!」
 くらりと目眩を感じた。やはりここに来たのは間違いだったか、と恵美はもう後悔し始めていた。
「改めて自己紹介するわね。私は片桐美雁、十七歳。さっきのあれは、従業員の七香月克也、二十一歳。二人でカウンセラーをやっています」
 時川、克也は「紅茶葉が切れた」とか言って事務所から出ていった。おそらく、このビルの三階部分が住居となっていて、そこに取りに行ったのだろう。恵美はほっと息をついた。
 恵美はもう一度まじまじと美雁を眺める。髪は背中ほどまでだが量が少なく、毛先がちらほらと妙な方向へ跳ねている。太っている感じもやせぎすな感じも受けない、至って普通の女子高生だ。ただ、その目が大きくて強い光を宿していて、エネルギーに満ちた印象を受けた。
 美雁は書斎机の黒い椅子には座らず、どこからかもう一つパイプ椅子を引っ張って来て、恵美の横に座った。その座り方も女子高生らしからぬ、背もたれを恵美に向けそれを抱え込むようにした座り方だ。未だ制服姿でスカートなのに、背もたれを前に持ってきているために股は開いてしまっているがそれを恥じる様子もない。随分とさばさばした人だ。
「……カウンセラーって、免許要るよね」
「ああ、まぁ、要るわね」
「持ってるの?」
「……持ってない」
 視線を逸らした美雁の横顔を恵美は呆れた顔で見つめた。
「そもそもここは、カウンセラーじゃないのよ」
 え、と声を洩らすと気まずそうに頬を掻く美雁の黒い目と目が合った。
「私の母さんがこの事務所でカウンセラーやってたんだけどね。ここの名前が片桐カウンセラーのままなんだけれど、私がここを使い始めてからはカウンセラーではないの。普通のカウンセラーじゃない、って所かな。正確には相談所ね。つまり」
 その、『変わった』人本人ではなく、その人の近しい人が相談に来る事。その本人を連れてこない、連れて来られない事。そういった相談者だけが来るための、あのポスターのキャッチコピーなのだ、と。
 相談者の話を聞いてから、仕事を受けるかどうか決めると、美雁は言った。
「仕事を……受ける?」
「少し特殊かもしれないかもね。あ、プライバシーはちゃんと守るよ」
 少しも何も、かなり特殊だ。むしろ変。相談者を限定し、その上仕事を選り好み? そんなので利益があるのだろうか。
「正直、ほとんどない。でもほとんど趣味みたいなものだし、利益の追求は考えてないの」
 趣味、の言葉に恵美は眉根に皺を寄せた。こっちは真剣に相談に来たっていうのに、趣味なんかで相手をされてしまうのか。
 恵美の様子に気づいたのか、慌てて訂正しようとした口を止め、ぐっとこらえた声で謝罪した。
「ごめん。趣味っていうのは失礼だったね。でも、私はこの仕事に対しては真剣だから」
 言外に、だから信用して欲しい、と言われたような気がした。
「……一週間くらい前からなんだけれど」
 恵美はぽつりぽつりと『あの』兄のことを話し出した。つい最近現れた、兄のことを。
「様子がおかしいっていうけど、その変わり方が半端じゃなくて、本当に別人みたいで」
 先程よりずっと強く拳を握りしめる。
 一週間程前。中学二年生の兄、高瀬優は突然倒れた。病院に連れて行っても体に異常はなく目覚めない。原因不明の昏倒に陥った。そして翌日、何事もなかったかのように目覚めた。
 その後からだ。優はおかしくなった。
 何かに対して非常に怯えるようになった。だが、それを恵美に訴えている途中に突然笑いだしたり、深夜にぎらぎらした目で徘徊したり。訝しく思い問いただそうにも、昨日、刃物を持ち出すのを見てしまった。
「お父さんやお母さんの前じゃ普通なの。お兄ちゃんがおかしいって言っても聞いてくれなかった。思春期じゃないのって」
 横にいる美雁を見れば、真剣な顔がそこにはあった。その顔は未だ未成年である事を忘れさせるほど端正で美しい。
「助けて、くれるの?」
 太陽のように明るい笑顔で、目の前の少女は頷いた。

 夕飯でも作ってますよ、という時川の見送りを背に、恵美と美雁は片桐カウンセラーを後にした。
 正直、時川から離れられてほっとした恵美だったが、この今の状況に困惑してもいる。
「それじゃ、その優くんに会いに行きましょうか!」
 美雁のその一言で恵美は連れ出されてしまった。
「どうしていきなり……」
「兎にも角にも会ってみないとね。私の仕事かどうか、見極めなくちゃならないし」
 その言葉に驚いて隣を歩く美雁の顔を見上げた。
「請け負ってくれないの?」
「本当のカウンセラーにお世話になる場合もあるでしょう。私の目的と違うなら、恵美ちゃんには悪いけど、私の出番じゃない」
 美雁は出掛ける時に事務所から持ってきた布に包まれた何か長い棒のようなものを担ぎ直しながら言った。
