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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介


人形の館

金澤亜希子

205A1080


 頭の中の霧が、涼風に吹かれたようにさあっと拡散していった。
 何もなかった器の中に、突然水が流し込まれたような心地だ。
 まず感じたのは、肌にまとわりつく湿った空気だった。同時に、冷たい土を片頬に感じた。その生暖かい空気の不快さと土の冷たさに、体があるという実感がようやく生まれた。どうやら土の上に倒れていたようだ。
 犬の遠吠えが微かに耳を掠めた。
 堅い地面に肩肘を突き、半身を起こす。
 そこで初めて、霧が頭の中だけではなかったことに気が付いた。視界を覆っているものは、多量の水蒸気を孕んだ霧だった。その先には、立ち並ぶ木々がぼんやりと浮かんでいる。
 ここはどこだろう。
 いつの間にこんなところに倒れていたのだろう。
 …………ガラガラ
 霧の中から、音が近付いてきた。
 立ち上がって辺りを見回すが、霧のせいで視界が数メートルしかきかない。
 ……ガラガラガラ
 音は確実にこちらに向かっている。
 霧の中から現れたのは、二頭の馬に引かれた荷馬車だった。
 手綱を握る老人は、帽子を目深に被っていた。顔の下半分を白い髭が覆っておりその表情は分からなかったが、どうやらこちらに気が付いたようだ。老人は手綱を引いて馬を止めた。
「どなたかな」
 老人は低くしゃがれた声で言った。
「僕は……」
 答えようとして、舌が凍った。
 自分は誰だろう。
『僕』と言うからには男なのだろうが、それ以上のことは何も分からなかった。
 俯いたまま何も言わない僕を訝しむ様子もなく、老人は言った。
「もうじき陽も暮れる。お客人、屋敷へ招待しよう」
 老人がそう言った途端、急に辺りが暗くなっていくように感じられた。
 一瞬迷ったが、もしさっき聞いた犬の鳴き声が飼い犬のものでなかったら、ここにいても野犬に襲われるだけだ。
「ありがとうございます。助かります」
「ついてきなさい」
 老人は再び馬車を進めた。
 荷馬車の後ろから付いていこうとした僕は、そこに見たものにぎょっとした。
 藁の中から、人の足が出ていた。荷台の縁に引っかけて仰向けになっているようだったが、上から藁をどっさりと乗せられているのだ。これでは息が出来ているのかどうかさえ怪しい。
 真っ白な足は人間の右足だった。つま先に引っかけられた靴から、おそらく女のものだと思われた。
 馬車の揺れに合わせて、作り物のようなその足は力なく揺れていた。
 老人に尋ねようかと思ったが、気味の悪さから口に出すことがためらわれた。
 もしかして死体だろうか。そう思うと恐くなった。足取りが次第に重くなり、馬車との距離が開いた。
 このままついていってもいいのだろうか。
 足を止めようとしたとき、車輪が大きな石の上に乗り、馬車はガタンと大きく揺れた。
その反動で、出ていた足は荷台に踵をぶつけ、引っかかっていた靴が地面に落ちた。
 老人がそれに気付くはずもなく、馬車は靴を残したままガラガラと進んでいった。
 靴が、道の真ん中で途方に暮れる僕をじっと見つめていた。そんなのは自分の妄想だと振り払おうとするが、僕はその靴から視線を感じた。馬車を追う術を持たない靴は、道の真ん中で、僕が拾うのを待っていた。
 僕は堪り兼ねて靴を拾い、馬車の後を追った。
 まもなく、馬車は洋館の門をくぐった。僕は一旦立ち止まり、門を見上げた。
 開け放たれた柵門には、幾日もそのままだったのか蔦が生い茂っていた。メッキは剥がれ、至る所に腐蝕が見られ、随分と長い年月を経たようだった。両脇には電灯が取り付けられており、門をぼんやりと照らしていた。
 ふと見ると、馬車の姿が見えない。
 門をくぐり、一体何処に消えたのかと辺りを見回す。広い庭には動くものの気配はなく、音すら聞こえなかった。
 完全に見失ったと悟ると、僕は息を吐いて石畳の道に沿って歩き始めた。
 目指すべき場所は分かっている。
 先程から気になって仕方がなかった。肌が粟立ち、不思議と惹かれる妙な空気。薄闇の中に立つ、切り取った影のような建物。
 大きな扉の前で立ち止まり、僕はそれを見上げた。
「如何された」
 背後から出し抜けに声をかけられ、僕は弾かれたように振り返り、思わず靴を後ろ手で隠した。
「ああ……いえ、何でもありません。ただ……すごい洋館だな、と」
 取り繕うように言ったが、嘘ではない。建築の素晴らしさはさることながら、風雨に晒され年月を経て感じさせる、一種の貫禄とでも言おうか、この威圧感。
 何故自分がここにいるのか。
「こちらへ来なさい。部屋へ案内しよう」

