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私は今、殆ど消えかかった記憶をどうしても思い出してみようともがいている。凄く集中して脳細胞の引き出しを探しまわっているわけだが、どんなにもがいても、断片的で、しかも霧の中に浮かんだ超ソフトホーカスな光景しか見えてこない。一年生の時、いや、ひょっとすると幼稚園の頃だったのかも知れない。生まれて初めての遠足に出かけた。草深い小径をはしゃぎながら登って行ったのは「多度津山」である。海抜95mの小高い丘だったが、人家は南斜面に一軒あっただけで確か「樫谷さん」?といったように思う。小さな池にそって菜園が作られ、枝折り戸の横に桃だか桜だかわからないが花木が鮮明で、こじんまりとした平屋建が樹々の間に見えるあの光景は、まるでおとぎ話の中のことのように思い出される。確かあの家を右に見て進んだような気がするので、その後、聖天様が建てられたあたりになるのだろうか。平らな高台になったところまで来て、お辯当と云うことになった。ふと見ると谷向うの木の間に、無人らしく荒れ果てた何棟かが見える。それは古い「避病院」と云うものだと誰かが説明してくれたが、まるでお化け屋敷のようにこわい所だと思えた。
一二年後、善通寺の工兵隊がやってきて、多度津山は一変して桃陵公園となった。全山回遊式に舗装され、到る所に桜の幼木が植えられた。一太郎ヤーイの銅像が作られ、展望台や遊び場や動物園のような猿のオリもつくられた。集会場もあったし、売店が三軒、公衆便所が4つもあった。所々にしゃれた石組や朱塗りの太鼓橋が日本庭園風に作られ、当時としては大工事だったに違いない。急に町が変貌し、桃陵饅頭や一太郎センベイと云った新しい名物まで出現した。大きな遊び場を得た学童達は、胸に銀のバッジをつけることを義務づけられた。「愛護会」である組織的草抜きボランティアの会で、学校から隊を組んで公園へ出かけたものだ。
人々は大変な力の入れようだったので、間もなく、西讃一の櫻の名所となり、花の頃には、近郷近在の人々で大賑わいを呈した。その頃「桃陵祭」という企画が町を挙げて盛大に行われ、中でも獅子舞の競技会は目をみはる程のものだったが、しのびよる戦争のかげと供に、急速に下火になってしまったのは残念である。
公園からの春の眺めは美しく、豊原や四箇村の「タンボ」は、れんげと菜の花の絨毯のようだったし、春霞の中に、金倉寺、筆岡、善通寺の町並みが浮かんでいた。
桃陵公園からの眺望
公園からの眺め,中央おむすび形の山は飯野山(讃岐富士)