「その時はちゃんとしたカウンセラーを紹介してあげる。信頼できるところをね」
「そんな……私は、あなたにお願いしたのに」
 ごめんね、と苦笑しながら恵美に謝る美雁。
「でも、恵美ちゃんの話からすると、私の仕事である確率が高いわね」
「さっきから、仕事とか、目的とか、一体何の事なの?」
 そういえば、彼女は先程趣味と言った。それは訂正したものの、美雁がこのカウンセラー?の仕事を好きでやっていることになる。まだ高校生の美雁が、そこまでこの仕事に執着する理由が解らない。
「……まぁ、ちょっとね」
 美雁が恵美に笑いかける時、それは丁度親しい友人に向ける素直で綺麗な笑顔だった。しかし、今の笑顔は聞き分けのない子供に対する困ったような、まだ物の解らない子供に悲しい事を隠しているような、そんな笑顔だった。
 時川の笑顔からは何も感じ取れない。美雁の笑顔からは感じ取る物が多すぎる。恵美にとって、こんなに鮮烈な人々と出会ったのは初めての経験だった。

 住宅街の、普通の一般家庭が住むであろう、二階建ての一軒家。平日の夕方、それなりの賑やかさの中でこの家だけが切り離されたように静まりかえっていると感じるのは果たして気のせいか。窓の一つにも明かりは灯っていない。
「お父さんとお母さんは仕事に出てるから、家にいるのはお兄ちゃんだけよ」
「学校から帰ってないってことは?」
「最近、行ってない。自分の部屋に引きこもってるの」
 引きこもって何をしているか、なんて、訊こうものなら何をされるか分かったものではない。それほどまでに兄・優は変わっていた。一週間前までは、優しい普通の兄だったのに。
 家に入るのにひどく疲れる。本当は心の拠り所となるべき場所なのに。
 俯く恵美の頭に、美雁の手が優しく置かれた。
「恐がってちゃ何も変わらないよ。恵美ちゃんのお兄さんでしょ、信じてあげて」
 微笑む美雁に少しだけ勇気をもらって、暗い家へと美雁を招いた。
「ただいまぁ」
 暗い廊下に間延びする声が響いても、応える声はない。後ろから美雁が、お邪魔しまぁす、とやはり間延びした声が続く。廊下の電気を点けると、綺麗なフローリングの床が浮かび上がった。
「お兄さんの部屋は?」
 二階、と答えると美雁は何のためらいもなく玄関のすぐ右横にあった階段を上がっていく。
「ちょっと、いきなり会っちゃうの!?」
「会わなきゃ何もわかんないじゃない。で、お兄さんの部屋は?」
 慌ててついていっても美雁は止まる様子を見せない。実を言うと階段を昇った先の、すぐ右にある部屋が兄の部屋なのだが、美雁がそれを知るはずがないのに、美雁は違わずそのドアノブに手を掛けた。
 本当に止める間もない。こいつは暴走列車か! と脳裏でちらりと思ったがそれを口に出す前にドアは開いてしまった。
 内側から。
 ぱっとドアノブから手を離した美雁の前に暗い室内から出てきた優がいた。
「どうしたの、恵美? この人は?」
 にこやかに笑顔を浮かべ、美雁を前にしている少年はパジャマ姿で、いかにも今まで寝てました、という風情である。しかし、そうでないことを恵美は知っている。
「……友達の、美雁さん。お兄ちゃんと話がしたいって。ごめんね、風邪ひいて寝てるところに」
 ひくつく唇を無理矢理笑みに変えると、優は美雁に目を向ける。
「僕に? 一体何か?」
「あなたに訊きたい事があるの」
 優の目を美雁がじっと見つめる。美雁のあの布に包まれた棒を持つ手に力が込められた。
「何でしょう?」
「……あなたは、変わった?」
 そんな直球な、と焦る間もなく、優が美雁を突き飛ばした。
「お兄ちゃん!」
「てめぇにそんなこと言われる筋合いねぇよばぁか!」
 豹変だ。美雁は廊下に尻餅をつき、咳き込んでいた。しかしその目はずっと優を見つめている。
「恵美」
 冷たく呼ばれる声にびくりと肩を振るわす。優は上背で恵美を上から睨みつける。
「こいつを呼んだのはお前だよなぁ?」
 返事をすることも、首を振る事も出来ない。ただ鼻先にある見開かれた優の目を見ていた。目をそらす事が出来なかった。
「何でそんな事するんだこんな奴関係ないのにお前はいつも俺についてきたよな俺のすることはいつも黙って見てたよな今更なんでこんな事するんだ!!」
 口の中で、ごめんなさい、と呟くがもう優には聞こえていない。
「許さないよ」
 優の表情が何か赤くて黒い感情に染まっている。口角を上げてはいるがそれは決して笑顔ではない。狂気染みたその言葉に恵美は見えない何かにがんじがらめになったように動けなくなってしまう。
「父さん母さんは知らないんだ俺が強いってこと知る必要はないから知った途端にあの世行きだお前が知ってればいいんだお前もこの女も俺がみんな殺してやるんだ!」
 後退った足が角を感じた。後ろには階段、足場がない。下から吹く風を背中に感じ、どっと冷たい嫌な汗をかく。
