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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介


一剣一刀

高橋 亮
207A 国文学専攻


 遊佐吉孝(ゆさよしたか)は、手で顎髭をざらりとなでた。程よく火照った体に冬の風は酷く心地よい。そして何よりも。遊佐はにんまりと笑った。重い懐具合が実に遊佐を幸せにしていた。今日の賭け事で、独り勝ちしたのだ。この金をどう使おうか。不意に入った大金の使い道を遊佐は考えながら大路を歩いていた。その歩みは酒が入っているとは思えないほどしっかりとしている。それもその筈。遊佐は二年前の戦争で、護衛官として勤務していたのだ。――護衛官とは詰まり、将官の近くに侍り時には頭脳となり、そして有事の際には剣となる役目を持っている。そんな役目についていた遊佐だからこそ、しっかりとした足取りをしていて、そして大金が懐にある今、油断はなかった。遊佐は脇に下げた刀の柄に軽く触れた。決して治安が悪い街ではない。むしろ新しい憲兵総監に代わってから良くなったとも言える。だが。
 遊佐の笑みは消えていた。まばらに配置されたガス灯の下に黒い外套をまとった男が立っていた。手には一振りの刀。遊佐の手にじわりと汗がにじんだ。外套の男の佇まいが不気味だった。
「何者だ?」
 遊佐に油断はなかった。護衛官になる条件。それは冷徹な理性と強靭な精神力、そして何より剣の腕。野党の類に負ける要素はなかった。酒が入っていることも決してマイナスにはなっていない。冬の冷たい空気の中にあって、酒が遊佐の体温を程よく上昇させていた。手も、かじかんではいない。
 外套の男は遊佐の問いには答えなかった。否、それが答えだとでもいうようにスラリと刀を抜き去った。月光に照らされて刀身が青白く輝いた。外套の男が投げ捨てた鞘が大路に乾いた音をたてた。遊佐も応じるように刀を抜く。
 はあ、と遊佐の口から吐息が漏れた。念式抜刀、そう名付けられた護衛官特有の剣術。正々堂々を旨とせず、戦場の剣らしく己の守りたいものを守り、邪魔するものを確実に切り捨てる殺人剣と活人剣の二つの側面を持つ刀流。奇しくも外套の男も遊佐と同じ構えをした。
「護衛官くずれか?」
 声に侮蔑が混じる。外套の男は答えない。遊佐は笑った。それは獣の笑みだった。噛み殺す前の獲物をなぶる類の表情。
 遊佐は一瞬で相手の視界の外に出た。他者の死角に潜り込む技術。それこそ戦場の剣、念式抜刀の極意。遊佐から見れば正に男は棒立ち。左袈裟に斬り上げる。決まった。と遊佐は叩きつけるように思考した。
 だが、金属音。刀は刀によって防がれていた。外套の男の血走った目。遊佐は既に次の斬撃の為に動いている。
(――油断はなかった)
 高速に回転する思考と、視界の中で遊佐は思った。外套の男の死角に入ろうと動く。だが遊佐には奇妙な確信があった。俺はここで死ぬ、と。同じ流派。獲物も同じ刀。先手を取り死角に入り、左袈裟。それを防がれた次点で遊佐は自分と外套の男にある実力差に気づいていた。そして、不意に気づく。男を初めて見た時に汗が滲んだ事に。なるほど。遊佐は納得した。自分は兎も角、鍛え上げてきた体は相手の強さを悟っていたわけだ。
外套の男が不意に視界から消えた。死角に入られた。念式抜刀の一撃を防ぐには自身の死角を考え、相手と自分の体制から繰り出される一撃を予想しなければならない。肌で感じると、師は表現した。できるか? いや、やらねば死ぬ。出来なければ死ぬだけなのだ。
遊佐の刀と外套の男の刀。早かったのは、矢張りというべきか外套の男の刀だった。遊佐は迫りくる刃を、納得と共に見ていた。それはそうだろう。腕が違う。そう思ったが、遊佐は自分の刀がある位置に満足した。もし、外套の男より速く刀を繰り出せていたなら、それは防げた位置だったから。男の斬撃は逆袈裟。刃が、遊佐の体に触れ――。

