東急目黒線の歴史

〜目蒲線最終期編〜


今は無き7200系が活躍していた頃の目蒲線。
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東急目蒲線は、2000年8月6日より東急目黒線(目黒−武蔵小杉間)、東急多摩川線(多摩川−蒲田間)の2路線へ分割され現在は存在しません。同時に多摩川園駅も多摩川駅へ改称されました。
目蒲線は1922年に設立された、東京急行電鉄の全身である目黒蒲田電鉄によって建設が進められ、1923年に目黒−丸子間(現在の沼部駅)が先に開通し、その後同年に、丸子−蒲田間が開通しました。開通時は”目黒線”の名称でしたが全線開通後に”目蒲線”に改称されました。
目黒蒲田電鉄はその後、東京横浜電鉄(東横線の全身)、池上電気鉄道(池上線の全身)と合併し、現在の東京急行電鉄となりました。目蒲線は開業当初は1両編成だったそうですが、1980年代には3両編成、1990年代になると輸送力増強として4両編成になりました。大昔には一時期、目黒から東横線・横浜方面へ直通していた列車もあったようです。しかし目蒲線は目黒−日吉間(現:目黒線)と多摩川園(現:多摩川)−蒲田間(現:東急多摩川線)の2路線へ分割し、目黒線区間とは地下鉄南北・三田の両線と相互直通運転を開始する計画が持ち上がりました。


 目蒲線・池上線路線案内図。画像をクリックすると大きな画像が見られます。

目蒲線が2路線へ分割する計画が持ち上がったのは1985年の運輸審査審議会の答申「首都圏における鉄道網整備」で赤羽岩淵から目黒までを結ぶ営団南北線と三田から南へ延伸するように都営三田線三田ー目黒間が答申された事がきっかけでした。当時から東横線の通勤ラッシュ時における混雑が酷く、混雑緩和を図るために東急電鉄は、東横線の多摩川園、田園調布に接続している目蒲線に着目し、合わせて田園調布−日吉間を複々線化とし混雑緩和を図る事から工事が着工されました。


地下化された大岡山駅。

地下鉄乗り入れのため、目蒲線は様変わりを始めるようになり、8両対応にする必要があった目黒線区間の各駅では地下鉄車両の20メートル級車両×8両へ対応するため工事が行われ、このうちホーム延長が困難となった田園調布、大岡山は地下化され、多摩川、不動前は高架化され、地下鉄との乗り入れるため目黒駅は地下化されました。このうち、西小山、武蔵小山の両駅は現在も地下化工事が進められていますが、着工が遅れ現在は地上駅のままでかつ6両分のホーム延長を行った仮駅舎で営業しています。しかし現在、目黒線は西小山・武蔵小山の両駅が地下化されていない事から6両編成で運転しています。その一方、多摩川線区間は車両の減車化(4両→3両)が行われたため、大規模な工事は行われませんでしたが1両だけドアが開かなかった鵜の木駅も現在では全車両のドアが開くようになりました。

今はなき東急7200系と東急3000系との並び。

目蒲線最終期は車両の面でも大きな動きがありました。目黒線区間では新型の3000系車両が投入されることになって乗務員訓練のため夜間時間帯において試運転が行われました。また、保安装置もATSからATCへ切り替えるため各種工事が行われていました。この事から車両基地であった奥沢(現在は留置線)では7200系と3000系が並ぶ場面も見られました。その他にも相互乗り入れをする営団南北線・9000系車両、都営三田線・6300形車両の乗務員訓練を行うため2000年4月の終電後において試運転が行われました。このため一時期、都営6300形と目蒲線の車両(7200系、7700系)が並ぶ光景も見られました。(残念ながら写真はありません)
一方、多摩川線区間では池上線と車両の共通運用を行うため、4両から3両へ減車する必要になったことから、目蒲線分割後も継続して使用する7700系、1000系を3両へ減車化するため2000年7月頃から3両編成の車両が見られました。合わせてワンマン化改造も行われました。しかし7200系は老朽化とワンマン改造するのに膨大な費用が掛かることから、2000年8月4日限りで東急線から営業運転を終了しました。


3両編成となった7700系。
 

目蒲線最終日には全列車が多摩川線へ継続してしようされる7700系、1000系の3両編成で運転され、編成が短いことを注意する駅構内放送・車内放送も流れました。
 そして、目蒲線は2000年8月5日の終電を持ち、77年間の歴史に幕を下ろしました。合わせて多摩川園駅は多摩川駅に改称されました。
 

目蒲線最終期編 → 新生目黒線編