「お前は」
 ずい、と出された手から本能的に逃れようと体を後ろへ。そして足は宙を掻く。
「俺の妹だ」
 一瞬の浮遊感の後、恵美の体は重力に従い、階段を転げ落ち――なかった。
 手を掴まれ引っ張られるのと同時に、足を踏み外し体を階段の角にしたたかに打った。骨やら肉やらがかなり痛んだが、一階まで落ちるよりはずっと軽傷だろう。
 上を見上げれば美雁が恵美の手を掴んでいる。血管がしぼられるような錯覚を起こしそうなほど握られているのを感じ、のんきにも美雁さんって握力強いな、と思った。恵美が足場を確保したのを見て取り、美雁はホッとした様子で手を離した。
 離した後の行動はまた早かった。美雁の後ろで電池が切れたように止まっていた優に掴みかかった。パジャマの襟を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「何やってんのあんた! あんたの妹だろーが!」
 階段に伏せて、美雁の後ろから見える兄の姿に変化が見えた。美雁の剣幕に驚いているようで、自分のした事に呆然としているようで、そして怯えているようで。
「あんたはもしかして、自分の中のものに怯えてるんじゃないのか!?」
 優の目が驚きに見開かれた。我が意を得たり、という風に不適に笑う美雁の目に釘づけになっている。
 美雁が掴んでいた手を勢いよく放した。優はよろめき、壁に背を当て項垂れる。
「今は引き返す。あんた、負けるんじゃないわよ」
 立てる? と美雁に助け起こされた恵美は壁際の優を見た。脱力し項垂れる兄の表情は見えない。茫然自失のようにも見えるし、唇を噛み締めているようにも見える。その兄に、掛ける言葉が見つからなかった。
「一緒に来て、恵美ちゃん」
 妹借りてくわよ、と優に一方的に言うと、二人は階段を降りた。

「これは私の仕事だわ」

 外に出ると日は暮れていた。夕方の余韻が西の空に残っている。正面に高瀬家を見、美雁はそんなことを言った。
「引き受けるからにはちゃんと解決する。約束する。だから、協力してほしい」
 何を、と視線で先を促すと、少し言い淀んだ後、明瞭な声で言った。
「さっきまで、私はあなたのお兄さんはもう死んでると思ってた」
 自分でも訳のわからないうちに口を押さえていた。脳内に一瞬手を入れられ底からひっくり返したみたいにぐちゃりと思考が潰れ、意味不明な言葉を発しようとしたのを抑えたのだと思う。
「でも、お兄さんはたぶんまだ生きてる。このまま放っておけば時間の問題だと思うけど」
「……ちょっと待って。ちゃんと説明して」
 美雁はついと顎を引くと、何か考えているらしかった。しばらくそうしていたかと思うと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。
「きぐるみ」
 昼に話した、時川と美雁の姿が被る。あなたは知っているんじゃないんですか、恵美さん。
「私達は、あれみたいなのをキグルミと呼んでいる」
 あんなの。
「お兄さんみたいな。一見すれば、二重人格のような状態になること」
「お兄さんは、キグルミ?」
 そう、と頷く。街灯の灯りが美雁の上に降り注いでいる。段々と周囲の闇が強くなっていく中で、美雁の周りだけが明るい。逆に恵美は光の輪の外に立っている。光の境界が二人を裂いている。
「キグルミは、生物。人間とは違う、人格を持った生き物で、この世界で肌を曝していると早く息絶えてしまう。だから、奴らは人間を被る」
「被る……」
「人間の内側に入り込むと、中を徐々に食べながら征服しようとする。その人の記憶や人格を取り込むと、後は奴らの好き勝手。人間の常識なんてないから、奴らは人道に外れていようとお構いなしに暴虐の限りを尽くす」
 胸の上に置いた拳を握りしめる。それに美雁が気づく様子はない。
 天真爛漫な先程までの美雁と同一人物とは思えないほどの美雁は全くの無表情だった。
「中身が入れ替わったかどうか、普通の人にはわからない。でも、私達にはわかる。キグルミを倒す――殺すために、私はこの仕事をしてる」
 さっき会って確信した。お兄さんには、キグルミが入り込んでる。
「死んでない、っていうのは?」
「まだお兄さんの人格が残っている感触を受けた。まだ食い尽くされる前なら、障害が残るかも知れないけど、助かる可能性はまだある」
「美雁はどうして、キグルミを殺そうとするの?」
 随分と億劫そうに、美雁は顔を上げ、恵美の顔を見た。暗闇に紛れ、見えたかどうかは定かではないが。
「――父さんと母さんが」
 ころされた。
「だから、私は、キグルミが憎い」
 押し殺した声だった。しかし表情はその声を、感情を裏切って、光の中に浮かび上がっていた。