血が舞った。




 海良典弘(かいらのりひろ)は読んでいた書類を机の上に放った。落ち窪んだ眼。鷲鼻。大きな口。輪郭は仁王を想起させるほどに厳つい。間違っても女子供に好かれる類のものではなかった。何より、その眼が悪い。いつも何かを面白がるような色が浮かんでいるのだった。人によってはそれを嘲笑われていると思うので始末がなかった。
「これを、私に片づけろと?」
 この世すべては冗談なのだとでも言いたそうに、海良は笑った。笑うとその顔に陰影が増し、まるで悪鬼のように見えるのがこの男の特徴だった。
「そうだ」
 答えたのは、海良の向いの執務机の上で手を組んでいる憲兵総監だった。名を曽根幸助(そねこうすけ)。人より秀でた知性を表すかのような広い額。冷たいと評される一重の目。唇も薄く、また輪郭も細かった。曽根は見た目通りの人物であり極度の実利主義者で能率、効率主義の熱心な信奉者であった。彼のそんな性格を表すのに、こんなエピソードがある。ある時、憲兵総監に就任した曽根の元に賄賂を携えてきた役人がいた。これは、半ば当たり前とでも言える行為だった。お互いの部署の『すべり』をよくする行為とも言える。ある種の共犯意識をもちあう事によって連帯感を高めるのだ。嘗ての憲兵総監職についていた男はそれを当たり前のように受け取っていた。風習であり慣習でもある。そして、何より自分の懐が温かくなるのを拒む人間はそうはいなかった。
 だが、その例外が曽根幸助という人物であった。曽根は賄賂を携えてきた役人をその冷たい目で一瞥した後ですぐさま憲兵を呼びその役人を拘禁させた。騒ぎ立てる役人に、一言だけ「自分の行為を振り返ってみることだ」とぼそりと漏らしたという事だけが伝わっている。だが、まるで氷のような人柄を持つ曽根だが、愛妻家でもあった。娼館から見受けした娘と結婚するという軍官僚としてはあまり風聞の悪い結婚をし、周囲に笑われ悪評も立てたが、曽根はそのすべてを黙殺した。見受けされた娼婦は曽根夫人となり、客の誰にも向けていた明るいが空っぽな笑みを捨てて、ただ一人の為に笑みを浮かべるようになり、浮かれたように過ごす日々から暖かな日差しが射す日々へと住むようになった。曽根夫人は何時だって幸せそうであり、曽根自身も顔には表わさないが幸せであっただろう。曽根幸助はそういう人物であった。
「数週間前に人が斬られたのを皮切りに次々と人が斬り殺されている。先日は遂に護衛官まで殺された」
 曽根は能吏じみた率直さで言葉を吐いた。海良は皮肉気に笑った。
「なるほど、身内が殺されては軍も黙ってはいないということですか?」
「それもある」
 曽根は身も蓋もなく頷いた。海良は僅かに鼻白む。この人は……、と。自分の性格を棚に上げた人物評を展開する前に曽根の次の言葉が響いた。
「だが、護衛官というのがまずかったのだ。護衛官というのは高級将兵につく補佐官だ。採用されるのは御国の中でも特殊訓練を積んだ猛者ばかり」
「それをふらりと現れた人斬り程度に斬られては、という訳ですか。なんとまあ」
「威信の問題だ」
 曽根の鳶色の瞳が、海良を射抜いた。
「やってくれるな、少佐」
 渋々海良は頷いた。独立精神、反抗精神旺盛であり、諧謔味がある人格を有しているがこの上官には逆らう気が起きなかったのだ。それに、今年で三十六。海良もいい加減逆らっていい人間とそうでない人間の区別がつくころである。
 曽根はうっそりと頷いた。
「護衛官を斬る程の腕前だ。調査だけとは言え、君自身が標的にされる可能性もある」
「そうでしょうね」
 海良の適当な相槌を聞き流して、曽根は手元にあった鈴を鳴らした。
 執務室の扉がノックされる。曽根は入れ、と短く言った。扉の外から返事が聞こえた。
 入ってきたのは、二メートルはあろうかという長身の男だった。縦だけでなく横にも大きく肩幅はがっちりとしている。だが、顔には愛嬌ともいえる幼さがあった。
「荻野之博(おぎのゆきひろ)護衛官です」
 決して大きくはないが、重低音の声が部屋に響く。曽根が頷いた。
「彼を護衛につける」
 海良は荻野をちらりと見て頷いた。
「なるほど、確かに頼もしそうですな」
 護衛官の威信という訳か。海良は笑った。なんとまあ、政治というやつは。
 曽根は海良の笑みの理由を全て把握してはいたが何も追及はしなかった。人間としては多少に問題がある男だが決して下劣ではない男である。使いどころさえ間違わなければいいと曽根は考えていた。
「良い報告を期待する」
 曽根の声に、海良は敬礼を返した。彼の瞳に浮かぶ感情についても、曽根は言及しなかった。



