餘部−浜坂−諸寄−前田純孝

最終更新 2014/06/30    

  
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寝台特急出雲 サクラ2008 餘部鉄橋掛け替え工事 餘部鉄橋2012

 

 NHKテレビの連続ドラマ人間模様シリーズ「夢千代日記」のタイトル画面では,トンネルを出た列車が餘部鉄橋を渡るシーンが印象的でした.
 夢千代日記の三番目のシリーズ「新夢千代日記」は,1984年1月15日から3月18日まで10回放映されましたが,松田優作演じる記憶喪失のボクサーに対する吉永小百合扮する夢千代の,病ゆえのかなわぬ恋を描くと共に,薄幸の歌人前田純孝が故郷諸寄で孤独な死を迎えるまでの悲痛な短歌十四首がテロップで流されました.
 前田純孝は,明治13年(1880)兵庫県二方郡諸寄村の名家の長男として生まれるも,家運すでに傾き,幼くして両親の離婚による母との離別,継母との葛藤,苦学して兵庫県御影師範学校,東京高等師範学校を卒業し,大阪府立島之内高等女学校教頭となるも,肺結核を病み妻子とも別れ,諸寄で孤独のうちに明治44年(1911)31歳の若さで死んでしまいました.
 与謝野鉄幹に「東の啄木,西の純孝」と言わしめたほどの歌人ですが,家庭的にも経済的にも恵まれず,また肺結核により夭折するというように,啄木と同じような境遇にありながら,啄木は歌人として有名になったのに反して,純孝は全く無名のままで埋もれてしまいました.私も,新夢千代日記を見るまでは全く知りませんでしたが,彼の評伝や歌集を読んで,哀しくもまた美しい歌の数々に感動しました.
 餘部鉄橋は,明治45年に完成した山陰線鎧-餘部駅間の谷間にかかる高さ41m,長さ310mの鉄橋であり,かっては東洋一の規模を誇る高架鉄橋でしたが,昭和61年(1986),回送中の列車が突風にあおられて転落し,橋の真下にあった水産加工工場を直撃し、従業員5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡するという事故を起こしました.その後の強風時の安全運行の規制が強まったこともあり,山陰線の定時運行確保のために,2006年にはPCラーメン橋に架け替えることが決定されました.
 これまでに,餘部鉄橋を列車で渡ったことは一度だけありましたが,間近に見たことはなく,無くなる前に見ておかねばと思っていました.また,純孝のことを知るにつけ,彼の生地諸寄を是非訪れたいと常々思っていましたが,思いがけず,その機会を得ることができました.
                                (2005/06/10)
餘部鉄橋
餘部駅の撮影ポイントから見たところ(拡大

真横から橋脚を見る

この角度ではフェンスで中がよく見えない 餘部鉄橋が正式名か?

真下から(拡大

列車が通るのを待っていると乗り遅れるし....
全景 収まり切りません

とにかく大きい
餘部駅方向

鎧駅方向

列車転落事故(昭和61年,1986)慰霊碑

橋脚部 リベット接合とボルト接合の両方が見られる

説明板 余部鉄橋となっている(拡大

説明板 餘部橋りょうとなっている(拡大

近くの海

パノラマ写真にすればよかった
下り浜坂行き列車が来た

上り城崎行き列車が来た

近畿の駅百選認定証 餘部駅ホーム待合所にある

香住町(現香美町)観光案内図 餘部鉄橋は左端(拡大

列車の中から鉄橋下を見る

地上41mからの眺め

飛行機から地上を見たのとそっくり

海側を見る

餘部鉄橋2枚続きの古い絵はがきはこちらから


雪・餘部
餘部鉄橋に関連した写真集

さようなら餘部鉄橋 
 2006年冬,小雪に煙る最後の餘部鉄橋の写真
続餘部鉄橋
 未明の餘部駅
寝台特急出雲
 平成18年3月18日に廃止されました
パノラマ餘部鉄橋
 餘部鉄橋のパノラマ写真
サクラ 2008 餘部
 掛け替え工事によって消えるサクラの木
掛け替え工事2010
 掛け替え工事によって餘部鉄橋列車運行は終了
特急はまかぜ1号 13:05餘部駅通過(拡大