 口角を上げた笑み。美雁自身は気づいていない。その笑みに、恵美は悲しそうに顔を歪め、目をそらす事しかできなかった。

 携帯電話で呼ばれた時川はすぐに、ワゴン車でやってきた。道案内も美雁から簡単に聞いただけなのに、違うことなく高瀬家の前に車を横づけた。
「克也。確定よ。キグルミ」
 時川は微笑で頷いたが、美雁の顔を見るとその笑みをさっと消した。
「え……克也? どうしたの?」
 普通の状態に戻っている美雁に早足で駆け寄ると、その頬に手を添える。美雁の顔は一瞬で暗闇でも判るほど赤く染まった。
「美雁?」
 何、と答える声がどもっている。横で見ている恵美もなんだか気恥ずかしくなる。
「……何とも、ない?」
「ない、よ。何にもないよ。大丈夫、だよ」
「……そう」
 幾分か不満そうだったが、時川は手を収めた。
 時川は美雁から指示をもらうと、鷹揚に頷いて、美雁と同じくためらうことなく高瀬家へ入っていってしまった。この人達は、と呆れる間もない。
「そういえば、恵美ちゃんは嘘だ、とか言わないのね」
 へ、と間抜けな声が出た。いきなり話を振られて何のことだかわからない。
「キグルミのこと。信じられないでしょ? 人間を被るバケモノのことなんて。私は信じてくれてると助かるから別にいいんだけど、普通は疑わない?」
「……世界にはきっと不思議が満ちてるんだなぁ、って位にしか思わないけど」
「随分と見解が広いのね。こんなことを話す私達を疑ってもいいのに」
「助けてくれるって、言ったから。私はまだ子供だから」
 人の言う事をそのまま信じる。嘘である可能性もあるけれど、疑わずに信じる。子供だから。まだ損得の勘定が出来ないから。
 言い訳にも理由付けにも聞こえるが、信じてみようと思ったのは本当だから。
「協力が必要なのよね」
 私にも手伝わせて。優を、兄を助けるために。


 殺す殺す殺す。みんな殺す。あの親もさっきのあの女も。だけどあの妹は最後だ。あれは『トクベツ』だ。
 カーテンを閉め切り、灯りも点けない暗く狭い室内を、ぐるぐると歩き回る少年は、ひたすら自分の指の爪を噛んでいた。ぼろぼろになっても噛み続けたそれは血が滲み出てぽつぽつと床に後を残している。
 床に散在するのは、中学生の部屋には不似合いな、コードや薬瓶。
 頭を使うのは好きだ。脳が活発化し、血が隅々まで行き渡るのがわかる。それを殺しのために使うのはもっと好きだ。だが『あいつ』が頭の中で喚くのは実に腹立たしい。かち割ってやりたくなる。
 刃物もあったが、それの殺しは頭を使うのとは別の快感があった。頭が真っ白になって、でも手は逆に真っ赤に染まって。昨日、猫を殺したのは本当に良い体験だった。
 でも今日は頭だ。薬瓶の中身は毒、コードの先には電気。ガスもいいかと思ったが、それはまた今度だ。
 毒瓶を掴もうとした時、かすかな音が聞こえた。玄関のドアが開いた音。
 妹が帰ってきたのか。あれは可愛い。親を殺すまでは俺の隣に置いておこう。とりあえずみんな殺したら、妹を殺して俺の隣に置いておこう。
 部屋から出て階段を降りると、玄関のドアは五センチほど開いているだけで誰もいなかった。
「恵美? 帰ってきたの?」
 ドアの向こうに優しい声で話しかけても答える声はない。苛つきを覚えながらもドアを閉めると、今度は二階で音がした。かたん、と微かな音。
 まさか。
 大きな足音をたて階段を駆け上り、部屋へ入った。
 ない。毒瓶も、電気バッテリーも、コードも、部屋に散在していた少年の武器全てが。
「あのクソアマが……っ!」
 唯一盗られていなかった刃渡り二十センチのサバイバルナイフを引ったくると、パジャマのまま外へと飛び出した。

 数分で時川は出てきた。手には段ボールを抱えている。中に何が入っているか、なんとなく想像できた。
 美雁と時川の二人はその場に恵美を残すと車に乗って行ってしまった。車が走り出す前、助手席に乗った美雁が恵美を見、こくりと頷いた。それに応えて、恵美も頷いた。
 程なくして、住宅街中に響き渡るんじゃなかろうかというほどの大きな音を立てて、高瀬家の扉が開いた。廊下の電気は点けっぱなしだったため、暗い夜道に灯りの領域が増えた。その灯りはぎりぎりで恵美の顔を照らしている。
 灯りを背にしている、優。肩を荒い呼吸に上下させ、手にはキラリと光るナイフ。それ以上に強い光を放つ、優の怒りに満ちた両の目が、恵美に向けられている。
 恐怖に身が竦んだ。あの大きなナイフで、心臓を一突きにされるのだ。血がたくさん出て、死ぬんだ。どうしても、あの目から逃れられない。
 お前は、俺の妹だ。
 『あいつ』が呼ばわった声が思い浮かぶ。
 違う。私は『あいつ』の妹じゃない。私を階段で突き飛ばした時、怯えていたのが私の優お兄ちゃんなんだ……っ!
