東急目黒線の歴史

〜新生目黒線誕生編〜


東急目黒線となり3000系が来るようになった。奥沢にて


この日から多摩川行となった多摩川線区間。鵜の木にて

2000年8月6日、目蒲線は目黒−多摩川−武蔵小杉間の目黒線(9.1Km)と多摩川−蒲田間の東急多摩川線に分割されました。目蒲線は東急発祥の路線であることから、東急電鉄としては新たな1ページを迎えました。目黒線はこの日から新型の3000系が運転を開始しました。当日はダイヤが大幅に乱れましたが、特に目立った混乱はありませんでした。また、両線ともワンマン運転を開始し、目黒線では相互乗り入れを行う地下鉄南北・三田線との相互乗り入れ協定に基づいてホームドア方式を採用し、多摩川線では池上線と同タイプホームセンサー方式を採用しました。当面の間は車掌が乗務していましたがラッシュ時を除き次第にワンマン運転を開始しました。
これと同時に目黒線区間はATC化され、同時に7200系・7700系等の18メートル級車両の姿は目黒線区間では普段、見ることが出来なくなりました。
その一方、多摩川線区間は池上線と車両の共通運用が図られ、合わせて全列車3両編成となりました。また、車両基地がこれまでの奥沢から池上線の雪が谷大塚となったため、多摩川線から池上線へ直通する列車も登場しました。目蒲線時代は、雪が谷大塚検車区で月検査などの定期検査が行われていましたがその際、池上線区間は4両対応となっていないため、雪が谷大塚−蒲田−奥沢間を回送扱いとして運転していました。


目黒線にはホームドアが設置された。

2000年9月26日の相互乗り入れを目前とし、目黒線では各駅にホームドアの設置が急ピッチに進みました。ホームドアをなぜこの時期に設置開始をした理由は目蒲線時代は車両が18メートル3ドアであり目黒線の20メートル4ドアとでは規格が異なるため、武蔵小杉、新丸子、多摩川の3駅を除いて目黒線開通前までは一部駅のホーム先端部のみにしか設置されませんでした。


高島平駅に入線した3000系試験電車。
目黒線が開通してから1日後、日中の時間に限り、都営6300形の試験電車が頻繁に目黒線内で試運転を行いました。東急3000系も都営三田線の志村検車区に貸し出され、三田線内で試験走行を行いました。
2000年8月の下旬から9月の土休日になると都営6300形の試験電車が目黒駅まで頻繁に乗り入れるようになり、東急3000系も営団南北線麻布十番駅まで試運転を行っていました。
しかし、この試験運転期間中は目黒線のダイヤが大幅に乱れる日が多くありました。


目黒線区間にも姿を出すようになった営団9000系。
2000年9月22〜25日まで、目黒行と表示した。奥沢にて

地下鉄南北・三田線との相互乗り入れをあと4日と控えた2000年9月22日に目黒線は地下鉄乗り入れ時と同じダイヤへ改正しました。これは開業時に大きなダイヤの乱れを無くすために営団・都営・東急の乗務員が他社の車両に慣らすため営団9000系、都営6300形が目黒線内での運転を開始しました。このため、2000年9月26日までの4日は目黒−溜池山王・三田間を回送扱いとして運転しました。また、この日から目黒線から3000系を見る機会が少なくなり、乗車するのに貴重な存在となりました。目黒線内では日中、営団・都営の両社の車両が競演することになり、ついに待望の地下鉄線直通の日が刻々と近づきました。目蒲線時代では考えられなかった地下鉄線との直通運転ですが、大規模な改修工事が終わり、目黒線区間では目蒲線時代の面影が次第に少なくなりました。

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