「荻野護衛官」
「はい」
 海良と荻野は資料室にいた。曽根の所でおおざっぱな資料は読んだがそれだけでは足りないと判断したからだ。
 海良は適当に書類をめくりながら、直立不動で立つ荻野に声をかけた。
「君はこの事件をどれほど知っている?」
「あまり知りません」
 太い眉を僅かに下げて申し訳なさそうに言った。
「自分は、あくまで派遣されただけでして、詳しい説明は受けていないのです」
「では、一般に公開されている程度の知識と考えて?」
「はい、結構です」
 そうか、と海良は頷いた。それ以降は海良が書類をめくる音だけが場を支配した。荻野が沈黙に耐えかねたのか声をだした。
「何かわかりましたか」
「どうかな」
 海良は若い護衛官に苦笑じみたものを返した。自分が荻野ぐらいの年の時はどんな人間だったかを考えかけて、やめた。考えるまでもなく碌な人間ではなかったからだ。それは今も変わらない。
「解かったことと言えば、犯人は女性には優しいということかな」
「は?」
 ぽかんと口を明けた萩野を好意的な目で見ると、海良は荻野の前に書類を広げた。
「これは、襲われた人間の身元を総覧してあるんだが」
「……確かに男性ばかりですね」
 荻野は関心したように頷いた。
「しかし、女性に優しい人斬りというのも妙な感じがしますな」
「そういった類の犯罪は弱者を狙うことが多いからね。彼らは自分より強い人間に挑戦したいわけではないのだから」
「では、そういった類の人間ではない?」
「その通り」
 海良は頷いた後で肩を竦めた。
「と、言いきってしまうのは速いかもしれないが私はそう考える」
 更に書類をめくる。
「これは?」
「殺害方法だ」
 書類に書かれた全ての殺人は刃物によるものだった。だが、殺害方法ではなく殺した後の記述に特筆すべきものがあった。
「これは……」
 荻野は絶句していた。その特筆すべき部分に眼がいったのだ。確かに刀で相手を斬り殺すことは荻野とて知っていた。だが、これは知らなかった。
「斬首、ですか」
「そう。首切りだ。人斬りは殺した後に必ず相手の首を落としている」
「……狂っている」
 荻野は苦々しく吐き捨てた。
「どうかな」
 海良のその言葉に荻野は目を剥いた。海良はその荻野の反応には何も返さず言葉をつづけた。
「相手が男だけ。凶器は刀。殺す手段としてではなく、殺した後に斬首。これを犯人は繰り返している。何故だと思う?」
 荻野は僅かに考える仕草をして、眉を八の字にした。
「そういう趣味、ですか?」
「趣味というよりは、戒律というべきかな。そんな雰囲気を感じるよ。何故、凶器に刀を使う必要があったのか。拳銃では何が駄目だったのか。殺すというのが目的なら凶器はより効率的に殺せる拳銃にすべきであっただろうに」
「確かに……」
 荻野はその大きな体を縮こまらせるようにして頷いた。
 それに、と海良が言葉をつなぐ。
「斬首というのはそんな簡単にできるものなのかな。護衛官殿」
「は。あ、いえ」
 荻野は顎を軽く撫でた。難しい顔をする。
「それは、無理です。少佐。人の首を落とすというのはかなりの腕がなければ出来ません」
「死んでいても?」
「確かに、生きて動いている人間よりはマシですが」
 気色悪そうに荻野は言った。考えるのすら嫌なのであろう。
「人間というのは意外と頑丈でして、髪の毛や服などを巻き込んだら目も当てられません」
「では、斬首というのは相応の腕がないと出来ない、と」
「ええ、そうだと……思います」
 海良の瞳に楽しげな色が浮かんだ。指がととん、と机を叩く。
「ところで、護衛官」
「はい」
「先日、遊佐吉孝護衛官が殺されたが君たち護衛官を倒せるような人物がざらに野にいると思うかね?」
 荻野の顔に緊張が走る。議論の終着点の予想がついたのだ。硬い声で返事をする。
「いいえ」
「そうだろうな。しかも我が国は二年前まで戦争をしていたのだ、国家の男子は戦場に尽く借りだされている。そんな人物がいたら当然、御国の目をごまかせる訳がないし、戦場というのは自分の実力を隠して生きていける世界ではない」
「何がいいたいのです、か」
 荻野の顔には恐怖のようなものが浮かんでいた。海良は酷く優しく微笑んだ。
「荻野君。護衛官で斬首が出来るほどの腕前を持つ人物を紹介してくれたまえ」
 悪魔のような笑顔だった。
「おそらく、その誰かが犯人だろう」