上り豊岡行き 13:31餘部発(拡大

下り浜坂行き 13:38餘部発

湯村温泉
 夢千代日記の原作の舞台は浜坂温泉でしたが、ロケ地は湯村温泉でした。
 湯村温泉は、JR浜坂駅からバスで25分。山陰では城崎温泉と並んで古い歴史を持つ名湯です.中心の荒湯源泉では98度の湯が沸き出しています.(2006/01/01)
春木川沿いの温泉街

映画「夢千代日記」のポスター


前田純孝
明治13年 1880 兵庫県二方郡諸寄村にて,父純正,母うたの長男として生まれるが,そのとき,父の愛人ゆきとの間に義兄貞雄がいた
明治17年 1884 両親の離婚,母うたは実家の村岡へ帰る
明治20年 1887 鳥取県師範学校付属小学校入学
明治28年 1895 高等科4年を卒業.帰郷し,龍満寺で寺子屋式課外授業を始める
明治30年 1897 諸寄小学校代用教員となる
明治31年 1898 兵庫県師範学校(後の御影師範学校)入学
このころから作歌活動を始める
明治33年 1900 与謝野鉄幹雑誌「明星」創刊
11月,明星に短歌二首掲載される
明治35年 1902 東京高等師範学校入学
明治39年 1906 東京高等師範学校卒業,大阪府立島之内高等女学校教頭として赴任.学校経営に多忙を極める
夏休み,諸寄への帰郷の際,春来峠にて発熱,路傍に倒れる
明治40年 1907 3月,親族の反対を押して秋庭信子と結婚
前田純孝(東京高師時代) 明治41年 1908 10月,長女美津子誕生
文献(1)より引用 明治42年 1909 2月校長室の一隅で倒れて吐血.信子も病のため母子ともに明石に帰す.10月,小康を得て,妻の実家にて療養生活に入る
明治43年 1910 5月,妻子と別れ,独り諸寄に帰る
明治44年 1911 大晦日から連日喀血し,病状悪化する
1月19日深夜,父の家を出,かっての乳母の家に移る
2月やや小康を得て,唱歌の作詞,短歌など創作活動を続ける
9月25日誰にも看取られることなく死去(享年31)
(この年譜は文献(4)によるものです)


前田純孝の歌碑

 前田純孝の歌碑は兵庫県内5箇所にあります.
 昭和42年3月,国道9号線の開通を記念して,村岡・温泉・浜坂3町によって春来峠に歌碑が建てられました.
しかし,昭和50年,春来トンネルが開通してこの国道は旧道となったため,この歌碑もすっかり忘れられてしまったようです.是非行ってみたいと思ったのですが,浜坂からの交通の便が悪く,見に行くことはできませんでした.夢千代日記の湯村温泉に行くことがあれば,必ず行ってみることにしましょう.

前田純孝の歌
 牛の背に我も乗せずや草刈女春来三里はあふ人もなし
              兵庫県知事 金井元彦書
文献(1)より引用


諸寄集落センター前歌碑

 昭和19年5月,甥の守安直孝が私費で海辺に近い墓所に建てたものです.31年春,墓地移転により,西浜中学校裏山の白山公園に移されましたが,55年4月,生誕百年記念事業の一環として,現在地に移されました.

 歌碑には与謝野寛(鉄幹)の追悼歌(直筆)とともに刻されています.苔むした歌碑で読みとりにくいものでした.

鶏のこ恵朗に比久春の日に光のとけき桃の一村
                翠渓
まごころの光れる歌をなほよめバ伝へて久しわかき純孝
                与謝野寛
                      (拡大
 翠渓は,純孝の号です.
 歌碑に刻まれた鶏は,「鶏」の字ではではなく,谿の偏部分に隹となっています.
 この歌が純孝の代表作といえるかどうか,どうしてこの歌が選ばれたのかは不明です.   
          