 案内されたのは、館の東側にいくつも並んだ客間の一つだった。部屋の中には低い棚と一人用のテーブルに椅子、ベッドしかなく、寝起きするだけの部屋のようだった。
「すぐ水を持ってこさせよう。用があったら、その者に言いなさい」
 それだけ言うと、老人は出ていった。
 陽は完全に落ち、外はもう暗い。窓の前に立つと、ガラスに映ったのは見知らぬ若者だった。
 僕はベッドに仰向けになり、天井を見上げた。
 ズボンの後ろポケットに入れていた靴を思い出し、ゴソゴソと取り出す。
 靴は赤い皮製で、先は丸く踵はぺたんこだった。この靴を履いて外を歩いた様子はなかった。靴底には埃一つ付いてはおらず、卸したばかりのように光っていた。
 僕の手には、随分小さな靴だった。
 一体何だったのだろう。
 ギッ、という音がして、僕はベッドから飛び起きた。
 ノックもなしに扉が押し開けられる。そこに現れたのは、盆を持った少女だった。盆にはグラスと水差しが乗せられている。
 驚いたのは、少女の姿だった。薄紅のワンピースの裾から覗く手足は細く、寸分の無駄もない。真っ直ぐで艶やかな黒髪は胸の辺りで切り揃えられており、丁寧に梳いた絹糸のようだ。まるで生まれてこのかた一度も日に晒されたことなどないような白い肌に、頬に落ちかかる黒髪はよく映えていた。長い睫が、黒い瞳に影を落としている。
 僕は目を奪われた。こんなに美しいものは初めて見た気がした。
 そのとき僕はふと少女の足下に視線を落とした。片足だけ裸足だったのだ。
 僕は慌てて先ほど拾った靴を手に取った。
「これは、君の物だね」
 そう言って靴を差し出す。少女の左足はそれと同じ靴を履いていた。
 少女はこちらに顔を向けたが、何も言わずにテーブルに盆を置いた。
 耳が聞こえないのだろうか。いや、たとえそうだとしても目は見えているはずだ。
 僕は少女が履きやすいように、その足下に靴を置いた。
 しかし少女は靴を履こうとしない。その靴をじっと見てはいるのにだ。
「どうしたんだ?」
 問いかけにも答える様子がない。
 焦れた僕はベッドから立ち上がり、ぼんやりと靴を見つめている少女の腕を軽く引き寄せた。少女を座らせて、靴を履かせるつもりだった。
「――っ!」
 次の瞬間、僕は息を呑んだ。
 手応えは思った以上に軽かった。その代わりに、ガラガラと崩れる音が部屋に響いた。
 少女の体が、まるで積み木を崩したかのように崩れたのだ。
 僕の手には、細い片腕だけが残った。
 手、足、胴、頭……所々は更に細かく、関節から折れたように指や手首が床に転がった。
 ああ、この冷たい感触を、僕はどこかで覚えているような気がする。生身の人間では有り得ない、この感触を。
「その子は人形じゃよ。なにも感じない、ただの人形じゃ」
 呆然としている僕に、部屋の入り口から声がかかった。先ほどの老人だった。
「人形? でもさっきまではちゃんと」
 たった今まで動いていた少女の姿を思い浮かべる。少なくともその時は、人間のように見えた。それが崩れた瞬間、人形の部品になってしまった。それとも、僕の目がどうかしていたのだろうか。
 僕は頭を振った。考えてもしようがない。今、僕の手にあるのは、確かに人形の部品でしかない。
「これは、あなたのものですか?」
「いや、違う。お客人の物じゃ」
「僕の? 僕には覚えが……」
 ない、とは言い切れなかった。
 しかしこんな物――こんな人間じみた人形が僕の物だなんて、どうして言えるのだろう。
「この子は、お客人を知っているようじゃな」
 老人は、床に転がった人形の頭を撫でて言った。
 奇妙な光景だった。死体のようなおぞましさこそないが、整った顔付きなだけに生々しく妖しげだった。
「この子は、喋れないんですか?」
「さてな。これからは知らんが」
「僕は……僕は自分の名前すら思い出せないんです。あなたは、何かご存じなんですか?」
「知らんよ。わしは何も知らん」
 老人はただ首を横に振るばかりだった。
「自分のことが思い出せないのなら、思い出すまでここにいるといい。今はこの子を直してやりなさい。自分では元に戻れないのだから」
 促されて、僕は散らばった部品の前に膝を付いた。
 一つ一つ形を確かめながら、指や手首の関節を繋げていった。
 繋げるのは案外単純で、パズルのようだった。細かい作業だったが、僕の手はそれを前から知っているかのように器用に組み立てていった。
 この人形は僕のことを知っているのだと老人は言う。ではこの人形は、僕に教えてくれるだろうか。僕が何者なのか。
 手足が完成すると、あとは大きな部分を組み合わせるだけだ。
 ワンピースを引っかけたままだった胴を中心にして、肩をはめる。指が動く。足を繋げる。膝が曲がる。
 椅子に腰掛けさせ、最後に頭を乗せる。
 冷たい頬を両手でそっと挟み、髪の毛が絡まらないように慎重に乗せた。
 カチン。
 身体全体が、僅かに動いたようだった。
 僕は胸が高鳴るのを感じていた。
 人形の関節の節目が、溶け合うように消えていた。頬が薄紅色に染まり、柔らかい感触と共に温かみを帯びる。
 伏し目がちだった表情が、光を取り戻して僕を見た。
 いつの間にか老人はいなくなっていた。僕がその瞳に見入っていると、少女は徐ろに立ち上がった。
 そして足元の靴を履き、盆を持って部屋を出ていった。
 その後ろ姿を見送る僕は、自分の手に伝わった彼女の頬の感触に、体が熱くなるのを感じていた。