「つまり、身内の仕業だと?」
 塩山昭胤(しおやまあきたね)老人は、自分の禿頭を撫でながら言った。護衛官をまとめる長というより、念式抜刀の師という側面が強い。海良の隣に正座している荻野の背筋が震えるようにぴんと延びた。塩山老人の眼光は年齢を微塵も感じさせない鋭いものであった。海良はそんな老人を前にして穏やかに微笑み返した。
「その可能性があるというだけです。疑わしきを調査するのが私の仕事でして」
「成程な……」
 老人は視線を下に落とした。
「まあ、確かに家の遊佐を殺れるのは身内だけかもしれねえ。遊佐は決して弱くなかった。そこの」
 顎で塩山老人は荻野を指した。
「ひよっこよりも腕は上だった」
「なるほど」
 海良は苦笑した。頼まれてのこのこ此処まで自分を連れてきてしまった荻野に言いたいことも二三あるのだろう。荻野は只管に恐縮するだけだった。
 塩山老人は鼻を鳴らした。
「斬首をやれる人間は確かに多くはねえ。まず、俺と」
 老人の挑戦的な笑み。
「そこの荻野の師匠と、現在中将より上の階級の奴らについている護衛官だけだ」
「その護衛官たちは、一人で街をふらつける立場の人間ですか?」
「いいや」
「では、塩山先生か荻野君の師匠が犯人ですね」
「正直に言えよ」
 塩山老人の言葉には憎悪のようなものが込められていた。だが海良はその感情に僅かばかりも揺るがない。では、と前置きして。
「荻野君の師匠が犯人です」
「待ってください!」
 正座していた荻野が猛然と立ち上がった。周囲が揺れるほどの大声を発する。
「先生はそんな人ではありません!」
「と、申していますが」
 海良は塩山老人に話を振った。
「俺もそう思うね。久我は――ああ、久我っていうんだよ。そいつ。……久我は、俺がそれなりに見込んだ奴だ。門弟にも十分に慕われている。奴が犯人っていうんなら、御国の精鋭と言われた護衛官がどこの馬の骨とも分らねえ奴に負けたってほうがまだいい」
 俺はな、とぽつりと付け加える。
「願望と真実はどうも剃り合わないことが多いのが、現世という奴ですから」
「待ってくださいっ!」
 荻野が海良の軍服を掴んだ。
「それはもう決定なんですか? 先生が犯人というのは!」
「決定ではない」
 酷く酷薄な声を海良は発した。軍服を掴んだ荻野の手を振り払うようにして外す。ゆっくりと立ち上がって、服を整えた。
「それを調べるのが、私の仕事なのだから、萩野護衛官」
 曽根よりも冷たい目で萩野を見た。
「君も君の仕事を果たしてくれ」
 萩野はその言葉を聞いてうつむいた。ぽつりと、はいと返事をした。
 塩山は茫洋な視線で萩野を見ていたが、それを止めて海良を見た。
「なあ、少佐」
「はい」
「こういうのは、言っていいのかどうか分んねえが――俺には男しか狙わねえ理由と首を切った理由が分かる」
「聞かせてもらえますか?」
 海良の言葉は意識して感情を抑えつけられているそれを感じた。塩山は頭を掻いた。
「知っての通り俺達の御国は二年前まで戦争をやっていた。つまり、男のほとんどが軍の経験者だ」
 海良は何も言わなかった。ただ、その凶相に普段よりも更に深い陰影が生まれていた。
「あんたが知っているかどうか知らねえが、今回の戦争の終わりは外交努力によるものだった。それも、こっちに不利な外交を結んで無理矢理終わらせたんだ。戦争が長く続きすぎて国の体力がもたなかったんだよ。――そして、それを恥と感じる奴もいた」
 そこで塩山は言葉を切った。数秒の沈黙があった。海良は黙ってその沈黙を過ごしていたし、荻野は師父が語り始めた物事が判断できずに目を見開いていた。
「なあ、少佐」
 塩山は初めて老人として、塩山昭胤としての弱い部分をのぞかせて言った。