 歯を食いしばり、恐怖に震える体を叱咤し、あの強い目を睨み返す。そして、叫んだ。
「私を殺してみろ!」
 人の言葉ではない吼えを発し、少年は恵美に飛びかかった。

 逃げる、逃げる、逃げる。逃げる背を追う少年はもう人間ではない。獣だ。
 キグルミになった人間は超人的な力を身につける、と美雁は言っていた。なりかけの人間も超人なんだ、とどこか機能の停止した脳で考える。
 恵美は少年に捕まらないように、且つ、引き離しすぎないように逃げていた。実際、引き離す事なんて全くないけども。
 最初こそ烈火の如く怒りを発露し追ってきた少年だったが、すぐに捕まえられそうでなかなか捕まらない、手強い追いかけっこの面白さに気づいたらしく、恵美が捕まりそうになるとふと手を緩め必死で逃げる恵美の姿を見て笑うようになった。
 それなら、と恵美も必死で逃げる。襲い来るナイフを紙一重で避け、コンクリートの道で擦りむいた膝にかまわず走り続ける。止まれば命はない。恵美のも、優のも。
 住宅街を抜けた。開けた空に輝くのは星。荒い息をそのままに、夜空を見上げて、ああ今日も綺麗だな、と思った。現実逃避もいい加減にしろ、と怒る声が聞こえたが、またこの夜空をお兄ちゃんと見たいな、と思う気持ちも切実だった。
 どん、と背中を蹴られた。息が詰まり、息を吐き出そう、吸おうと必死になり一瞬足が止まった。その隙を見逃さず、少年はさらに蹴りを繰り出す。尻に当たりまた転ぶが、ナイフの一撃だけは横様に転がりどうしても避ける。かすったナイフは服を裂き肌に赤い筋を残していたが細かい痛みに構っていられるほど暇ではない。
 起きあがった先に川が見えた。やった、ここまで来た――恵美の右脇腹に容赦のない蹴りが入った。左手には河原、恵美は逆らうことなく河原を転げ落ちた。
 痛みに起きあがる事ができず、うずくまって咳き込んでいると腹の上に少年が跨った。肺の中の空気がこれでもかというほど外へ逃げていく。呻り声を上げると面白がるように少年が笑う声が聞こえた。
「なぁ、なんでこんなことするんだ? 恵美」
「あんたに呼び捨てにされる筋合いなんてない……っ!」
 ばしん、と頬を叩かれた。人ならざる者の力としては撫でたようなものだろうが、恵美の頬は赤く腫れじんじんと痛みを訴える。
「俺はお前が好きだよ、恵美。なんでわかってくれないんだ?」
 まくし立てるような口調はなりを潜め、ゆっくりと子供に言い聞かせるような言葉遣いをしてくる。それは少しだけ兄に似ていたが、全く違うものだ。
「馬鹿言わないでよ! お兄ちゃんならまだしも、何であんたに好いてもらわなくちゃならないのよ!」
 とどめに少年の顔に向かって唾を吐きかけてやる。飛距離が足らず、少年の腹にそれは落ちたが、少年が怒りにぶるぶる震えるのが判った。
「お前は最後だったのに、言う事を聞かないから!」
 ナイフを両手に持ち替えると、大きく振り上げた。少年の体は重くその下の恵美は逃れられない。ぎゅっと目を瞑った。
 暗い視界に、ぎゃ、という叫び声が重なり、同時に腹の上の重みも消えた。
 目を開けると、時川がそこに立っていた。普通に、何もないかのように。
「頑張りましたね、恵美さん」
 あれだけ怖いと思った時川に安堵を覚え、不覚にも泣きそうになった。
「お前……何しやがる!」
 先程の叫び声は少年のものだった。少年は恵美から二・三メートル離れた所でナイフを構えつつ咳き込んでいた。
「人の命が危ない時に、放っておくほど僕は非情じゃないんでね」
「邪魔するんじゃねぇ!」
「僕に構ってていいんですか? ほら、後ろ」
 激昂し飛びかかろうとした少年は時川の声に後ろを振り向いた。そして煌めく銀の一閃。
 美雁がその手に持った銀の薙刀が、少年の腹を横一文字に薙いだ。
「―――っ!?」
 驚いたのは恵美である。薙刀はきちんと刃がついている、あんなもので切られたらひとたまりもない。
「落ち着いて、恵美さん。大丈夫ですよ」
「大丈夫って、何が大丈夫なの!? だって、切――」
 少年は一拍動かなかったが、腹に手を当てた。血も出ていないし、服さえ切れていない。
 少年が、にやりと笑ったその直後、異変は起きた。