 記憶は一向に戻らなかった。
 しかし、僕はあまり不自由しなかった。きっと自分の周りに、自分についての情報を持っている人間がいないからだ。僕が知らない『僕』のことを話されたら、きっと戸惑うのだろう。そう思いながら、では僕の周りに『僕』を知っている人がいるのといないのと、どちらが今の僕にとって幸となるのかと考えると、それは分からなかった。
 今の僕には、今の状況の善し悪しを判断することさえできなかった。
 この屋敷の中では毎日寝るか食べるか、ぼんやりする以外何もできない。そして自分の記憶を引きずり出そうと考えを巡らせるのも、骨の折れる作業だった。なにしろ記憶がないとなると、考えの及ぶ範囲が狭くてすぐに行き詰まるのだ。
 頭に浮かぶのは疑問のみ。
 僕は誰なのか、どうしてここにいるのか。
 唯一手がかりになりそうなのは、彼女の存在だった。
 人間の未完成品のような、人形の少女。
 彼女の存在は、見る者を魅了する力を備えていた。思わず触れたくなるような、けれど触れてはいけないような、そんな感覚に陥るのだ。
 彼女は人形だ。傍にいてくれと言えば傍にいてくれるだろう。抱きしめても、きっと怒らないだろう。
 けれど彼女は人形だ。どんなに人間のような姿をしていても、彼女は所詮人形でしかないのだ。彼女は何を聞いても、口を貝のように閉ざしたままだった。
 何度か、壊れた彼女を直すことがあった。
 最初のうちは力加減が分からず、触れる度に壊れてしまわないか心配だった。しかし何度も壊れたり組み立てたりを繰り返すうちに、彼女の脆さは徐々になくなっていき、むしろ人間らしい表情を見せるようになった。戸惑うと視線を泳がせたり、不快さに眉をひそめたりと、その程度だったが。
 毎日食事と水を運んできてくれる彼女は、用事が済むとすぐに部屋を出て行く。他にも何か仕事があるのだろうかと思ってついていってみたが、途中で見失ってしまった。昼間は自然光だけのせいか、室内も廊下も少々薄暗い。一体どこへ行ったのかと部屋を覗いて回ると、広間のソファに座って庭を眺めている姿を見つけた。