「介錯って知ってるかい?」



 久我義明(くがよしあき)という人物にあった海良典弘の感想は、特になかった。二三世間話をして、そのついでのように自分は巷で噂の人斬りの調査をしているといった。久我は僅かばかりも表情も変えなかったし、仕草を変えなかった。その穏やかな人柄がにじみ出てきそうな声で、そうですか、それは御苦労なことです、と丁寧に海良を労っただけだった。二人が話している間、荻野はずっと俯いているだけだった。
「大丈夫かい、之博?」
 と師として一度だけ久我は萩野に声をかけた。萩野は小さな声で、大丈夫です、と返しただけだった。
 海良はそんな荻野の様子については一言も言及せず、冷たいとも言える声色で話しを打ちきって辞去した。
 二人でしばらく大路を歩いていた時、萩野がぽつり声を漏らした。その言葉は懇願するような響きがあった。
「少佐。始末は自分にやらせて下さい」
「無理をする必要はない」
 二人は目すら合わせず、会話していた。やり取りに僅かばかりの温かみもなかった。
「いえ」
 萩野が足を止めた。少し先で海良も足を止める。海良の背中を萩野の沈痛な声が打った。
「少佐は自分の役目を果たせといいましたね」
「ああ、言った」
 海良は振り返った。荻野は刀の柄を震える手で掴んでいた。
「自分は、恐らくこうする為に派遣されてきたのですね」
 海良は何も言わなかった。この屈折した人物の極めて奇妙な優しさだった。だが、その沈黙は無言の肯定でもあった。
「今晩、始末をつけます。協力を、お願いします」
 海良は一度だけ目と瞑った。そして、それを開く。彼の瞳に一瞬だけ閃いた感情は既に跡形もなく消えてそこにはなかった。
「わかった」