 がくん、と膝から落ちた。困惑の色を浮かべ、立ち上がろうとする少年の腹に、黒いものが見えだした。
「お、え、あ」
 少年が不明瞭な声を洩らす間も、その黒はだんだんと広がっていく。そしてついには、どろりと液体のように、しかし一塊りの何かが少年の腹から出てきた。
 そして美雁は少年の腹から出てきたその物体の、少年との最後の繋がりである黒い尾を薙刀で切り離した。
 獣の叫び声が薄暗い河原に響いた。しかしそれは少年の口から発せられたものではなかった。
「克也!」
 美雁の呼ぶ声に時川が少年――優へと駆け寄る。意識が途切れ倒れそうになった優の体を優しく受け止める。
「恵美ちゃん。ようやっとこいつと戦える。よく頑張ったね」
 薙刀を苦痛の叫び声を出し続けるあの黒い物体に油断なく向けながら、美雁がねぎらいの言葉をかけた。その言葉に今度こそ、恵美の目から涙がこぼれた。
 大きなオタマジャクシかと思ったら、体に蜘蛛のような足が生えている。しかも頭には人の顔を模して失敗したような、歪んだ男の顔があった。黒いただの塊だったものがこの空気の中で形作ったのは、その精神を忠実に再現したかのような醜悪な姿だった。
『てめぇ、何者だ! 俺の邪魔をするんじゃねぇ!』
「あんたそれしか言えないわけ? 自分の低脳を先に何とかしなさい」
 美雁の暴言に似非オタマジャクシ、キグルミの本体は、怒りに顔をさらに歪めた。しかしその体は大気の中で尻尾の方から砂のようになって崩れてきている。
 美雁が恵美に振り向き、にっこりと笑った。
「恵美ちゃんはお兄さんを助けてあげて。こいつは、私がちゃんと片づけるから」
 飛びかかってきたキグルミを薙刀の一太刀で弾き返す。そしてそのまま追撃へ。その戦闘振りを見ていると、どうしても高校生には見えなかった。
 戦っている美雁を気にしながらも、恵美は優へと駆け寄った。優は地面に寝かされ、時川が脈を取っていた。
「お兄ちゃん、どうなの。大丈夫なの?」
「少しまずい状態ですね。呼吸をしていない」
 自分まで呼吸が苦しくなった。
「どうしたらいい? 私に何かできること、ない?」
「とりあえず、落ち着いていてください。きっと助けますから」
 落ち着け、なんて、とても無理だ。兄の命が消えかけていて、そしてすぐそこでは少女とキグルミが戦っている。こんな状況で落ち着ける人がいれば是非一度会ってみたい。
 時川が優に人口呼吸を繰り返す。恵美はそれをじっと側で見ていた。
「怪我、してますね」
 時川が作業の片手間に口を開くとそんな言葉が出てきた。この人は何を言っているんだろう、と呆然とそれを聞いた。
「ここまでの誘導、お疲れさまでした。この子が終わったら、次はあなたの番ですね」
 優へ息を吹き込み、そして自発呼吸の再開として優が咳き込むのを聞いた。
「お兄ちゃん」
 恵美への呼び掛けに、優の手がぴくりと動いた。
『畜生がぁ!!』
 いきなりの怒声に恵美と時川が振り返った。そこには、大気の中で体を消費し、容量が半分ほどに減ってしまったキグルミがいた。その距離二メートル。美雁はキグルミを挟んで反対側に五メートルほど。遠すぎる。
『ふざけんなふざけんなふざけんなぁ! こんな所で死ねるかまだ誰も殺してねぇ! 誰も誰も誰も! これから、これから殺すんだったのに!』
 蜘蛛の足でよたよたとこちらに近付いてくる。時川が恵美と優を庇うように前へと出る。恵美は優の頭を守るように抱いた。
『優は小さすぎた小さくて臆病でいつも怯えてやがっただからしくじった!』
 キグルミはがくん、とバランスを崩し、拍子で蜘蛛の足が一本刮げ落ちた。
『……死にたくねぇよ』
 その小さな声に、時川の体が硬直したように見えた。
『だから、その体をくれぇ!』
 キグルミが足を縮めて一気に高く飛んだ。落下点にいる、狙いは時川。
「克也!」
 美雁が草を掻き分けながらこちらへ走ってくるが、とうてい間に合わない。
 恵美は一歩も動けない。そして、キグルミの体が時川の体に衝突した。
 が。
『な、んだと……!?』
 衝突したのは確かだ。しかし、その衝撃で尻餅をついた時川とは逆に、キグルミは慌てて飛び退り、驚愕の面もちで時川を見ていた。
『お、前』
 その表情に、恐怖の一念を感じ取ったのは気のせいだったろうか。

