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 今は合併されてしまったが、あの頃の多度津町は、豊原、四箇、白方の三村に隣接していた。五十歩、百歩の田舎っぺだった筈なのに、町の子供は村の子供を「ポテ」とか「ポテ公」と呼んだ。嘲笑的で嫌な響きをもつこの言葉は聞かされる側にとっては大変腹立たしく思えたに違いない。当時、町の子と村の子は、決して打ちとけようとしない許りか、越境して目立ったことでもしようものなら、時には険悪な空気がただようことさえあった。この傾向は、町の子が村へ行った時の方がより強く見られたようで、田舎へ行く程「よそ者意識」が強く、閉鎖性の強い社会感覚が子供の世界まで悪影響を及ぼしていたのであろう。「ポテ」という言葉も、そのような背景の中から生まれたのではなかろうか。

 公園の西北端にコンクリートの立派な展望台があった。そこから崖下に通じる小道があって、”山越えの道”と呼ばれていた。大雨が降ると土砂が流され、所々にけずり取られた痕跡を残した。古いひどい道だったが、何といっても、白方への近道だったので、利用する人は多かった。途中には葡萄畑があり、町で唯一の果樹園だった。北山から白方に通じるルートは人影も殆ど無く、雑木林が多かったので、甲虫の棲息が比較的多かった。灼熱の太陽に照らされて、今にも山全体が醗酵しそうな熱気の中を、唯一人足繁く通ったが、多度津では珍種を見かけた記憶は殆どない。それでも最初にナミクワガタを手にした時の感激や、コカブト、アカマダラ玉虫に出会った時の嬉しさ、ハンミョウの輝く色調に神秘の驚きを感じた事など、今も忘れることの出来ない思い出である。

 上生寺と八幡様を過ぎると、そこはもう弘法の里。誕生寺や海岸寺等、空海縁の寺が散在し、近くの雨霧山には弥谷寺があって、幼少時の空海作と伝えられる石碑が至る所に刻まれていた筈である。偉僧空海のルーツであるこの地区が広く世に知られていないのは何故だろう。

 ミタチの山々に連なる野山には、殆ど樹林がなく、細い小川が谷間を流れ、「石榴石」を見つけることが出来た。雨霧と野山に雲がかかったら、間もなく、多度津の町にも雨が来た。

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