 冬の大路は酷く冷たかった。深夜ともなれば尚更である。月明かりすら冬の寒さを演出していた。吐く息が白い。海良はちょうど大路の真ん中にぼんやりと立っていた。
「やあ」
 空を見上げたまま、声をかけた。顔を前に向ける。そこには外套の男――否、久我義明がいた。
「お久しぶりです。久我さん」
「ええ」
 久我は昼間と聊かも変わらぬ仕草で頷いた。
「しかし、先ほどあったのに久しぶりという挨拶は奇妙ではないですか?」
「そうですか? ――そうかもしれませんね」
 海良は軍帽を眼深にかぶりなおした。
「では、こう言い変えましょう。――やっと会えましたね、久我さん」
「ええ」
 久我が笑った。闇が裂けたような笑い方だった。ゆっくりと刀を抜く。放りだされた鞘が地面を転がる音が響いた。
「それで正しいですよ、少佐」
 海良はそんな久我の様子を全て無視して、懐から煙草とマッチを取り出し、火をつけた。それを美味そうに吸う。
「塩山先生から教えてもらいましたよ。介錯、ですか。確かに盲点だったな。首切りというと猟奇的なイメージばかり先行していけない」
「確かに、そう見られても仕方ないかもしれませんね」
 久我はゆっくりと海良に近づいた。海良はちらりと久我を見ただけで言葉を続ける。
「貴方は、二年前に終わった戦争に納得していなかったんですね」
「終わった……、終わった戦争ですか、少佐」
 笑みを浮かべる人斬り。
「戦争はまだ終わっていないのですよ。少なくとも私の中では」
「だが」
「そう、だが現実の戦争は終わってしまった。敗北に近い和解という形で」
「納得は」
「出来るはずがなかった」
 久我がつぶやいた。地を這うような陰湿さがその言葉には纏わりついていた。
「いや、例え私が納得できなかったとしても終わってしまったものは終わってしまったのです。それは仕方がない。だが、人は恥を引きずって生きていくべきではないと思ったのです」
「恥?」
「生き恥ですよ、少佐。軍人となって御国に仕え戦争で負けよりも酷い終わり方をして私たちに恥を雪ぐ手段は一つしかない。一つしかあり得ない。古式に乗っ取った斬首」
「そう考えたから貴方が、実行人になった訳ですか。久我さん」
「ええ」
 酷く穏やかな表情で久我は頷いた。
「私の剣腕もこの為にあったと納得しました。戦場では殆ど役に立たなかった護衛官としての自分の意味。銃が活躍する戦場では殆ど意味がなかった念式抜刀の意味。それは、雪げない恥を雪ぐためにこそあったのです」
「なるほど」
 明かな侮蔑をあらわにして海良は呟いた。嘲るような笑みを浮かべる。
「貴方は狂ってますね。可哀そうな戦争の病気の被害者だ。そういう考えは自分一人の妄想の中だけで玩んでいればよかったのに」
 久我は笑みを浮かべた。優しい笑みだった。ああ、この人には分らないのか、と。無知な子供を見つめる教師のような笑みだった。ゆっくりと近づく。刀を握る手に力がこもるのが分った。その無知を救う唯一の手段こそがこれだとでも言うように。
 海良は呆れたような眼で近づいてくる久我を見ていた。煙草を銜えた唇が動いた。だから、と。

「だから、貴方は弟子に殺されるような事になるんですよ。久我さん」

 その一言と同時に雷鳴のような叫び声が闇の中から、発せられた。
 飛び出てきたのは、言うまでもなく萩野之博。既に抜刀している。奇術じみた動きで久我の視界の死角に潜り込んだ。念式抜刀。久我義明仕込みの。
 久我は飛び出てきた弟子にも瞬時に対応した。猛烈な一撃を軽く受け止める。その『軽く』にどれ程の技術と修練が必要なのかは、海良は知らない。だが、師弟二人は知っている。
 まるで暴風のように、萩野は次々と斬撃を叩きこんだ。久我はそれに次々と対応する。萩野の連撃が途切れた隙を狙い、久我が逆に萩野の死角に潜り込んだ。萩野の目からは久我が唐突に消えたように見えるに違いない。流水の動きと評されていいほどの動きの滑らかさだった。
 胴を狙った一撃。久我は勝利を確信していただろう。だが、その確信は叶わなかった。萩野は紙一重で避けていたのだ。何故か。それは、萩野之博という男が久我義明という師を尊敬し敬愛し、その太刀筋をずっと見てきたからに他ならない。いつか、自分もあのようになりたいと思って夢見てきたからに他ならない。
 久我の喉から震えた叫びが迸った。先の斬撃よりも更に速く鋭い一撃。それを久我は何とか受け止めた。目を見開いている。弟子の成長に驚いているのか。それとも自分の攻撃が避けられたことに驚いているのか。恐らく両方であろう。
 そして、連撃。体格、年齢、剣の正邪。理由はいくらでも付けられるし、こじつけられる。だが、事実のみを表すなら萩野の未熟な剣が、久我の練達の剣に押し勝った。久我は萩野の二発目の斬撃を受け止められずに、刀を取り落としたのだ。
「――は、あ」
 呼吸をするのすら忘れていたとでも言うように、萩野が大きく息を吐いた。久我が手を抑えながら萩野を睨みつける。その眼には妄執が絡みつていていた。
「なぜ、殺さない之博! お前の勝ちだ! 私を殺せ!」
 萩野の腕は震えていた。
「どうした! 速くしろ之博!」
 萩野は喘ぐように声を出した。
「先生は、本当に、――わからないのですか」
「何?」
「貴方が、教えてくれたことです」
 剣を持たぬ相手に、剣を振るってはいけないというのは。