 キグルミの背後に銀の薙刀。美雁がそれを振り下ろし、キグルミの体は真っ二つに裂け、そして砂が風に巻き上げられるように消えていった。

 もう、真夜中近いだろうか。空には以前、満点の星。
 相談料、解決料を払うと言った恵美の申し出を、美雁は丁重に断った。
 再び布の巻かれた薙刀を肩に抱き、キグルミにつけられたのだろう若干の傷を負った美雁は、そんなのいらん、とひらひらと手を振った。
「だって、治療費とか」
「言ったでしょう、真剣だけど好きでやってるんだって。正義のヒーロー振るんじゃないのよ、私がキグルミ退治したいからやったの。お金なんてもらえない」
 でも、とさらに言い募ろうとした恵美に時川がさらに言う。
「こっちは正規のカウンセラーじゃないんですよ。その分、料金表も正規じゃない。小学生のお小遣いで払える訳ないじゃないですか」
「そうそう。うちってば、ぼったくりだから」
 そう言って笑う二人に、それ以上返す言葉が見つからない。恵美の優を抱く手に力がこもる。
 うぅん、と呻る声がした。
「苦しいよ、恵美」
「お兄ちゃん」
 戻ってきた。自然と笑みと涙がこぼれた。
 目を覚ました優には、ここ一週間の記憶が完全に抜け落ちていた。キグルミの残した障害だろう、と美雁は言ったが、逆にその方が良かっただろう。あまり気持ちのいい話ではないから。
「恵美、この人達は? ここはどこ?」
「友達だよ、おにいちゃん。もう、大丈夫だから」
 涙が止められない。そして、二人に言うべき言葉が見つかった。
「ありがとう」
 本当に、ありがとう、ともう一度言うと、美雁は満足した笑顔を浮かべて、どういたしまして、と応えた。


『From:高瀬恵美
 勧められた通りにやってみました。うまくいったみたいです。最初は怖く感じたけれど、とてもいい人達でした。きっと、私の方も大丈夫だと思います。少し気になる点もありますが、相談に乗ってくださって、本当にありがとうございました』

「誰へのメールだい?」
 吃驚して振り返った先に、例のあの笑顔があった。ドアにもたれかかり、時川は細い目で恵美を見つめている。薄暗い部屋の中に、ドアから昼の日が射し込んでいる。
 恵美が、誰にも見つからない場所として選んだのが、この町はずれの倉庫だった。どうしてここに時川がいるのかまったくわからない。心臓が早鐘のように波打っている。
「……誰だって、いいじゃないですか」
「それがよくないんだ。美雁に危険が及ぶかも知れない」
「どうして? 小学生で助けてもらった私が、どうして美雁さんに危険を及ぼせるって」
「君、キグルミだろう?」
 がつんと殴られた気がした。気がしただけなのに、こうも頭が痛い。
 さっきのメールを訂正したい。絶対に、この人はいい人じゃない。
「美雁の薙刀はキグルミを感知できるんだ。君にもずっと反応してたし」
「……それじゃあどうして、美雁さんは気づかなかったの」
「僕がそう仕向けたから」
 時川が取り出したのはその薙刀だった。銀に光る刃はそのままである。
「これも半分、キグルミみたいな物でね。僕の指示に従う」
「どうして、そんなことを」
「僕は僕なりの、キグルミ退治に関するポリシーがあってね」
 時川は恵美の手から携帯電話を取り上げると、先程送信されたばかりのメールを目で追った。ふぅん、と声が漏れる。
「なるほど。やっぱり君は僕らが退治屋だって知ってて来たんだね」
 恵美は時川を警戒し睨みつけるが、対する時川は飄々としたものだ。フ、と笑って携帯電話を恵美の手の中に戻す。
「あのキグルミは新参者だったんだね。そして、兄の中に入ったのを知って君は焦った。二人もキグルミがいると見つかる可能性は高くなる。だから先に君が僕らに相談に来たわけだ」
 そう、指示された。メールの相手に。
「このぶんじゃ相手もキグルミっぽいね。キグルミに組織図なんてないはずだけど、最近はそうなのかい?」
「……知らない。メールもあっちから一方的に来たものだし。あっちが、片桐カウンセラーに相談するといいって」
「そうか。僕らも有名になったもんだ」
 時川の推理はほとんど当たっていた。しかし、どうしても訂正しなければならない間違いがある。時川を真っ正面から出来うる限りの力で睨みつける。
