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家中の浜には、夏が来ると小屋がけが出来た。2,3軒の人が権利を保有していたらしく、毎年同じ顔ぶれだった。統一された簡素な作りは、真夏によくマッチして中々味があり、仕切の簾を巻き上げると二つの貸席が大きな一つの貸席にもなるように出来ていた。団体様O・Kと云う趣向であったし、一夏を通じて貸席を契約することも出来る便利さもあった。今にして思えば、リゾート商法の草分け的な経営が遠慮深く行われていたようである。
どの店にも、関東煮(おでん)、かき氷、あめゆ、それにいり豆(大豆)を袋に入れたものを売っていた。子供達はその袋をフンドシに結びつけ、泳いでいる間に、潮水でふやけ適度に味のついたのを袋から取り出して食べたものだ。海水浴場につきものの西瓜も勿論あったが、冷蔵庫の発達していない時代に真夏の海辺で食べる西瓜の味は、井戸の中につりさげ冷やして置いたものには及ぶべくもなかった。
ここでは何といっても「あめゆ」である。底のあついそり身のコップになみなみとついでくれたあのあめゆは、生姜がきいていて、泳ぎ疲れた少年の咽喉に優しかった。
当時男の子はみんなフンドシ。黒猫印の紐を結ぶだけの簡単なものもあったが、多くは六尺フンドシで、色は黒。中には「赤フン」という格調高いファッションを楽しむ仲間もいた。水着もないわけではなかったが、それは水泳大会に出る選手達のものと思われた時代だった。女の子は、さすがに、水着を着用したが、黒とか紺の地味なものが多く、大和撫子ぎりぎりのデザインは慎しみ深く、野暮ったいものだった。それにしても、世界に冠たるあのフンドシ文化が日本風○から消えつつあるのは残念なことだよネ。