 広間は南に面した壁がガラス張りになっているため、庭を一望することができた。
 僕は座っている少女の手を取って言った。
「立って」
 彼女は僕を見上げ、あからさまに顔をしかめた。庭を眺めるのが好きなのか、それを邪魔されたと思ったのかもしれない。
 僕は諦めなかった。
「部屋の中から見ているだけじゃなくて、外に出てみよう」
 すると彼女はようやく立ち上がった。
 僕はほっとして、思わず破顔した。それから少し恥ずかしくなって頭を掻いた。彼女には逆光で、僕の表情などほとんど見えなかっただろうが。
 彼女の手を引き、僕は庭を歩いた。
 庭は綺麗に手入れされていた。庭師の姿など見たことはなかったが、時間の流れを感じさせないこの館の中では、それも不思議ではなかった。
「君が知っている僕のことを、教えてくれないか」
 もう何度目だろう。こうやって彼女に問い掛けるのは。
 答えを得られたことはないが、まったく脈がないわけではない。
 彼女は人形であり、また人間でもあった。先ほどのような表情の変化も表れてきている。いつか、その口を開いてくれるかもしれない。
 僕らは小さな噴水の縁に腰掛けた。そこからは庭の花壇が一望できた。花壇の中は季節が雑多で、ダリアと寒牡丹が並んで咲き、足下にはクローバーが広がっていた。
 絶え間なく流れ出す水の造形は、僕の耳に心地よい響きをもたらした。
「どんな人間だったのかな。どんな所に住んで、何をしていたのか。心配してくれる家族はいたのかな。いたとしたら……僕はその人達のことも忘れてしまったのか」
 問いかけながら、想像上の『僕』の関係者のことを思う。
 傍らに座った少女は何も言わないが、僕の言葉に耳を傾けているようだった。僕の声が沈んだのに気付いてか、こちらに顔を向けた。
 瑞々しい唇は、それでも言葉を発しない。
 相変わらずの反応に、溜め息が出る。
「君は、どうして僕のことを知っているんだろう。……いや、本当に知っているのかな。あの人が言っていただけだし、君は何も言っていない」
 僕は少し考え込んで、質問を変えた。
「どうして君はここにいるんだ? 馬車で運ばれていたのは、あれはやっぱり君だったのか?」
 返事はない。僕は髪を掻きむしって立ち上がった。
「――ああ、分からなくなってきた。一体君は何なんだ? どうして僕が人形なんかと……」
 クイと服の裾を引かれて、自分の失言に気が付いた。見ると、彼女は眉根を寄せて僕を睨み上げていた。
「ごめん、君を侮辱したわけじゃないんだ」
 慌てて言うが、彼女の表情は緩まない。
「きっと君は、僕にとって大切なものだったはずだ。だから君はここにいるんだ。だから……思い出したいのに」
 僕は目を瞑った。
 森の梢が鳴る。少し遅れて、僕らの元に風が届いた。彼女の長い髪が、風に吹かれて僕の肩を撫でた。
 目を開くと、長い黒髪は風で乱れていた。旋毛を中心に髪を整えてやると、彼女はその手をまねて、前髪を自分で梳いて払いのけた。
 そして僕を見て、ゆっくりと微笑んだ。
 僕は吸い寄せられるように、その瞳を覗き込んだ。
「きみ、は……」
 言葉が出てこなかった。僕は顔を逸らした。自分の顔が赤くなっているのが分かったからだ。
 急に黙り込んだ僕を不審に思ったのか、彼女は僕の顔を覗き込んだ。
 頬が更に紅潮する。
 僕は勢いよく立ち上がって歩き出した。
 動揺を隠し切れなかった。
 愛しいと、思ってしまう自分がいる。
 そして同時に畏怖を覚えた。
 人ならざる雰囲気に怖気づいたのだろうか、それとも恋にでも落ちたのだろうか。
 彼女はただの人形ではなかった。微笑みは、美しいが恐ろしかった。
 しかし彼女から離れた理由は、それだけではなかった。
 何かを思い出しそうだった。けれどその先には薄い幕が何重にも掛かっていて、手が届きそうで届かない。もどかしさは僕の足を動かし、記憶を追いかけた。
 噴水の水音が聞こえなくなる所まで離れると、僕の足は止まった。足下がなくなるような感覚に、たまらず膝をついた。
 頭が割れるように痛み出し、急に視界が狭くなる。
「思い出して」
 降ってきた声に驚いて振り返ると、間近に少女がいた。
 初めて声を聞いた感動よりも、額に滲む汗の不快さに頭の中がぐるぐると回っていた。
 何故だろう。思い出したかったはずなのに。記憶をなくした僕は、思い出すことを拒んでいるのだろうか。
 思い出すためにここにいたのではなかったのか。
「思い出せない」
 唇が震える。
「君は誰なんだ」
「知っているはずよ」
 そう言う彼女の声は、少女の容姿と反して大人びたものだった。
 聞き覚えがある。この声は、なんと言っていたのだったか。
 少女の声――いや違う、これは誰の声だ。
 思い出すんだ。あと少し、あと少しで手が届く。
 ――人形を作ってほしいの。
 耳元に蘇った声に、僕はビクリと肩を震わせた。
 二階の窓が一つ大きな音を立てて割れ、赤い火を噴いた。
「行って」
 突然のことに窓を見上げて呆気に取られる僕を、彼女は急き立てた。
「あなたは私を助けるの」
「何を言って……」
 不可解な物言いに振り返ると、少女はそこにいなかった。ただ、彼女の言葉が耳に残った。
 僕は土を蹴って駆け出した。