諸寄岡の浜歌碑

 昭和44年11月,浜坂町教育委員西川甚五郎らが有志とともに前田純孝顕彰会を結成し,これを建てる(拡大

いくとせの前の落葉の上にまた落葉かさなり落葉かさなる
                   純孝
                署名は純孝の自筆
 これまでに見た写真では,歌碑の周囲は石柱と鎖で囲われていましたが,行ってみると,周りには何もありませんでした.この石は,私の郷里香川県産の庵治石であり,何となく懐かしさを覚えました.

 左の写真は諸寄港です.


先人記念館・以命亭近くの歌碑

 平成17年に建てられたものです.

磁石の針ふり乱さんは無益なり磁石はつひに北をさす針
                   翠渓歌


居組七坂八峠歌碑

 昭和47年3月,道路改修工事完成記念として,兵庫県が建立した純孝辞世の歌碑です.(居組汐吹崎公園)

風ふけば松の枝鳴る枝なれば明石を思ふ妹と子を思ふ
                    翠渓
               兵庫県知事坂井時忠書

                    (拡大

その他

岡垣徹治の歌

名にし負ふ但馬因幡の境なる大松はけふ海にして仰ぐ

 岡垣徹治(明治23年〜昭和43年)は,純孝と同郷で,生涯を教育に捧げ,最後は豊岡中学の校長を勤めました.子供のころ,純孝の師範学校制服姿に惹かれ教育者の道を選んだということです.

 何とこれはモリアオガエルの卵です.
 上の歌碑の直ぐ横で見つけましたが,その下にあったのは長さ1m足らずの水盤のようなものでした.うまくオタマジャクシになれるのでしょうか.

 これも近くにあった歌碑です.

つづら折りおりては登る七坂も道ひらけ行く御代ぞ?しき
                   福井久造

岡垣徹治の歌

居組なる不動の山の蝉しぐれ結びが浦に船つきにけり
              (居組魚見台公園)

 これは,純孝の歌碑に行くまでの途中にありました.岡垣徹治の歌碑は諸寄に3基ありますが,もう一つは見落としました.


しばしばも汝とながめし大ぶりの島はもとはに忘れざらなむ
                (諸寄城山園地)

龍満寺

 龍満寺は前田家の菩提寺で,純孝の墓もここにあります.小学校高等科4年を卒業後帰郷し,15歳で村童を集め,ここで寺子屋式の教育をしました.東京高等師範学校卒業後,大阪府立島之内高等女学校初代教頭として赴任し,夏休みに帰郷の折り,春来峠で病を得て,諸寄に帰るも生家には行かず,ここ龍満寺にしばらく逗留しました.
 墓地はこの裏山にありましたが,純孝の墓を知ることはできませんでした.


前田純孝の歌

歌碑に残された歌の他に私の好きな歌をいくつか
はは君とよびては叔母をなかせたるをさな心を今にして泣く 明治35年(東京高師一年)
吾れこそは香爐跳ね獅子御仏の前に火を吐く香爐跳ね獅子 明治37年(東京高師三年)
君をおもひ涙する夜となみだせぬよるとある我をうたがひにける 明治39年(島之内高女教頭)
天地に君あることを忘れたるその一瞬に我は死ぬべし 明治40-43年(夕陽丘高女教頭)
君をおもふ我をはたおもふ君我の二人の中のいとし児ぞこれ
せめてだに山の嵐の吹き荒れてわが病む窓に桜ふらせよ
我死なば親も泣くらん子泣くらん妻も泣くらん泣かざるは我 明治43年春以降(諸寄病臥)
わがむくろ途に捨つとも野良犬もきて食はぬごと痩せにけるかな
我が為に汽笛は声を上げて泣く故郷の山もいでて又泣く
但馬なる生野に金をほらむとて帰るにあらず塚をほらんため
半風子どもまだわくほどの血のかをり我にあるかと心うれしき 半風子のうた
骨は父に肉は母にと返すときそこにのこれる何物ありや
ふと目ざめ虫の音をききふと目ざめ風の音きく秋のさびしさ
悲しみは悲しみを呼び悲しみは悲しみを訪ひ吾れに集まる
我妹子は我がやまひをみとるべく嫁ぎもこしや生まれもこしや
今の世に文珠支利なし憶良なし病むべき時にあはざりしかな 明治44年(臨終まで)
但馬牛日本一の名を得たりたじまをのこは病を得たり
人のため流るる涕のこるかや我もたふとし尚生きてあらむ


