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家中の浜は、そこに測候所があったので、「測候所の浜」とも呼ばれていた。
海水浴でにぎわう季節以外は嵐の日を除いて、内海のさざ波が静かに打ち寄せ、あの微風の音が今でも耳に残る白砂青松の海岸だった。春には潮干狩が出来て潮吹き(あさり)が取れたし、地を這う許りの枝ぶりの松の大木があったりして、わんぱく盛りにはこたえられない遊び場だった。
あの頃南国の五月にはもう大変暑い日があった。そんな日には泳ぎ度くてうずうずしたものだが、親達から許される筈もなかった。幸い私には遊びの師と仰ぐすばらしい友達がいて、目と目で合図をしては五月の海に飛びこんだ。てぬぐいもフンドシもないので仕方がないから、パンツのままである。這い松の上で遊んでいると、ズブぬれのパンツは苦もなく乾いてしまった。鉄道工場のサイレンが五時をつげる頃、何くわぬ顔をして家に帰るのだが、乾いた海水がおでこや鼻の頭に潮を吹き、泳いだことを白状しなければならない日もあった。
浜辺の中央に誰が名付けたものか”くずれ波止”と呼ばれる石盛りがあり、いつの頃、何の為に作られたのかは遂に知ることも出来なかったが、名前通り波止場のくずれたものと考えるのが大変自然で、皆、納得していたようである。満潮時には先の方では、一つ二つの石が水面に出るのがやっとで、水深は2m以上になったと思う。石につかまった手で身体をさヽえ、自分の浮力を確かめながら、見よう見まねで、最初の泳ぎ「犬かき」を覚えたのは、私許りではなく、多分、多くの仲間達がくずれ波止の恩恵と思いでを持った事だろう。
JOBKは、「多度津測候所発表、香川県地方。今日の天気は・・・・」と毎日のように、我が測候所の存在を電波に乗せていたし、四国でどこよりも早く鉄道が敷かれたので、国鉄とは伝統的に関係が深く、その頃としては本格的な鉄道工場がつくられた。町には四国全土に電気を供給していた電燈会社(四水)があったし、この絵の中に見られる火力発電所には二基の巨大なタービンが四六時中うなっていた。
港湾施設もすぐれていたので、総ての近代都市への布石が整っているかに見えた。当時の人口は6000人。(高松8万、丸亀3万)都市としての基盤が余りにも小さく、半世紀の間に、その中枢性を徐々に失っていったことは、この浜のさざ波が聞けなくなった事と供に大変残念なことである。
(遊びの師は数多くいたが、此の場合は、塩田の強ちゃん、岡本の勝利さんだった)