 ごうごうと燃え上がる炎は、意思を持って僕の背を追い立てた。炎が、僕に行く先を教えてくれているようだ。
 僕は煙を避け、壁に手を付いて走った。行く手に炎が見えると、迷わず進路を変えた。過ぎようとした扉が音を立てて開き、黒い煙が襲いかかってくる。思い切り煙を吸い込んでしまった僕は、慌てて扉を閉めて激しく咳き込んだ。涙で歪む炎の中に、僕は自分の記憶を見た。
 僕は、彼女を作ったのだ。

 小さな人形店があった。
 店は周りの商店に比べてこぢんまりとしていたが、若い男が一人で切り盛りするにはこの程度でちょうどよかった。
 ある日店に現れた客は、小さな店に似つかわしくない、派手な格好をした中年女性だった。
 女性は店内の人形を一瞥すると、奥にいた僕にツカツカと歩み寄った。
『人形を作ってほしいの。長い黒髪に、肌は白。細身で、十四、五歳の女の子の人形よ。服はこちらで用意するわ』
 こちらが口を挟む隙もなく、女性は捲し立てるように言った。
『こちらではいかがですか。条件には合っているように思われますが』
 一つの人形を差し出したが、女性はそれには目もくれなかった。
『剥製のように作ってほしいのよ。肌の色も、質感も』
『剥製のように、ですか』
 僕は戸惑った。僕が手がけているのは木製の人形だ。剥製のような……つまり生身のような質感など、求められたことはなかった。
『ええ。剥製職人に頼んだのだけれど、人間の剥製は人道に反するんですって』
 女性はさらりと言ったが、僕は戦慄した。
 つまり彼女は、人間の剥製を作ろうとしたということだ。
『ああそう、写真があるの』
 写真。そうだ。そこで僕は初めて『彼女』を目にしたのだ。
 同じ年頃の少女が数人写っている中で、赤い靴を履いた少女が一人だけ浮き上がって見えた。
 説明されなくてもわかった。
 この子だ、と。
『引き受けていただける?』