新・夢千代日記に収められた歌十四首

病めるもの世に用はなしかくのごと我は思へり汝も思ふや ふるさとの歌
継母にいぢめられたる一列の子のゆくごとし木枯はなく 明治43年春以降
わが病癒やす薬の新薬のありとも書かぬ新聞をよむ 明治43年春以降
大あらし村の漁師の生き死にの解決もなく夜の幕は垂る 明治43年春以降
女等のおらぶののしる泣く声すあらしまだ止まぬ漁村のあした 明治43年春以降
草の上に我れ血をはけば忽ちにひなげしの花芍薬の花 夢のうた
かりそめの睫毛合ふ間ぞ恋なりし開く眼は涙なりしよ 明治39年
磁石の針ふり乱さんは無益なり磁石はつひに北を指す針 明治43年春以降
ただひとり寂しき国にのこされて小指かみても染むる名のなき 明治36年
何物か追ひくるけはひ足音は枕にせまるいよよますます 明治43年春以降
我が為に汽笛は声を上げて泣く故郷の山もいでて又泣く 明治43年春以降
わが胸に眠る獅子あり目をさましたてがみたてて咆ゆる日あれど 明治43年春以降
悲しみは悲しみを呼び悲しみは悲しみを訪ひ吾れに集まる 明治43年春以降
人のため流るる涕のこるかや我もたふとし尚生きてあらむ 明治44年


葛原しげるのこと

 ♪ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む♪で有名な童謡「夕日」の作詞者は葛原しげる(正しくは茲に凵と書く)です.
 葛原しげるは,私が住んでいる福山市と合併した元の神辺町の出身で,東京高等師範学校では純孝の2年下の後輩にあたり,学生時代から親しく兄弟のように交際していました.卒業後も純孝宅を訪問したり,病中の純孝を見舞ったりしました.特に,諸寄で闘病中の純孝から唱歌,長詩,歌稿などを受け取っては金に換え,生活費や薬代として送って,純孝を最後まで援助しました.
 この事実を知ったとき,純孝と福山に大きな接点があることに,妙な感慨を抱きました.事実,しげるが卒業した広島県福山中学校(現在の福山誠之館高校)には,純孝と交わした書簡集が保管されているそうです.
 私はずうっと前に中国地方の地震の記録を調べているうちに,備後地方の地震については「葛原勾当日記」に記されていることを知り,その著者勾当の孫がしげるであることを知りました.勾当は,名前が示すように盲目の琴の名手であったとともに,木活字というものを考案して生涯の日記を綴ったことで有名です.現在神辺に残っているしげるの生家は勾当が建てたものです.
葛原しげる
文献(4)より引用



このページの構成にあたって,次の文献を参考にしました.
(1)弓削豊紀:虱のうた 但馬の啄木 前田純孝の生涯とその歌集,前田純孝顕彰会,昭和49年
(2)西村忠義:評伝 前田純孝 永遠なる序章,健友館,昭和59年
(3)西村忠義編:愛蔵版 前田純孝歌集,むなぐるま草紙社,昭和61年
(4)西村忠義編:前田純孝年譜書誌資料集成,むなぐるま草紙社,昭和62年
(5)吉村康:春来峠 小説前田純孝,まろうど社,平成6年

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