 萩野之博は幼い頃から、体躯も立派で力も強かった。時には大人を捻じ伏せてしまうことすらあるぐらい膂力に恵まれていたのだ。そして、幼い頃の萩野は暴君であった。己の力に多くの者が逆らえないと分かるとそれを活用しはじめたのだ。萩野の両親は悩んだ。悩んだ末に、念式抜刀を行儀稽古として習わせることにした。力を抑えることは出来なくてもその方向性を変えることは可能だと思ったからだ。
 そこで出会ったのが、久我義明だった。ある日の試合中。萩野がその自慢の剛力を使って簡単に相手の竹刀をはじき飛ばしたことがあった。相手はもちろん武器を持たず棒立ちになった。萩野は今が好機とばかりに相手に打ちかかった。萩野が今まで行ってきた喧嘩などはそういったことが当たり前だったからだ。だが、振り下ろされた竹刀を受け止めた者がいた。誰あろう。久我義明である。久我は穏やかに笑って言った。
「之博。勝負はつきました。もう、止めてあげてください」
 子供であった萩野は反抗した。念式抜刀は戦場の剣と聞きました。相手に容赦を必要としない殺人剣とも、ならば自分の行動は正しいのではないか、と。
 久我は困ったように笑って言った。
「確かにそのとおりです。念式抜刀にはその側面もあります」
 ですが、と久我は言葉をつないだ。
「刀にも刃と峰があるように人を傷つけるのも飽くまで一側面なのです。之博。今は平時です。有事の時には刃を立てて敵を切り捨てるのも念式抜刀の使い道。ですが」
 久我は少年だった萩野の頭をなでた。
「平時の時は活人剣としての、念式抜刀を大事にしてあげてください。そして、活人剣としての念式抜刀は、剣を持たない人を剣で傷つけることはないように、お願いします」
 その言葉が萩野にどれほど影響を与えたか萩野以外誰にも分らない。だが、他の人間にはどうでも、萩野には衝撃だったのだ。恐らく――否、確実に自分よりも強い人間がそのような心構えを説くことが。萩野には革命的なことだったのだ。
 それ以来、萩野は久我義明を敬愛するようになった。それは今も――――。



――――変わってはいない。
 萩野は呟いた。変わりはしない。人殺しとなった今でも、自分は尊敬している。してしまう。久我義明という人を。
「貴方が、自分に力の使い方を教えてくれたんです。……先生」
 久我は空っぽな表情をしていた。何かが砕かれたかのような表情だった。そうか、と久我は呟いた。そうか、と再度呟く。ふらりと立ち上がった。落ちた刀を拾う。萩野はその光景を黙ってみていた。久我は僅かに萩野から距離を取った。
「之博」
「はい、先生」
「私は、未熟だったよ」
「はい」
「お前は、私より強くなってくれ」
「……はい」
 二人は同時に構えた。その光景は儀式じみた神聖さがあった。互いの刃が月に照らされて輝く。
 久我が動いた。念式抜刀でも何でもない。単なる突進。それは予定調和だった。
「念式抜刀。久我義明が弟子、萩野之博」
 萩野は動かない。その巨体を静かにその場に置いていた。二人の距離が近くなる。萩野の口から師との別れの言葉が迸った。

「介錯、――仕る」

 萩野が刀を振った。その軌跡は見ていた海良の肌を粟立たせる程に美しかった。何代、何年も剣を鍛えあげてきた流派の一閃。

それは、見事に久我義明という男の首を落とした。

 萩野は、師の体が崩れ落ちるのを見届けてから、地面に膝をついた。刀に縋りついて涙を零していた。口からは声にならない叫び声が漏れていた。
 ――――その瞬間を見たのは、萩野だけだった。師に向かって刃を繰り出した時。確かに師はあの自分を諭した時の穏やかさで笑っていたのだ。自分の尊敬していた久我義明という剣術家の顔で、笑っていたのだ。
 萩野は泣き崩れた。