「一つ言わせてもらうと」
 うん? と時川はやはり笑顔だ。
「確かに私の存在がばれるっていう恐怖はあったけれど、私は、お兄ちゃんが好きだから助けてもらいたかったの。優としてのお兄ちゃんを、助けてもらいたかったから」
「……そうか。それならきっと大丈夫だね」
 何が大丈夫なのか、時川はそのまま背を向けてドアへと向かっていた。
「ちょっと待ってよ! 私を殺さないの!?」
「どうして?」
「どうしてって、美雁さんが、キグルミが憎いって、あんたもそれに賛同して一緒に行動してるんじゃないの?」
「僕はもともと、美雁が片っ端からキグルミを殺す事には反対なんだ」
 それとも何、殺してもらいたい? と無邪気な笑顔で尋ねる時川に首を横にぶんぶん振ってみせる。
「君みたいに、不可抗力でこの世界に来てしまって、平穏に暮らしたいって望むキグルミも、多くはないけどいるからね」
 どうしてそんなことまで知っているんだろう。ただの人にしては、キグルミについて詳しすぎる。
 恵美の脳裏に浮かんだのは、あのキグルミの今際の際の表情。
「……っ! あんた、まさか……!」
 恵美はキグルミである。だからわかるのだ。キグルミは非物質だ。あの銀の薙刀はキグルミの特性を活かし、キグルミのみを切断・抽出出来るようにしたものなのだろう。キグルミはキグルミに触ることはできるが、普通の人間にはむき身のキグルミさえ触れることはできない。キグルミの侵入を防ぐことはできない。
 時川はあのキグルミとの戦いの時に、キグルミと『ぶつかった』。それは、時川の中に、既に何かがいるということ。
 にぃ、と笑ってみせる時川の、言いも知れない恐怖の根元を垣間見た。
「君は君のお兄さんが好きで、美雁が好きなんだろう? そして、君はそのまま暮らしたいと望んでいるんだろう。それなら僕だって目をつぶるさ。美雁には黙っているよ」
 恵美が黙っていると、時川は肩に担いだ薙刀を振るい、その刃先を恵美の鼻先へと突きつけた。
「君は、本物の恵美を殺した。それはもう仕方がない。もうこれ以上、人を殺さないと誓えるのなら、あえて僕はその邪魔をしたりはしない」
「あんたに他人の事言えるの…? あんただって時川克也を殺したんでしょう!?」
「僕以外に時川克也はいない。僕は、この体になって初めて時川克也になったんだ」
「どういうこと……?」
「君には関係ない。これから安穏として暮らせる君には」
 安穏として、暮らせる。真っ先に浮かぶのは兄の顔だった。
「キグルミだって死にたくない。生きるために他の命を奪うのは、人間だってしてることだ。必要以上の命を奪わなければ、キグルミも人間も同じだ」
 流れ着いた先に住み着いた体。小さい体だったが、それを守る人がいた。生まれついた場所を離れ、ひとりぼっちだった恵美――キグルミにとって、それは唯一の温もりだった。
「ただし」
 キグルミは、非常に自分勝手な生き物だ。時川は薙刀を肩に担ぎ直すと、ドアノブに手を掛けた。
「キグルミは、ただの人間にとって脅威となる。君が美雁に危害を加える要因に少しでもなるようなら、僕は間違いなく君を殺す。僕の事を美雁に漏らしても君を殺す。僕は美雁に嫌われたくないからね」
 やはり、笑っている。しかしここの空気には確かに殺気が混ざっている。この人は、本気だ。
 錆びた音を響かせて、倉庫のドアが開く。そういえば、この人はどうやって中に入ったのだろう。疑問に思う事でまたこの人の恐ろしさを感じ取った。
「一つ訊かせて、時川さん」
「はい、どうぞ」
 ドアを開けて、半分日の下に足を踏み入れている時川。暗い倉庫の中にいる恵美には、やはりその光が境界のように思えた。
「あなたが美雁さんにそこまで執着するのは何故?」
 美雁はあんなにも、心が歪むまでキグルミを憎んでいるのに。
 時川は、光の下で、それとわからないような、一抹の悲しみを帯びた笑みを浮かべて答えた。
「あなたは知っているんじゃないんですか。恵美さん」
 あなたが、優を想うように。
「僕は、美雁が大好きだからね」
 恵美を倉庫の中に残し、時川は昼の町へと出ていった。
「さて。美雁のお土産に、ケーキでも買って帰りますかね」