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四つ角: 琴平に通じる国道と駅から本町に到る県道の交差点を人々は「四つ角」と呼び、老人の中には四つ辻と云う人もあった。町中に四つ角らしい交差点はここ以外にはなかったので、いつの間にか、固有名詞化したものと思われる。(比較的大きな三叉路は大阪屋の前と東浜にもあった。)一角を警察署が占め、火の見櫓がそびえていた。江戸時代からの石の道標も立っていたし、正面には町役場がのぞまれ、かっては町の中心的風情がただよっていた。1区、2区、10区、11区を除けば残りの地区の大部分の子供達はここを通って学校へ通った。天皇陛下もお通りになったし、乃木大将も通って行った。毎年のように駅伝が駆け抜け、遊佐選手もここを通ってロスアンゼルスとベルリンの五輪へ旅立った。浜寺の全国大会で優勝した多中の相撲部は、歓呼に迎えられて港に上陸し、胸を張って行進したのもこの道である。秋祭りの御神事の行列は、態々遠廻りしてやって来たし、町の行事や学校の催事があると、いつも人々は列をなして往き来した。マニンサン(摩尼院)とタモインサン(多聞院)に僅かに面影を残し、この絵の風物の総ては、もう、消えさってしまったようだが、直ぐ近くで生れ育った私にとっては、路傍の石に到るまで思い出のある「四つ角」である。

 役場の位置は今も同じだが、絵の建物は元の木造建築(細部についての記憶不詳)で隣には、手動式消防ポンプを置くにしては立派すぎる位の「消防小屋」があった。両方供(大正期の建造らしく)名声高い今井浩三町長の発案であったとか。建築中のある夜、激しい暴風雨があって出来上がっていた木組がもろくも倒れてしまった。翌朝早く心配して駆けつけた町長や町役場の人々の前に高札が立ち、「壊れる筈だよ、構造が悪い」と書かれてあったと言う。警察では犯人が誰であるかを発見出来なかったが、町長には直ぐに判り、一升を下げて犯人の家へ行き、杯を交わして親好を暖めたそうである。私はそれを書いた人の末裔でもある。 

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