 その光景を見ながら、海良典弘は厳しい表情を浮かべていた。



「最初から茶番だったわけですね。曽根総監」
「その通りだ、少佐」
 海良と曽根は海良が事件を請け負った時のように、向かい合っていた。萩野はそこにはいなかった。塩山老人に報告にいったのだ。恐らく二度と会うこともあるまい。
「軍は始めから久我義明護衛官の犯行だということを気付いていた。だが、半ば名誉職じみてきているとは言え護衛官は御国の軍務としては重い役目だ」
「しかも、他の護衛官を指導する立場の久我がそのような事件を起こしていたという事は充分すぎるほどの醜聞だったという訳ですか」
「そうだ」
 相変わらずの明快さで曽根は応じる。
「戦争が終わったとはいえ、幾らかの国民は事実上我が国が負けたのだという事を気付いている。これ以上軍部の醜聞を増やすわけにはいかなかった」
「ですから、人斬り」
「そして、萩野之博だった」
 海良は始末がないと首を振った。
「事実を隠蔽し、身内に粛清させたのですね」
「事実としては、狂を発した久我義明という人間を護衛官が責任を持って粛清してという形になる」
「確かに、そうなりましたがね」
 海良はため息をついた。
「私の役目は萩野君を導くこと、ですか」
「そうだ。君なら途中で軍部の意図を読み取り望む形にしてくれると思った」
 海良はその曽根の言葉には何も言わなかった。ただ、報告書を執務机の上に置いた。
「人には」
 曽根が視線を報告書に落としたまま言った。
「人には無条件で信じられる何かが必要だ。軍隊が国民を、御国を守れるという事の信が揺らいではまずかった」
「理解はできます」
 海良は笑った。「貴方が奥方を信じるようにですね」
 皮肉とも取れるその言葉に、曽根は深く頷いた。
「正しくその通りだ。ただ、納得はしなくていい。御苦労だった海良典弘少佐」
 海良は敬礼をして踵を返した。言うべき言葉など何もなかった。何も理由を知らされず、唐突に慕い続けてきた師を殺せと言われた一人の人間の気持ちの話など、言うべきではなかった。
「少佐」
 曽根の声が海良の背中を打った。
「荻野護衛官からの、伝言だ。『ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました』と」
 海良は振り返って言った。
「『こちらこそ』と伝えておいて下さい」
「了解した」
 海良は曽根の声を背中に、執務室から出て行った。



 海良典弘は歩きながらその凶相を歪めた。それぞれの人生。それぞれの生き方。それぞれの執念。ありとあらゆる事に皮肉を覚えていた。軍部の意図を読み取ってくれると思っていた、だと? 海良は笑う。ああ、私は読み取ったとも。軍部の意図とやらを。だが、それに沿ってやろうと思ったわけではない。萩野之博という男に敬意を表したからだ。あの最後に自分の師を介錯し、泣きじゃくっていた男の意志に敬意を表したからだ。
 海良は、ふっと思った。自分は何をそんなに猛っているのだろう。そう考えると自分の中にあった熱情のようなものがふっと抜けていくのが分った。先ほど自分も考えたではないか、それぞれの人生。それぞれの生き方。それぞれの執念。そして曽根幸助は言った。納得はしなくていい。とつまりはそういうことなのだろう。
 考えても答えが出ない問題なのだ。これは国家における政策と考えたほうがいいかもしれない。久我義明。国家における政策となるまでになるなんて立派じゃないか。自分にはできないし、なりたいとも思わないが。
 海良は空を見上げた、抜けるような青空。荻野の伝言を思い出した。ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。その言葉を思い出すと海良は荻野という自分より年下の男に対する尊敬の念を強くする。あの夜、誰もが自分自身の都合と欲求を果たすために行動していた。海良は仕事を果たし、久我は己の望みを果たす為に。だが唯一人、荻野之博だけは正しく行動し、誰にも誹られないやり方をしてみせた。死は死でしか贖えない。久我義明という男には名誉も何もない死しか待っていなかった。そしてそれが分かっていたから、自分自身の手で最大限、師の名誉を守り恥を雪いだのだ。
 海良はため息をついた。まったく、人生というやつはなんとままならないことだろう。海良典弘は皮肉気に笑ってそれ以上考えることはせずに、その場から足早に歩み去っていった。