 館のどの辺りを彷徨っているのか、もう分からなくなってきた。炎はどんどん広がっていて、選択できる道は激減した。あちらもこちらも、真っ赤な影に埋め尽くされている。
 ドォンと足下が揺れたと同時に火の粉が舞い上がり、僕は頭を庇ってしゃがみ込んだ。
 焼け落ちた柱に、逃げ道は完全に塞がれた。
 息が苦しい。まるで釜の中だ。熱気で皮膚を焼かれそうだ。
 このまま死んでしまうのだろうか。
 はっと顔を上げると、煙の中に扉が見えた。
 選択できる道はない。……選べるのは、常に一つだ。
 僕は倒れ込むようにその扉にしがみついた。
 その、写真に写っていた少女が……
「……いた」
 人形と見紛うほど、端麗な姿の少女だった。
 真っ黒に焼け焦げた部屋の中に、少女と同じ顔の人形がいた。その白い肌に煤一つ付けていない姿で。
 僕が作った姿、そのままだった。
 服は用意すると言っていた女性の言葉に従って、人形には間に合わせの生地で作った清楚なワンピースと、アンバランスな赤い靴を履かせていた。
 僕は椅子に座っている人形に近付いた。
 一体の人形に、どれほどの年月をかけたのだろう。この人形は僕の人生において、最高傑作となるはずだった。
 試行錯誤を繰り返し、ようやく肌に適した材質に辿り着いたときには、注文をした女性は亡くなっていた。
 あの女性は気狂いだったのだ、と言う人もいた。そして女性が亡くなった後も注文された人形作りに没頭する僕を見て、彼らは人形作りの男も気狂いだと言った。
 僕は人形の前に膝を付いた。
「思い出した?」
 背後で声がする。僕は静かに頷いた。煙を吸ったせいだろうか、喉が潰れたようなしゃがれた声しか出せなかった。
「僕は……君を壊した」
「そう、あなたは私を殺した」
 少女の言葉に、心臓を掴まれたような怖気が走った。
 僕にとって、彼女は人形であるべきだった。それ以上のものには、なってはいけなかったのに。
 完成を目前にして人形に火を放った僕は、決して気が狂れてなどいなかった。
 恐ろしかったのだ。完成に近付くにつれて、自分の魂が吸い取られて行くような――ガラス玉の瞳に、僕の心臓の動きすらも捉えられているような、そんな感覚が。
「私が生まれてからずっと、あなたは私しか見ていなかった」
 後ろから、僕の両肩に手が置かれる。逃すまいと、するかのように。
「……帰してくれ」
「帰さない」
「僕は帰りたいんだ!」
「嘘を」
 彼女の言葉は、思いのほか強かった。
「あなたはここにいるの。だってあなたが望んだことなんだから」
「望んでなんか……」
「望んでいたわ。私に捉えられたいと」
 肩に置かれた手が、その存在を主張するかのように力を込める。
 目の前の人形に火が点いた。白磁の肌があぶられていく様は、人間が焼ける様とは明らかに異なっていた。表面があぶられて黒ずみ、不恰好な芯が露になり、その芯も変形して床に落ちた。
 僕はまるで、発光する炎に陶酔する虫だった。
 人形に手を伸ばす。その手は若者のものではなく皺だらけで、肉は落ちて血管も浮き上がっていた。
 もはや原型をとどめていない人形は、それでも馴染み深い感触を失ってはいなかった。生身とは違う、冷たいが弾力のある肌のようなその感触。
 肩に置かれた手が伸びて、僕の顔に触れた。ひやりと冷たい手のひらに視界を覆われる。その手は人間の体温を持つ僕には心地よく、水の中の静寂を思わせた。
 指の隙間から、人形が見えた。頭部に嵌め込まれたガラス玉の眼球が、揺らめく熱気の向こうから僕を見ていた。それは一瞬のことで、瞬きをすると世界は暗転した。
 微かに笑みが上った。
 人形の目許が、微笑みに細められていたような気がした。

 自分の意志でその姿を消し去ってしまえば、逃れられると思っていた。
 けれど本当は、とうとう、その手に落ちたのかもしれない。

 (終)