16
陰暦9月9日は「重陽の節句」と云い、古く中国より伝わって、平安時代には宮中の年中行事として観菊の宴が開かれたとか。五節句の一つであった所から、西讃地方の一帯では、何時の頃からか、この日を「午(うま)の節句」と呼んで、色々な馬を飾る風習があった。多くは玄関や庭先に置かれ、特別な形式がなかったので、レイアウトにも思い思いの工夫が見られ、人目を引いては、一人でも多くの人々と共に、その家の男の子の健康を願ったようだった。男の子が生まれると「初午」と云って飾馬を購入する家が多かったので、伊勢屋の店頭が馬一色になると夏は終わった。圧巻は「だんご馬」で、大抵の家に木と鉄の芯で出来た馬台があり、米の粉を蒸し、まだ熱々のものを馬台にかぶせた。手にたっぷりと水をふくませながら、形を整え、食紅で彩色した。くつわやガラスで出来た馬の眼は製品として売られていたから、どれ程多くの需要があったかを窺い知ることが出来る。馬体の中央は木のまま残され、色鮮やかな帯で飾ると出来上がりだった。中には馬よりも兎に近いようなものもあり、それが又、かえって好ましく愛嬌があった。田中の羊かん屋の小父さんは、名実ともにだんご馬の名人だった。
僅かあれ丈の町に、驚く程多くの神社があった。大部分が異なった神々が祀られていて、御先祖様達は随分欲深く庇護をお願いしたものだと、改めて、日本の信仰を見る思いがする。堀江の天神さん、桜川の櫂立さんと天神さん、南町の荒神さん、浜の町のオイベッサン、本町のサイノキさん、堀の権現さんと白髭さん、スガの金比羅さん、東浜の辯天さん、白方には氏神様の八幡さんがあった。その上、多聞院の毘沙門さんと公園の下の閻魔さんが加わって、例年のように、それなりの市が立つお祭りがあった。特筆したいのは「サイノキサン」の作りもので、あの種の趣向は他では見たことがない。八幡さんの御神輿が一里の道を渡御して、御神輿はスカの金比羅さんで二泊三日の旅をする仕組みになっていたのも珍しい。神様も仏様も総て”さん付け”で呼ばれたのは、神々が皆それ程近く人々の生活の中にオジャッタ親しさの為であろう。
四季折々の催事も多種多様で、真冬の寒行と夜廻り、立春の豆まきには特殊な風習があり、子供達は袋を下げ「小母ハン豆ばわしんか。こちゃ捨ててやる。」と云いながら、知った家々を廻った。道隆寺の「鴨市」は春の訪れを告げるもので、植木市と見せ物。特に「のぞき」のほととぎすの口上と旋律は何時の間にか記憶の中に永住してしまった。
春の七箇所廻りが終わると公園の桜が咲き、町のにぎわいは最高に達した。中ノ町から本町にかけて、夏の「土・日」には夜店が出て、ゆかたがけで下駄をはいて出掛けたが、そこで友人達に会うと早速ズックにはき変え、アセチレンガスの香りがする雑踏の中を夜遅くまではしゃぎまわることが出来る第二部の楽しさもあった。辯天さんの花火も夏にかかせぬ風物詩であった。四国遍路が行き交い虚無僧が通った。出し物が変わる前の日は辯天座の町廻りがチンドン屋を伴ってやって来て、主立った街角では口上よろしくPRにつとめた。総て絵になる思い出である。